alternative autonomous lane No.18
1999.7.20

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目 次



【座談会】

成果と残された問題点−−新ガイドライン関連法案の攻防をふりかえる (天野恵一・太田昌国・国富建治・司会=岡田剛士)

【議論と論考】

「日の丸・君が代」法制化に対抗するために(浅見克彦)

地方分権一括法案――どこが問題か(白川真澄)

「君が代」首相の新見解と憲法――転換の意味を「よくよく考えて」みよう (天野恵一)

〈非暴力〉とは警察のいうままになることではない――5・21反「戦争法」大結集をめぐって(天野恵一)

【無党派運動の思想】

天野少年の思想へ(平井玄)

【チョー右派言論を読む】

なんだかキナくさい国会会期大幅延長(伊藤公雄)

【書評】

長谷川啓・責任編集『〈転向〉の明暗――「昭和十年前後の文学」』「文学史を読みかえる」研究会・編 (池田五律)






《沖縄の反基地闘争に連帯し、新ガイドライン・有事立法に反対する実行委員会総括座談会》

成果と残された問題点――新ガイドライン関連法案の攻防をふりかえる

天野恵一・太田昌国・国富建治(司会・岡田剛士)

――この、通称「新しい反安保実3」では『向い風・追い風』というニュースレターを出してきたわけですが、来る七月三一日のシンポジウムをもってとりあえずの区切りとします。それに向けてのニュースレターの最終号ということで、座談会をやってみたいと考えました。黙っていても話したいことはいっぱいあるのではないかと思いますので、たまたま座っている順番ということで天野さんからお願いします。

天野恵一:別に目新しいことが言えるわけではないんですが、法案攻防では負けてしまった。国会の状況を見るならば、勝つ展望のほぼない闘争をやった。ガイドラインだけではなくて、今日も国会行動があった「日の丸・君が代」法制化問題でも同じで、「一体どうなってしまうんだろう」という気分でみんな闘っているというご時世だと思うんですね。
 僕は、今回『インパクション』という雑誌にこの運動の件の原稿を書くにあたって、どこから歴史を区切るかと考えて、反PKO法案の議面闘争から七年ということで考えてみようと、七年前に僕が編集した『インパクション』のPKO特集の臨時増刊号を全部読み直してみたんです。そこで「長い時間がたったんだなあ」と思ったのは、僕がインタビューした小峰雄蔵さん、座談会に参加していただいた剣持一巳さんが、お亡くなりになっているんです。
 あれから何かプラスになって動いた要素はあったのかと考えると、まあ社会党が予想した通りに自己崩壊していって、それから議会内バランスとしてはズーッと保守化していった。そうした中で、大衆運動という側面でのプラスの要素は、そうした動きの後に出てきた沖縄の反基地闘争の突出。これが事態の局面を変えたという部分があると思います。その沖縄の運動が、安保翼賛国会といわれた国会での特措法改悪によって、力で押さえつけられていく構造に入っていった。もちろん基地の県内移設問題も含めて、沖縄の闘いが終わってしまったなんていうことでは全くない。しかし、沖縄人相互の対立のような問題が、例えば補助金行政といった問題も含めていろいろ出てきている。
 だから僕たちの運動のプラスのモメントとしては、沖縄との交流と連帯を、かなり精力的に位置付けてやってきたということだと思う。これが、この実行委員会の指向性としてあったと思う。
 結局、国会での攻防戦では前のPKO法案の時より良くなった要素は全然ない。国会外での闘いで僕たちが力をそそいできたのは、僕に即せばPKO法案反対の攻防の後で作った『派兵チェック』で、反戦運動に焦点を当てた全国的な運動紙、そしてそれを日常的に担うような主体を作ろうと思い立ったわけです。これが、その後の七年間という時間の中で、『全国FAX通信』を作るベースにもなった。そして、この実行委員会をも母体としながら、全国各地で反戦・反基地闘争をやっている人たちとのネットワークを作り、その上に全国共同行動があった。単なる情報交換を越えた人間の交流を作り出したと思う。七年間の中での新しい試み、成果としてはそのあたりかな。

太田昌国:主体状況については、同感できる形でいま話があったので、触れません。いちばん思うのは、この間、僕たちが相手としてきた政府・自民党のあり方に関して、「こいつらは一体何なんだろう」という思いが消えなかった。国会でのやりとりを見ていても、「これは絶対に正しいんだ」という確信を持って突き進んでいるとは言えない。
 新ガイドラインというものが、どの言語で作成されたのか。僕たちが読む日本語の新ガイドラインの文章が、どういう位置付けのものかについて、それを作った当事者の間でも真っ向から違う意見が出ていた。官僚も閣僚も、その場その場でごまかしを重ねたり、自信なげに答弁したりしていて、どこをつついてもボロボロだったと思うけれども、しかし現在の国会内での力関係では、追及も甘く、ましてや票決になったらどうにもできない。
 国会外の動きでも、大きなメディアが、ほとんど問題をきちっと伝えようとしなかった。我々の運動の弱さの反映でもあるのだけれども、とにかくまっとうな議論がなんらなされないまま、それでいながら情勢だけは、まったくあいまいなままにどんどんと進んでいくという渦中に、この数年は居たように思う。そこに、われわれが直面した問題の本質があり、非常な危うさを感じる。

国富建治:反安保の実行委の第一期を立ち上げたのは九六年でした。この三年間ずっとワイワイと討論をしながら行動をやってきたわけだから、そんなに違った総括が出るということではない。大衆運動としては、ずーっと力が弱まってきたと思う。運動の力で反撃して政府の法案を阻止していくことは、絶望的に難しいことであったのは間違いない。少なくとも、この三年間はそうだった。
 だから七年前と比べても、社会党や共産党がどうかということの前に、私たち自身の力量が全体として小さくなってきた。しかし、それにも関わらず、人々が国会に対して、直接に自分たちの政治的な意思なり反対の意見を行動やデモとして表現していく、そういう大衆運動の基本的なあり方、伝統というか、それはとにかく防衛しなければならない−−というところで、あらゆることをいろんな形で引き受けざるを得なかった。そういう風な運動だったのかなと思う。
 九二年には、曲がりなりにも社会党左派というか護憲派のイニシアチブがあり、労組があり、非常に大きな役割を果たした。しかし今回の場合には、そういうものが全くなくて、非常に部分的ではあったにせよ、私たちが――私たちだけがやったわけではないけれども――議員オルグだとか議面行動だとかを設定したり、議員を呼んでくるとか、そういうことまで引き受けなければならなかった。全体としての運動の力量が衰退したから、その分までこちらが色々やらなきゃならなくて、それでヘトヘトになった。そういうあり方だった。

■■地方での運動の活力を■■
天野:確かにPKO法案の時だって、議面行動とかいろいろと手伝ったけど、それは手伝ったという感じで、僕たちは周辺での街頭行動とかデモとかそういう面に力を置いていた。他の主体がちゃんとあったわけですね。それが今回は、婦人民主クラブは以前から含めてずっと議員オルグをものすごくやったのだけれども、とにかく全体的な大衆行動のプログラミングみたいなことを引き受ける部分がバラバラだった。
 例えば『提言』だって、本来なら、文化人なんかのそういう動きがあって、それにどう協力するのかという位置に僕たちは居たハズなのに、本来はインテリ家業をやっていない人間が顔を出さざるを得ないという局面、それはそれで独自に働きかけないと動いてくれないという状況。全体的な落ち込みの中で必死になった数年だったという実感は、確かにそうだな。
 東京という軸ではそうだったけど、むしろ新しい活力は外から来た。その実感を持てるような交流の動きを作ることができた、それが僕たちの運動の一つの成果だったのではないか。

国富:対自治体攻防なんかも含めて、いろんな運動の広がりということでは、東京で議面行動やってたりするのと比べると、地方での運動の総括はかなり違うっていうふうに思う。

天野:各地、地方独自の運動があって、それらの互いの交流がいっぱいでき、さらにその中で僕たちも交流することができて良かったということがある。沖縄は沖縄で独自にどんどんと動いていくし、そういう意味で「東京中心主義」でなくなったのはいいんだけど、国会は東京にあるからね。そこは引き受けざるを得ないという側面があった。課題の大きさと状況のひどさの中で、最低限のことができた。
 そこで僕たちなりの流儀で力を蓄えていくためには、この間あったプラスのエネルギーを自分たちの中で見据えて、その力を拡大していけるような運動の組み立て方を考えていくしかないと思う。だから『全国FAX通信』だって、しばらくはお休みしたいという位にはヘトヘトだったと思うけど、やっぱりあれは全国共同行動と『全国FAX通信』があって、あれだけ外からのエネルギーを実感できる構造になったのであれば、一度くぎったとしても、ちょっと休めないんだよな。

国富:太田さんの言った、自民党のグチャグチャさだけど、自民党はつつかれれば、それはもう何も言えなくなる。まともな説明はできなくなる。しかし、それをバックアップしたのは、ものすごい右派言論というか、新しい国家主義の流れだった。一部の人々の気分でもあるんだろうけれども、ガクゼンとしたのは、太田さんが『派兵チェック』に書いていた中西輝政。要するに、「民主主義ってのは、それは有事が始まる前までであって、有事が始まったらすべての議論は止めにして国家を支持するのが民主主義の鉄則だ」という、ものすごい論理。

天野:湾岸戦争あたりから、ああいった言論が表に出てきた。『諸君!』や『正論』は、もともとそういう体質があったけれども、今はドーッと来ちゃっている感じがする。右派言論が、マスメディアで言論の主流の一角を占めていると実感したのは、結構前からですね。それはズッーと進んできている。逆に運動の言葉には、あらかじめ通路が塞がれているというのか、その問題は確かに大きいと思う。

太田:さっき出た問題で言うと、各地の様々な運動間の相互交流ができたことは、今後伸ばしてゆくべき一つの枝だと思うんだけれども、天野氏が『全国FAX通信』の最終号に書いていたことだが、世論というか全体的な民衆側の意見・運動が十分な力を発揮できなかったこととの関係で、周辺事態法が実際に発動される時に、一体どのような現実が我々の目の前に起こるのか、民間協力とか自治体協力要請っていうのが、どういう規模でどういう形を取るのか。その現実感が、なかなか感じられなかったと思うんです。今、ここまで各地で米軍の訓練もおおっぴらに行われるようになっており、迷彩服を着た自衛官の民間機搭乗など、軍事が異常に突出しはじめている。この間作られてきた、地元に根づいている各地の運動が軸になって、軍事状況の肥大化・露出に対する違和感なり反発なりがどう生まれてくるか。そこが、力を出し得る一つの大きなポイントだと思うんですね。
 戦後日本は、特需という形では、よその地域の戦争に参与してきた。しかし、日常生活の中で戦争による死が目の前にあったわけではない。目の前で戦争が行われていないという、そうした半世紀以上を過ごしているわけだから、僕たち自身も含めて戦争についての現実感がない。常にTVとかの映像で観てきた。今度のユーゴ空爆にしてもTVで観るわけだけれども、それでも爆撃後の状況をみたら、やはり、すさまじいものだということが胸に迫るわけです。それが、はるか遠いこととしてではなくて、日本が関わりのある様々な地域で、日本が主体的に参加する中で起こるっていうことに対する拒絶感、「こんなハズじゃなかった」という思いは、まだ十分にあると思う。そういう気持ちを、どういう風に、これからの運動の中で力にしていくかっていうのが大きいんじゃないかな。

■■この国のありようの異様さ■■
天野:ついでですけど僕は今日、「日の丸・君が代」の公聴会を傍聴しました。自由党・自民党の議員、特に自由党の議員なんてのは完全に右翼で、例えば今日の公聴会で証言した北村小夜さんなんかに迫ってくるんですね。「反対派が乱入してきて、国旗を揚げたいと思っている人の人権を奪っている」みたなことを言って、「それを、あなたはどう思うのか」と質問する。小夜さんは、かなりキチッと、激しくはねつける発言をしていました。
 そこでちょっと思ったのは、そういう場面では「民族と伝統と国家」を剥き出しにして言うわけです。ところがアメリカのいいなりのガイドライン攻防の時に、例えば自民党・自由党の議員の言うことが「民族と伝統と国家」だったら、新ガイドラインなんか結べるのか、ということなんです。新ガイドライン関連法案の後に国旗・国歌法案なわけですけど、その論理構造のメチャメチャさ加減、ものすごい御都合主義が剥き出しになっているなあって思う。戦後の日本国家って、かなりそういう御都合主義だったと思うんですけど、ナショナリストとして筋が通らない。「民族と伝統と国家」主義、「天皇陛下」主義で「日の丸・君が代」をやるっていうのと、アメリカの作戦・指揮にほぼ従って戦争をやる、協力するっていう関係を全くあいまいにしたまま、新ガイドラインを推進した主体っていうのが、実は同じなわけじゃないですか。
 さっき太田さんが言ったのとは違ったアングルかもしれないけど、やっぱり「この国家って何なんだろう」と思う。もともと変な文化的二重操作の国家だったと思うんですが、それをギリギリまで、実に奇妙に開き直った国家の形態っていうのが、こういう所に露出しているんじゃないかなっていう気がしています。

国富:必ずしも日本だけじゃないような気がする。例えばユーゴ空爆の後で、イギリスの国防関係のシンクタンクの人間がユーゴ空爆を総括した文章が毎日だったか朝日だかに載っていたんだけれども、「国連憲章だとか国際法という観点からいえば、今回の空爆がそれらに違反していることははっきりしている」という。しかし国連は、今の世界の秩序を維持するのはアメリカにしかできないのだということを、理解していないのだ、と。そういう意味で国連は「現実主義」ではないのだ、と。だから、そこまで含めて、そういう現実をはっきり見据えて対処していかなければならないと、そういうことを言っているんだよね。

天野:国連の原理の中に、始めっからそういうのはあるよね。大国の拒否権の論理っていうのは、軍事的な力量を持った大国の実権に依存する、みたいな原理。だから今のような時代であれば、「国連原理はアメリカ原理である」というのが現実的であるという、これは国連自体の原理の中に内包されている問題なんじゃないかな。それはそれとしてメチャメチャだけど。

■■広い枠組みの運動形成のなかで■■
――さて、この間に「戦争協力を許さないつどい」が何回かあり、それから五・二一の大集会もあったわけですが……。

天野:「戦争協力を許さないつどい」は、どちらかと言うと全労協系の労組中心で、僕たちは労働組合との関係が非常に疎いっていう問題があったんで、この「つどい」に協力していくっていう風なスタンスでいけば良いと思っていた。ところが、これ自体も集まりが良くなくなっていって、それで共催形式になっていった。それはそれでよかったと思うけど、労組の人たち自身が変わってゆく契機みたいな、動員ではなくて人が集まるみたいなことにはならなかった。労組の人たちとも相互に批判できるような関係を作れたらいいと思う。

国富:「つどい」の方には、今年の二月一四日以前には、そんなに積極的に関わっていたわけではなかった。それが二月以降は、企画や準備からかなり積極的に関わらなければならなくなってしまったんだと思う。労働組合の人々との政治的な関係、運動的なつながりというのは大事にしていかなければならないとは思うけれど、本当に共同で作れてきたかというと、そういう実感は少ない。

天野:やっぱり「一日共闘」ということだったから。

国富:それは一つの課題だと思う。地方だと、もうちょっと労働組合と市民運動っていうのが日常的に接点があるから違うと思うけど、東京の場合はみごとに分断されている。

天野:大きな集会でしか出会わないからな。もうちょっと日常のつくりかえを考えないとダメだよね。例えば普通に僕たちなんかがやっている実行委員会に労組の人も何人か出てきてもらえるような関係があって、その上で枠組みを作るということならいいんだけど、大きな枠だけで集まろうっていう話になるから、そこに運動の持続的なリアリティを感じないんだな。

――五・二一っていうのは、もっと大きな枠だったわけですけど……。

天野:エポック・メイキングな集会ではあった。全く唐突に共産党が、彼らが言うところの大衆行動への共闘路線というものを全面的に取り始めて、かつての「反党修正主義分子」だの「反革命トロツキスト」だの何だろうが、そんなものが入っていても一切気にしないという、そういう形態にして共産党が全国動員するという形での集会だった。宗教者たちが持続的に作ってきた共闘の枠のなかに、共産党系の大衆組織がドッと入ってきて決まった。その時の会議に僕は偶然出ていて、記者会見にも参加させられて、その記者会見のなかで大体の五・二一の行動が決まった。
 僕なりの反省としては、どうしていいか分からなかった、というところがある。何かというと、みんなそれなりに歴史をしょっているのに、そうした歴史的な過去が何もないような顔をしてニコニコ座っているのは気持ち悪い、ということ。もう一つは内ゲバ党派の問題。共産党の場合は、僕たちも内ゲバ党派も区別ないわけですから、何でも入ってきてしまう構造になる。共闘原則についてもノー・チェックでやらざるを得ない。もちろん宗教者の人たちは、善意で大結集を考えたのは間違いない。その時に僕たちはどういうスタンスを取るべきなのか、という一瞬の戸惑いがあった。参加はするけれども、主体的に中心的な任務を担うような形は取れない、というのが僕の位置から見た五・二一だった。この実行委員会でも、そんな話をしながら進めていったと思う。

国富:共産党との関係は、今後は非常に大きな問題になってくると思う。五・二一みたいな行動をどう評価していくのか、という点で。
 共産党は明らかに路線転換した。はっきりとしたのは去年くらいからだと思う。これまでは完全排除の対象だった人たちまで飲み込んでやっていく、という。そういう共産党の路線転換を、こちら側も使わせてもらったというところは、ある。議面行動なんていうのは、共産党議員の協力がなければ成立しなかった。それが一つの変化であるのは確かだけれども、今度は逆に、今のままのあり方だと、共産党にぶら下がるというか依存するということになりかねないとも思うわけです。

天野:もちろんそうだと思うけど、もう一つ共産党の路線転換というのはイデオロギー上での路線転換でもあるわけだ。それは、政権与党になったら安保を棚上げにするだとか、「日の丸・君が代」についても、国旗・国歌を法的にちゃんと決めたらそれに従うみたいなニュアンスの発言、象徴天皇制と私たちは矛盾しないという発言とか。いわば、自分たちが権力に近づいたという彼らの認識から、「愛される共産党」路線を、本格的にやり直しているわけでしょ。そのイデオロギーの中身、政策転換というのは、僕たちには全然歓迎できるような内容じゃないわけですよね。そのくせ運動の場所での実体的な関係としては、部分的ではあっても、信じられないような交流形態となっている。議面から始まって、五・二一のような大衆行動としても、それが始まっている。
 今、「日の丸・君が代」の問題でも出ているのは、新しい国旗・国歌を作るべきだというような論議です。国旗・国歌それ自体が要らないんだという、僕たちにとって非常にアタリマエの論理を運動として言いにくい。議面集会で共産党の議員に来て話をしてもらっているのに、「あなたの言うことはおかしい」って言うわけにはなかなかいかない。だから独自の政治主張を持ったビラとかをキチッと作って、ちゃんと討論していくという関係にしていかないと、いいかげんになってしまうのは僕たちの側だと思う。

■■運動経験とその論理化の模索■■
太田:対案を出さないで反対するのは無責任だという言論が幅を利かせているわけでしょ。でも、それでは選択肢の幅が狭い。「国旗・国歌は要らない」なんていうのは選択肢には入らないんだよね。

天野:論点としてもう一つあるのは、社会主義革命だとか、ある種の階級闘争による革命だとかっていう論理が、キチッとやっている個別の運動の中から、運動の言葉としては完全に消えたなというのが僕の実感です。それは活力がなくなったということだけじゃなくて、そこに積極的なモメントを読もうというのが、僕のこの間の判断なんです。

国富:反戦平和運動から、階級闘争だとか社会主義だとか、あるいは革命だとかそういう風な色あいが完全に抜けていることは事実だよね。でも、こちらは痩せても枯れても社会主義とか革命だとかを捨てないという、ある意味では意地みたいなものはある。じゃあそれを、どういう風に現実の運動の中で肉付けしていくかについて、とにかく苦労していることも確かなんだよね。それが、しがいのある苦労かどうかについては、天野さんには異論があるだろうけれども……僕はやっぱり、絶対的平和主義、あるいは絶対的非武装主義というような理念が、それだけでは済まないということはあるだろうと思うんです。

天野:僕は「主義者」とか「主義」ってのは全部拒否だから、絶対的平和主義も拒否なんです。絶対平和というような形で打ち出されてきた理念、それが持っている一つの思想体系、いわゆる革命主義を考えてきた人たちのアングルから全く見落とされてきた軍事そのものの批判や、運動のありようの批判、あるいは政治のありようの批判、そういうことを全部組み込んで考えなければダメだという風に、僕は強く思っています。そういう、すごく大切なことを見落としてきたなっていう感じを、この反戦運動の一〇年くらいの中で持っているということです。

国富:例えば小渕ですら言う「人間の安全保障」と「人道的介入」を結びつけていくという、そのへんのところをどういう風に批判していくのかという切り口のあたりから、もうちょっと考えていきたいとは思っています。

太田:天野さんが言うように、現実としてそういう言葉があまり聞こえなくなったというのは確かなんだけれど、ソ連の崩壊、東西冷戦が崩れる以前から、すでにそういう問題の領域には入っていたと思う。そういう中で出てきた問題を、社会主義革命一本槍で全てを当てはめて解釈、整理するのではなくて、どうやって全体性の中で捉えるかというのは、僕なりに考えてきたことでもある。今のような状況になればなるほど、あきらめないで、そういうところから、これからも考えていきたいと思います。

――何となく最後のまとめのようになってきましたが……。

天野:僕の方の実感としては、すでに新しいことをかなり色々とやっていると思うんです。今までの形態じゃダメだっていうことは、みんな骨身にしみていて、違う形態を目指して様々にやったわけだから。その、やっていることの積極的意味合いをていねいに対象化してみる必要があるんじゃないか。そういう問題の整理の仕方での作業を通して、革命とか言われてきた問題とは違った問題の提出のスタイルと次元を作ること。
 そこにあった問題、残っている問題に対して、結論から演繹的にいくんじゃなくて、すでにやってきている運動経験から帰納的に普遍化していくような作業を、もう少し心がけたいなと思っています。

国富:あらかじめできあがった理念、社会主義にしろ革命、階級闘争にしろ、そういうところから現実を裁断するというスタイルは、とっくに捨てたつもりなんです。その上で、アプローチの方法という点で言えば、僕たちの運動がブチ当たった問題、あるいは積み重ねてきた一定の足場というか成果の中から、どういう風な論理化ができるのか、ということには挑戦していかなければならないだろうと思います。
 冷戦構造が終わった後に、今はもうあんまり聞かれなくなったけど、結局は市場経済であり、新自由主義であり、それが今日の世界で唯一の現実的なあり方なんだということがしきりに言われた。その枠組み全体を承認した上で、その中で、それらを色々と訂正してゆけばいいということではなくて、それに対するオルタナティブってやつをずっと追求し続けていくという姿勢――その延長上で、僕はもう一度「社会主義」だとか「革命」ってやつを考えてみたい。基本的にはそういうことです。

――ありがとうございました。
(一九九九年七月八日 早稲田にて)
――――――――――――――

『向い風・追い風』風力11号、1999年7月15日、300円 発行:沖縄の反基地闘争に連帯し、新ガイドライン・有事立法に反対する実行委員会(通称:新しい反安保実3)
連絡先:東京都新宿区上落合3−15−1−301 落合Box気付 新しい反安保実3 電話&FAX:03-3368-3110




















「日の丸・君が代」法制化に対抗するために

浅見克彦北海道大学教員


 法制化法案の国会審議がとうとう始まってしまう。こうした運動の局面では、しばしば時間との勝負になり、反対の主張を明確化でき、運動の盛り上がりを急速に生み出せる歯切れのいい論理が力を発揮する。しかし、少なくともこの件では、やや厄介で理解しにくくも、長期的にはどうしても避けることのできない問題を考えないわけにはいかない。
 「日の丸・君が代」への反対の運動が組まれる際に、しばしば前面に打ち出される理論は、侵略戦争のイデオロギー的支柱であるという点と、身分支配と差別の制度(天皇制)の象徴であるという点だろう。もちろん、これらの認識は正しい。だが、こうした論理は、「日の丸・君が代」の存在そのものへの歴史的観点からの批判であるがゆえに、少なくとも、法律による強制、あるいは学校での強制関係の問題に焦点を当てた批判ではない。言い換えれば、旗が「日の丸」ではなく、歌が「君が代」ではないなら、反対の論理にはなりえない。つまり、この件に関しては、「日の丸・君が代」そのものの問題と同時に、一般に国旗・国歌なるものが強制される関係に潜む問題が明確化されねばならないのである。
 そもそも問題は、学校現場で強制する法的根拠を固めようという点にある。そしてまた、江藤淳や松本健一のように、麗しき習慣として「国民」に浸透していることが大事なので、法制化で強制するのは不適当という論者たちもいる。侵略戦争と差別という観点を軸にして法制化に反対する場合、こうした慣習論の立場と、政府や翼賛派の議員の法制化論とを質的に区別し、反対運動の照準を的確に定めることができるだろうか。慣習なるものに立脚しつつ、「日の丸」と「君が代」に関する国民の意識を「正そう」とする動きではなく、それらをまさに法的に強制してゆく動きの本質と問題点を批判せねばならないのだから。
 同様のことは、共産党の態度変更への批判についても言える。共産党は、かつては「日の丸」と「君が代」が過去の戦争を連想させたが、月日がたって「国民」のそうした意識が弱くなったから法制化もOKだといい出した。共産党がどれほど真剣に「日の丸・君が代」問題に取り組んできたかを見れば、これは何も驚くことではないのかも知れないが、突き詰めれば天皇制に対する本質的な立場転換になるはずの思想放棄を、かくもあっさりとやってのけた面の皮の厚さには感嘆させられた。それはともあれ、この「新見解」に対して、「国民」はまだ戦争を忘れていない、あるいは被差別者への抑圧はなくなっていない、と批判するならば、共産党がしつらえた狭い土俵にはまることになりはしないかと私はいいたいのである。
 身分差別との関連を軽視しつつ、しかも世の中の大勢が受容するならかまわないとして法制化を黙認する共産党の態度は、確かに無思想かつ無原則的なものだと思う。とはいえ、「国民」の多くが「日の丸・君が代」で過去の戦争を連想しなくなったからという言い訳に対して、いまだに多くの国民が侵略戦争の象徴としてそれに違和感をもつと応酬するのは、一つの重要なポイントを取りこぼすことになる。私は「日の丸・君が代」が侵略戦争の遂行を支えたことを意識して、それらに反発する人々は減っているという感触をもっている。それは残念で問題なことだが、事実ではないだろうか。それに対して、それが本当に大勢かどうかという問題設定の枠内で批判しようとすると、どうしても苦しくなる。むしろ重大なのは、共産党が、問題のポイントを侵略戦争との関係だけに限定してしまって、それ以外の問題に目をつむる思想的な鈍感さを露呈している点ではないだろうか。
 「日の丸・君が代」は、侵略戦争や皇国史観との関連を別としても、学校現場において、あるいはさまざまな儀式的な場において、性悪な権力作用を支えている。入学式・卒業式であろうが、地域の運動会や成人式であろうが、「日の丸」が揚げられ、「君が代」が吹奏されるとき、それは儀式的慣習としての自明性において集団的に「強制」される。それは、命令や制裁などを伴ってはいないとしても(現実には伴う場合がある)、集団の大勢には逆らえないという心理が働いている限りで、暗黙の強制である。ところがまさに問題なのは、学校の児童・生徒、そして地域住民にとって、それは「当然なこと」として、「とにかくこういうものだ」という風に強制される。つまり、それらを儀式的に採用する理由と正当性は問題にされず、理屈抜きに従うべき慣習として「強制」がまかり通るのである。そして、「日の丸」と「君が代」は曖昧にではあれ国家の存在と結びつけられているがゆえに、それらが暗黙のうちに強制される関係には、国家の権威と威圧がオーバー・ラップする。このように、「日の丸・君が代」の儀式的利用は、集団と国家の権威には、理屈抜きにただひたすら服従すべしというという態度を人々に体で覚えさせる効果をもっている。共産党は、こうした深刻な権力作用と性悪な「政治」文化の問題に対して、絶望的なまでに鈍感なのである。
 実際、学校での強制に対する反発は、戦争と天皇制の問題を理由にしたものだけではない。児童・生徒が手作りの式をしたいという場合の反抗の客観的な背景には、理屈らしい理屈のない儀式項目を、これまた理屈抜きでひたすら権限を盾にして強制する、管理者の威圧的態度の理不尽さと無根拠性がある。もし、戦争や天皇制との関わりでのみ、「日の丸・君が代」の是非を判断するのであれば、こうした理屈抜きの権威の押しつけへの反発は、初めから関心の外におかれることになるだろう。この意味で、共産党の「新見解」は、現にある批判と反対のエネルギーを見失い、それを切り捨てるものに他ならないのである。
 最初に、侵略戦争との関連や身分差別とのつながりだけから反対するのは違うのではないかと書いた理由はここにある。儀式的な暗黙の強制に見られる性悪な権力作用は、たとえ旗が「日の丸」ではなく、歌が「君が代」ではないとしても、理屈抜きの集団的な儀式規範としてそれらが強制されるのなら、程度の差はあれ、基本的には同様のかたちで存在する。それだからこそ、旗と歌の歴史的性格とは直接には関わらないレベルでも、「国旗」「国歌」の法制化 → 儀式での強制というプログラムに対する批判がしっかりと意識されていなければならないのである。もちろん、旗が「日の丸」で、歌が「君が代」であることは、強制する当事者による理由説明と正統化を難しくさせ、その理屈抜きという性格をより強烈にさせるだろう。したがって、そこでは権力への理屈抜きの服従の強制は、より徹底した形で遂行されるだろう。実際、「君が代」に関する政府の統一見解探しを見ると、この点がはっきりと理解できる。恥ずかしげもなく「君が代の代は日本という国」といったごまかしの解釈が出てくるところに、「日の丸・君が代」の法制化の本質が、理屈も判断もなしにひたすら国家の権威にひれ伏す態度を再生産する点にあることが見てとれるのである。
 要するに、「日の丸・君が代」の法制化は、権力への理屈抜きの服従を生産する儀式的装置の機能をより一般化し、強固にしようというプログラムなのである。もちろん、それは「日の丸・君が代」に対する唯一の反対理由ではない。過去の戦争における権能、身分差別との結びつきは、たとえ大方の「常識」ではなくなったとしても問題にし続けねばならない。そして、そうした問題ゆえに「日の丸・君が代」の「強制」に反発する者の存在を、理屈抜きの服従を甘受する人々による多数決で無視するような関係は、真におぞましいものである。
 その意味で、この論稿は、あくまで「日の丸・君が代」問題の一つのポイントを強調したものにすぎないということをご理解いただきたい。そしてまた、そのポイントがやや難解で厄介なものであるがゆえに、しばしば捨ておかれ、無視されるという事実とともに。 (『反天皇制運動じゃ〜なる』24号、1999.7.6号)

















地方分権一括法案――どこが問題か

白川真澄
ピープルズプラン研究所会員

■見えにくい問題点
 地方分権一括法案が、衆院を通過し、参院で審議されている。この法案は、地方自治法の改正を柱にして四七五本の法律、日本の全法律の三分の一近くの法律を一括して短期間の審議で変えてしまおうとするものである。その立法形式そのものが、官僚の意のままに国会審議を空洞化するとんでもないものだ。
 周辺事態法、盗聴法・組対法、国旗・国歌法案、住民基本台帳法改正案など誰が見てもとんでもない悪法に比べて、地方分権一括法案は分かりにくい。それが、機関委任事務制度の廃止による地方分権の推進という制度改革を名目にしており、ある面では地方分権を進める要素もあるからである。しかし、この法案は、中央省庁の地方自治体に対する支配・統制権を形を変えて巧妙に存続することによって、地方分権化=機関委任事務の廃止を骨抜きにしている。そして、日米安保や基地や外交・軍事に関わる分野では、住民や地方自治体の一切の発言権・拒否権を奪いとり、国家が決定権を独占する中央集権化を逆に強めようとしている。

■何が変わるのか――機関委任事務制度の廃止による条例制定権の拡大
 地方分権推進一括法案によって、何が一番変わるのか。一言で言えば、機関委任事務制度が廃止されることである。
 (1)機関委任事務を廃止し、地方自治体の仕事を「自治事務」と「法定受託事務」にする。それにともなって、(2)これまでの包括的な指揮監督権をなくして、国(中央省庁)の自治体に対する統制・干渉(「関与」)のルールを定める。(3)国と地方の対立を処理する第三者機関として、勧告権を持つ「国地方係争処理委員会」を設ける。(4)国の必置規制(自治体職員の資格や定数を図書館や障害者施設ごとに国が細かく定める)を緩和・撤廃する。
 そして、機関委任事務制度の廃止によって、地方自治体の自己決定権が拡大され、これまでは主従の関係にあった中央政府と地方自治体の関係が対等な関係に変わる、とされる。
 機関委任事務とは、自治体が本来は決定・管理する事務(例えば都市計画の決定、道路や河川の管理、生活保護の受給など)をいったん国の事務に組み入れた上で、首長に委任して執行させる仕組みである。その範囲はどんどん拡大されて五六一項目にまで増え、都道府県の事務の八五%、市町村の事務の五〇%を占めている。この制度によって、住民に選ばれた首長が国の出先機関とされ中央省庁の指揮監督の下に置かれた。そして、議会も、機関委任事務に対しては手を触れることができなかった。
機関委任事務制度は、中央省庁の官僚が思いのままに配分できる補助金のシステムとならんで、地方自治体をコントロールする強力な手段となってきた。その意味で、機関委任事務制度の廃止は、日本の中央集権的な行政・政治システムを変えていく上で重要な制度変革たりうるものである。
 これまで地方自治体は、機関委任事務とされた事がらについて条例を制定すること、つまり自主立法権を行使することはできなかった。しかし、機関委任事務の廃止によって条例制定権は、法定受託事務を含むすべての事がらにまで及ぶことになる。自治体は、都市計画における開発規制、環境保全、産廃処分場の建設、あるいは米軍艦船の入港などに関して独自に条例を定めることが可能になる。
 また、地方議会は、百条調査権と呼ばれる、地方自治法百条にもとづく調査権を持っている。この調査権は、証人喚問・拘束・告発などを行うことができるほど強力なものだが、これまでは機関委任事務に対しては行使できなかった。機関委任事務の廃止にともなって、議会の調査権の範囲は自治事務と法定受託事務の全体にまで拡大することになる。

■中央省庁の支配・統制の存続
 しかし、機関委任事務の廃止がその目的通り実現されるならば、中央省庁の強大な指揮監督権は失われる。そこで、この問題が地方分権推進委員会を舞台にした分権議論の中心になって以来、中央省庁の猛烈な巻き返しが始まった。その結果、機関委任事務の廃止を骨抜きにし、自治体に対する支配・統制権を形を変えながら存続させる巧妙な仕掛けが、今回の法案に盛り込まれた。
 第一に、国による統制・干渉が強く働く「法定受託事務」の範囲を拡大したことである。機関委任事務が廃止されると、その事務は、自治体が独自の権限で処理する「自治事務」と、実施方法が国によって細かく定められる「法定受託事務」に移される(さらに、一部は国の直接執行事務に)。後者については、是正の指示・同意・許認可や代執行といった手段による国の強い「関与」=統制が残される。当初は二〇%(自治事務八〇%)と予定された法定受託事務の範囲は、四五%にまで拡大された。
 第二に、国が決定権を確保したいと考える事がらをいつでも「法定受託事務」に組みこむことが可能な規定が、入っている。分権推進委員会の勧告では、「法定受託事務」は本来は国の役割だが「国民の利便性」「事務処理の効率性」を考慮して自治体が受託して行う事務とされていた。ところが、法案では、これらの観点が姿を消し、「国においてその適正な処理を特に確保する必要があるもの」を「法定受託事務」と規定している。国家の都合でその範囲をいつでも拡大できるようにしたわけである。
 第三に、そして最大の問題は、自治体が独自の裁量権を持つはずの自治事務に対しても国が助言や勧告、資料の提出のみならず、是正の要求をすることができると定めていることである。自治事務が違法で公益に反しているか否かは、それぞれの自治体の住民が判断し、自主的に是正するべき問題である。自治事務に対してまでも中央省庁(各大臣)が上から是非を判断して是正を要求することは、自治権に対する重大な侵害である。
 そして、現在の制度でも、国(総理大臣)は機関委任事務以外の事務(自治事務など)に対して是正の要求を行うことができるが、今回の法案では、中央省庁の要求にしたがって是正をすることが自治体に義務づけまでされた。国の統制がかえって強まっていると言える。また、自治事務についても代執行を行う可能性を残すような規定さえ見られる。

■「国の安全」に関わる事がらの決定権は中央政府が独占する
 この法案を貫く基本構想は、「住民に身近な行政はできるかぎり地方自治体に委ねる」が、「国家としての存立に関わる事務」については住民や自治体に一切口出しさせず、中央政府だけが決定権を握るようにするというものである。《国との役割分業=棲み分け型分権》とでもいうべきこの構想は、法案の中に新たに明記された。そして、この構想を具体化する規定や関連法案の改悪が見られる。
 第一は、駐留軍用地特別措置法の改悪である。
 (1)機関委任事務の廃止を逆手にとって、米軍用地の強制使用に関する代理署名や公告・縦覧の事務権限を自治体から取り上げ、国の直接執行事務に移す。(2)土地収用委員会の権限を完全に骨抜きにする。使用中のであれ新規のであれ緊急採決と政府(総理大臣)による代行採決が行えるようにする。こうして、日米安保の根幹をなす基地使用については、それが住民の安全や人権に直結する問題であるにもかかわらず、自治体の拒否権や発言権をすべて奪おうというわけである。
 第二に、「国の安全」や「国の利害」に関わる事がらについては、自治権を制限する例外規定を盛り込んでいる。
 機関委任事務の廃止によって議会の調査権は法定受託事務にも及ぶことになるが、「国の安全を害するおそれがある」と見なされた事がらに対しては調査権が及ばないという制限が設けられている。ここには明らかに、調査権の制限によって外交や軍事に関する事がらを国家の機密事項とし、自治体や人びとの目から隠そうとする狙いが読み取れる。
 また、例えば建築基準法の改正案にも例外規定が入れられている。建築物の建築確認は自治事務になり、建設省の指揮監督権を定めた現在の規定は廃止される。ところが、代わって、建設大臣は「国の利害に重大な関係がある建築物に関し」ては是正の指示を行い、その指示に自治体が従うことを義務づけ、さらに従わないときには代執行を行うという例外規定がこっそり盛り込まれている。自治体が軍事関連の建築物の構築に対して抵抗・拒否する事態を想定してであろう。自治権を制限する有事法制の先取り規定が挿入されている。
 このように、この法案は、周辺事態法に典型的に示される国家による自治権の制限・剥奪を正当化する。私たちは、地域の住民が非核・平和条例や住民投票条例の制定によって対米軍事協力や公共事業を拒否・抵抗する運動を発展させ、国家に抵抗する自治を保障する地方分権をめざす必要がある。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』24号、1999.7.6号)
















「君が代」首相の新見解と憲法――転換の意味を「よくよく考えて」みよう

天野恵一
●反天皇制運動連絡会

 七月一日、衆議院内閣委員会で、「国旗・国歌法案」の審議が始められた。そこでは、政府側は六月二十九日の衆議院本会議での小渕首相の答弁の内容に依拠しつつの説明をくりかえし続けた。この日私は傍聴に入った。
 小渕首相は「君が代」の解釈については以下のように二十九日に主張していた。
 「君が代の歌詞は、平安時代の古今和歌集や和漢朗詠集に起源を持ち、祝い歌として民衆の幅広い支持を受けてきたもので、『君』は相手を指すのが一般的で、必ずしも天皇を指しているとは限らなかった。明治時代国歌として歌われるようになってからは、大日本帝国憲法の精神を踏まえて、『君』は天皇の意味で用いられた。終戦後、日本国憲法が制定され、天皇の地位も変ったことから、『君』は日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位は主権の存する日本国民の総意に基づく天皇を指しており、『君が代』とは日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とするわが国のことであり、歌詞もわが国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当だ。」「『代』は本来時間的概念を表すものだが、転じて『国』を表す意味もある。」
 政府の「新解釈」には、国民主権下の象徴天皇制を「君が代」の解釈の中におりこんで、憲法違反という批判をかわそうという意図が読める。
 一日の内閣委員会では、共産党議員が、国民主権の憲法にはやはり「天皇の御代」を意味する「君が代」はふさわしくないとくいさがっていた。この日、議員面会所内の「『日の丸・君が代』法制化に反対する共同声明」の抗議集会に参加するため、早めに内閣委員会の傍聴席から出てしまった私は、直接に聞くことができなかったが、おもしろいやりとりがこの直後にあったようだ。野中官房長官がこうやりかえしたらしい。
 「『共産党は天皇制を否定しているのに(象徴天皇制を定めた)現憲法を認めるのか』と論争を打ち切った」(『朝日新聞』七月二日)。
 野中の対応は、もちろん逃げである。しかし、憲法の一章に象徴天皇の規定があり、政府のような解釈が成立する根拠自体が憲法にあることを私たちは忘れてはならない。あたかも「一章」の存在しない「国民主権」主義理念を前提に論じて、違憲をいいたてるだけでいいわけがないのだ。野中のこのひらきなおった逃げの言葉は、反対の立場から、この問題を照らし出しているといえないか。「日の丸・君が代」が戦後に残って生き続けてきたことと、天皇制が象徴天皇制へとモデルチェンジしつつ残り、生き続けてきたことは対応する。だから、象徴天皇制(憲法一章)と「日の丸・君が代」を重ねて批判する視座にこそ、私たちは立ち続けなければならないはずである。
 法制化推進キャンペーンを展開中の『読売新聞』の「社説」(六月三十日)は、こう論じている。
 「このうち、社民党は、村山政権発足直後、九四年九月の大会で、日の丸・君が代を国旗・国歌と認めるとの決定をしていた。それが先週末、国旗、国歌とは認めないとの立場に再転換した。/村山首相、土井衆議院議長当時に内外の公式行事で掲げられていた日の丸、演奏されていた君が代はいったいなんだったのか、ということになる」。
 私は社民党が「再転換」してよかったと思っている。しかし、権力にむらがって、社会党の転換と解体をもたらした人々の政治責任という問題も忘れてはならないと考えているのだ。保守権力の思うがままという現在のような国会状況は、野党社会党の自壊を通してつくりだされたのであるのだから。
 六月二十九日、衆議院議員会館のキリスト者中心の法制化反対集会では社民党党首の土井が発言していた。
 土井は小渕首相が、法制化は考えていない、と語った直後に法制化を主張し転換したことを取りあげ、首相が「よくよく考えてみると」必要とくりかえすばかりで、何故、今、法制化なのかという点が、まったく明らかでないと、激しく非難した。その「鋭い」口調の演説に、多くの人々の拍手がまきおこっていた。
 私は、とても拍手する気にはならなかった。土井は、自分たちの転換について「よくよく考えてみると」という、無内容な弁解すらしてみせなかったのである。彼女は、過去一貫して、「日の丸・君が代」の国旗・国歌化に反対してきたかのごとくふるまっているのだ。
 『読売新聞』とは反対の立場で、いったいなんなんだと、いわざるをえまい。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』24号、1999.7.6号)





















〈非暴力〉とは警察のいうままになることではない−−5・21反「戦争法」大結集をめぐって

天野恵一
●反天皇制運動連絡会

 『市民の意見30の会・東京ニュース』54〈1999年6月1日〉号の編集後記に田守順子はこう書いている。
 「5月21日夜、宗教者、労組、市民など幅広い呼びかけで周辺事態法に反対する『ストップ戦争法!』集会がひらかれた。5万人をこえる参加者でうまった明治公園に身をおきながら、どうしてもっと早くこれができなかったのか、と口惜しい気持ちを押えることができなかった」。
 婦人民主クラブの赤石千衣子は「周辺事態法 国会ロビイ活動奮戦記」(『インパクション』114〈1999年6月15日〉号)でこう述べている。
 「こうして5月21日のストップ戦争法全国大集会は明治公園で開かれ、5万人の人が集まった。反原発集会で2万人規模の集会を経験したことはあるが5万人規模は初めてだった。千駄ヶ谷駅からは人の波が続いた、という。問題は残るだろうが、それでもいい集会をもてたと思う。さすがに新聞も、テレビも報道した。
 一方で、この集まりがもう少し早く開けていたら、という思いをもった」。
 私も、こういう大きな集まりが、もっと早く持てたらと思う気持は十分に理解できる。しかし、この集会の問題を、そういう気持だけで、やりすごしてしまうわけにはいかない、とも思うのだ。
 私は、この集会の方針が決められた宗教者の人々の議員会館の集まりに参加しており、「市民運動」なるものの代表者の1人として記者会見の席にも座らされた。だから、いろいろ共に反ガイドライン安保の運動を担ってきた個人・団体に呼びかけて、広く積極的に参加していこうとスタートの時点から考えてはいた。そして、事実そうした。だが、実際のところは日本共産党系の諸団体の大量動員に支えられることは明白であったこの集まりは、様々なグループができるだけ対等に集まるという具合になる条件を、はじめから欠いていた。集会場の準備・運営についても、そういう力量を持った団体にまるごと依存するしかなかったし、私たちが共闘もしようもない「内ゲバ殺人」を正当化し続けている政治セクト系の団体との関係をどうするかというような問題について、まともに討論できる前提など、まるでなかった。
 とにかく大きく集まろう、という一般的には、まったくあたりまえの主張に、すべての矛盾がのみこまれてしまっていたのである。だから私自身は、気分は、まったくのらなかった。しかし、参加しないなどというわけにはいかないのだ。
 私たちは、あの人は「反党修正主義」、おまえは「反革命トロツキスト集団」、「毛沢東盲従狂信集団」とかいうゼッケンをつけて参加したらどうか、などと、お互いに冗談をいいあった。
 共闘の枠が広がること、いろんな集団が共闘することを、私はもちろん一般的には否定的に考えない。しかし、歴史というものをまるごとフッ飛ばして、単なる力学的に、相互に大きな不信を持ちつつ、ニコニコ結集するなどというスタイルのつみあげで、運動が力あるものになっていくとは考えようはないのだ。主張の違いは違いとして、歴史的な対立をキチンとふまえて、本気で論議する関係がつくられなければ、本当の共闘は成立しない。もちろん、そんな「夢」のような関係がすぐできるなどと考えているわけではないが、今回の集まりも未来に向かってはそういうものへの手がかりが残せなければ意味がない、それは少しは残ったのだろうか。
 私たちはこの日、先頭の方のデモの隊列にいた。ここのデモ指揮の責任者は、ひたすら警察とともに、キチンと静かにデモをすることを叫び続けていた。突然、先頭の警察の車が止まり、なにか命令をしだした。ストップされたデモの隊列は、必然的に横に広がりだし、国会請願は、旗はおろして、ゼッケンをはずして静かに、というなんら法的根拠のない警察の規制(これが日常化しているのだが)への怒りを爆発させ、フランス・デモ風な動きをする人も出てきた。
 私は、「市民の意見30の会・東京」の福富節男らと飛び出し、警察とともに、とにかくデモを規制しようとしているのみの指揮者に向かって走っていた。私がいうまでもなかった、今年80歳の福富は、早く車を出せと警察に要求し、デモを混乱させているのはおまえたちだと叫び、デモ指揮者には、あなたも警察に要求しなさいと語り、あたりまえの権利であるあたりまえのデモを、ちゃんとやってないから、こんなことにも対応できないんだという皮肉の言葉まであびせた。
 警察の警備の責任者が、福富や私たちの要求をしぶしぶと受けいれ、車が動きだしたので、デモはゆっくりと流れだした。
 福富は、その後、デモを規制用に使われているゴムでできた赤い1mぐらいの先に向かってとがっているポール(交通整理用)を一つ一つ、車道の方へ向かって押すようにけりながら歩いた。警察の力による統制への抗議の意味がこめられていた。私は、福富のけった後にさらに、もう少し押しだすようにくっついてけって歩いたのだ。
 このデモの混乱は、総括会議で問題になっていた。「警察のいうことをきくことが非暴力の原則だ」などという、とんでもない発言をしている人物がいた。「警察の不当な介入が混乱の原因で、それに抗議して、デモの流れをスムースにしたのは、あたりまえ、警察の指揮に従うのが非暴力行動だなどという理解はおかしい」。
 福富は出席していないのだから、私がそういうしかなかった。
 別の会議がぶつかっていたので、早々と私は退席したが、その運動文化の違い、ギャップの大きさに、あらためて暗い気持になるしかなかった。

(『派兵チェック』No.82、1999.7.15号)








《無党派運動の思想》

天野少年の思想へ  

平井玄音楽批評

 この本を読んで湧き上がってくる想いはいくつもある。廣松理論、山谷の映画、沖縄のこと、全共闘と連合赤軍という四つのテーマのどれもが、この三〇年間自分自身がやってきたことに、今から思えば全く愚かな判断や振るまいだったというしかないことも含めて、絡み合ってくるからだ。それらはいずれも「日本の新左翼」という、とうに魅力を失ってしまった言葉によって呼ばれてきた一連の運動の轍を見つめ直すのに避けられない問題をはらんでいると思う。目新しい理念ではなく、苦い経験を通じてしか生まれえない思想がたしかにある。
 最近リン・チュンという、一九五二年生まれで私と全く同年の「文革世代」の中国人女性研究者が書いた『イギリスのニューレフト』という本を読む機会があった。この「ビートルズを知らなかった紅衛兵」によるビートルズの国の思想運動史によれば、極西の旧新派たちも北アイルランド問題を自らの経験と思想に引き寄せて対応することが全くできなかったという。この指摘には農村下放を含む彼女自身の文革体験の疼きが響き合っていたと思う。著者の沖縄体験がここに重なる。私は天野恵一の書くものをいつもこうした歴史的な空間の中で読むようにしてきた。運動の日常と生理の中で読む――という、それ自体は全く正当な読み方の部屋にもう少し広く窓を開けておきたかったからだ。ここでは、D・デリンジャーの『アメリカが知らないアメリカ』への論評という形で著者自身が新鮮な空気を入れている。膨大な意識喪失者たちの群れが夢見心地のまま連なって大きな時代のコーナーを曲がっていくように見える今、私たちの中にもあるその行列の由来を大きな空間の中で捉える必要がますますあるだろう。
 その沖縄闘争論の中に、珍しく少年時代の著者の体験を語った数ページがある。「想起された米軍基地の『記憶』」と題されたその章からは、東富士山麓の米軍演習場にほど近い玉穂村の小学校に通っていた五〇年代後半の天野少年の姿が浮かび上がってくる。もちろん半ズボン姿だったのだろう。そしていくらかスリムでとびきり元気な。この教師の父を持つ天野少年が、基地とその傍らに造られた買売春キャンプのすぐ側で育ち、一八歳の時偶然読んだ小説でその実態を知ってショックを受けたこと。そしてその後、時間の湖に沈んでいたこの経験が九五年の沖縄での少女レイプ事件をキッカケに「女性にとっての軍事暴力」として水面に浮かび上がり、さらに沖縄の人々との付き合いの中で幾度も反芻されていった様子が見えてくる。著者が大学生時代以降の体験を語ることは数多い。貴重な「体験の思想家」と言ってもいいほどだ。しかし少年期の出来事を記すのは珍しいことだろう。
 俗流フロイト主義めいた少年期の性的記憶を強調したいわけではない。私たちはあまりにも、具体的な一人一人の人間が生きていく中で遭遇する具体的な事態を思想化する、あるいはそこで起きる葛藤から大きな社会政治闘争までを繋げていく言葉や、そこへの具体性を持った処方としての運動を創り出すことに失敗し続けてきたからである。例えば、七〇年代初頭には一度は大学から放り出されたが、頭を垂れて機動隊の検問の下を潜りたくない連中が街中にいくらでもいたのである。自分も含めたこの相当数の人間たちの行動意欲と知的意欲と生きる意欲に応えられる運動の形を、私たちはついに創り出すことができなかった。叫ばれていたのは、籠城・玉砕・決戦主義ばかり。現在の意思喪失者の行進はベルリンの壁の一九八九年ではなく実にこの頃準備されたのである。
 私自身も実家に帰った時そこに見い出したのは、異様な都市再開発の中で傾きつつある小規模サービス業の家業とヤクザの絡みつく買売春の現場である。さらに浸透する企業文化の網の目。眼の前の光景は何なのか、自分は「小ブル」にすぎないのか、親も含めてどうやって食って、そしてどう闘っていったらいいのか。自分の社会的歴史的、かつ性的存在の意味を噛み締めざるをえなかった。ここからサブカルチュア運動に向かったのはほとんど生きるための必然だったと思う。だから天野恵一が舞い上がる廣松的な言葉を抑えつけながら、少年期の記憶にまで遡って運動の方向を選び取り、家族と暮らす知花昌一がスーパーを営業しながら日の丸を焼き捨てたことへの共感はおさえ難いものがあった。
 だが、あるいはだからこそ、今や「経済」や「階級」を語るべき時が来ていると思う。八〇年代はたしかに「上部構造」の時代だったが、粗雑な暴力革命論やマルクス主義を批判することは経済過程を無視することと同じではないだろう。この社会で生きて闘うことの具体性の中で、そうした視点が重要になってきていると思う。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』24号、1999.7.6号)









《チョー右派言論を読む》

なんだかキナくさい国会会期大幅延長

伊藤公雄
●男性学

 それにしても、何で誰もいわないんだろうと思う。国会の会期延長の問題だ。「通年国会」という田中角栄元首相の主張をひきうける形で、小渕総理が「九月まで」と叫べば、小沢自由党党首が、すぐにこれに賛成した。こうした動きを「不謹慎だ」と野中官房が抵抗し、八月中旬までの延長で、とりあえず幕を閉じた。その結果、「小渕総理と野中官房長官の間のすき間風が生まれた」というのが、この間のマスコミ論調だ。背景には、比例代表枠減少に抵抗する公明党をひきとめるとともに、次期首相を加藤前幹事長に禅譲させようとする野中官房長官と、「自立」して長期政権を目指す小渕総理の対立があるとマスメディアは解説してくれる。
 確かに、こうした政権争いはあるのだろうと思う。でも、今回の国会会期延長の理由のひとつに(そしておそらくかなりの比重を占める形で)、「朝鮮半島有事」への対応という問題が含まれていると思うのは、ぼくだけだろうか。というのも、アメリカ合州国のコソボ空爆の次のオプションとして、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)制圧という戦略があるのは、どう見ても明らかだ。「コンピュータ2000年問題の対策として、危ないミサイルを撃ち尽くすのがコソボ空爆の理由だ」などという説もあるから、もう空爆は不要なのかもしれないが、それでも、かなり本気で「テロ国家」に対する「多国籍テロ」が準備されているのは事実だろう。それも、この夏が、ひとつのクライシス・ポイントになる、というのが大かたの見方だ。もし、そうした事態が発生したとき、有事法制の一挙的な採決も含めて、国会での「承認」の儀式がつねに必要になる。しかも、それは緊急性を帯びることは明らかだ。「通年国会」といわないまでも、とにかく会期を延ばしておく必要がある。もし、何か事態の急変があれば、さらに延長する、というオプションは、少なくとも政府首脳や与党のトップにはあるだろう。つまり、「会期延長は、戦争準備のため」といってもいいだろうと思う。
 おまけに、このほとんど不要(予算通過が戦後最速のスピードでなされたことからも、明らかだ)と思われる国会延長の期間に、一気に「世紀末の逆コース」とでもいうべき治安維持・国民統合にかかわる法律を制定しようとしているのだから、問題はさらに重要性を帯びている。また、この北朝鮮(対策)カードが、この悪法のオンパレードの実現可能性を支える「自自公」連立のひとつの接着剤になっているのも明らかだろう。「北朝鮮とアメリカが戦争になったらどうするんだ」という形で、アメリカのヘゲモニーにひたすら従属するという、(右側から言えば、本来)「国家の体」をなしていないような口実で、国家主義が進行するという、なんだかひねくれた状況が生まれているということだ。
 つけ加えれば、こうした「北朝鮮」問題をひとつの右翼バネとして、従来の右派勢力がマスメディアで妙に「力を発揮」しはじめているのもイヤーな感じだ。
 たとえば、わが愛する『産経新聞』6月25日付け朝刊の教科書検定をめぐる記事だ。一面見出しは「国旗・国歌に否定的記述/侵略と結び付け」というのだからあきれた。他の新聞が、「日の丸を大きく見えるように指導がされた」といったという教科書保守化の傾向を伝えたのに、『産経』を読む限り、これじゃあまるで、教科書がリベラルな方向に転換したみたいではないか。否定的といわれる箇所は「しかし、他の国から侵略を受けたり、支配された歴史をもつ国や地域では、それらの国の国旗・国歌に対して、素直には尊重できない感情をもつ人々もいます」という、ごく一般的な記述なのだ。こう書くなら、どこの国・地域がどこの国の「国旗・国歌」に対して感じる気持ちなのか、もっとはっきり書いてほしいと思うくらいだ。
 また、同じく『産経新聞』の『産経抄』では、自衛隊の悪乗り(示威行動)としか思えない迷彩服姿での民間航空機使用について、「仕事用の服を着て乗るだけなのに、なにが問題なのだ」的な居直り文章も掲載されている。でも、たいていの人は、イヤーな気分になると思う。山口組の組員が黒い服で50人も一緒に同乗するとなったら(あるいはヘルメットに覆面姿の団体でもいいが)、きっと『産経』も大騒ぎして批判するだろうにね……。
 でも、この迷彩服問題もきちんと批判しておく必要がある。60年安保を前後して、一般社会からはその姿を消した自衛隊を、意識的に一般社会に登場させるという演出がされているのは明らかだからだ。これまで、通常、自衛隊の移動は、夜間、人目につかない形で行われるようになったはずだ。実際、ぼくが子供の頃は、よく見かけた自衛隊のジープやトラックをとんと見かけなくなったのも、60年安保前後だ。何しろ、小学校低学年の頃、十数台の自衛隊の戦車部隊が学校の校庭で休憩する、といった情景に出会ったことがあるくらいだから(日教組が強かった学校だったのに、この戦車の校庭利用について、どんな職員会議が開かれたんだろう、なんていまさらながらに考えてしまう)。
 「日本会議」や「英霊にこたえる会」など民間右翼の動きも活性化しているようだ。『正論』はもとより、最近は『諸君!』にも、こうした右翼団体の集会や講演会、支部結成の動きなどが、広告の形で急増している。
 この右派の悪乗りはいつまで続くのか。盗聴法や背番号制、「日の丸・君が代」法、有事立法など、一連のキナくさい動きに、日本に住む多数派が賛成しているはずなどないと思う。右派の悪乗りを、悲劇でなく、喜劇として終らせるために、「朝鮮有事」キャンペーンを越えて、政府・与党の危険な動きを、サイレント・マジョリティ(おそらくこうした動きに心から賛成する人はまだ少ないはずだ)に伝えるための技術と工夫が問われている。
(『派兵チェック』No.82、1999.7.15号)





《書評》

『〈転向〉の明暗――「昭和十年前後の文学」』
 (「文学史を読みかえる」研究会・長谷川啓・責任編集、インパクト出版会刊 二八〇〇円)

池田五律●反天皇制運動連絡会

 「〈転向〉の明暗 『昭和十年前後の文学』」というタイトルから即想起されるのは、平野謙『文学・昭和十年前後』である。平野は、《文学界》を「文学の自衛運動、文学者による文芸復興運動」「自由主義的とプロレタリア的との共同戦線体」と位置づけた。弾圧による共産主義運動の壊滅によるとはいえ、プロレタリア文学運動の「政治の優位性」論の抑圧から解放された文学者が、文芸の固有性を目指すとともに、ファシズムからの自衛につながる共同戦線を模索した可能性を秘めた時期という図式である。そして平野は、その破産の原因は、中野重治の《文学界》同人への勧誘拒否ではないかと問題提起している。
 本書は、そのように平野が位置づけた時代を、フェミニズムの視点で読み直すという編集方針で編まれたものである。責任編集者の長谷川啓「女性文学にみる抵抗の形\\〈左翼系作家〉の父権制とのたたかい」は、当時の女性文学の活況に対する宮本百合子と佐多稲子の言及を素材として、女性の現実を描くことで近代父権制を問う視点を獲得していったことを「昭和十年前後」の可能性として取り出す。次号の続編が待たれる。また吉川豊子「“いのち”の氾濫\\岡本かの子の『鬼子母神』」、尾形明子「『女人芸術』から『輝ク』へ」、小嶋菜温子「『むらさき』を読む」、そして文学領域ではないが、高良留美子「一九三五年前後、高良とみの言動」は、女性の転向の研究でもある。殊に、小嶋の源氏物語研究の抵抗の検証は、国文学の戦争責任といった最近切り開かれてきた研究領域とも関わり、面白い。
 竹松良明「女性無用の作品世界\\島木健作論」は、男性作家の視点の欠落ならぬ「女性無用」の体質の問題を典型的に取り出している。井口時男「『女性的なもの』または去勢(以前)――小林・保田・太宰」は、「女性的」というメタファーを軸とした読み直しをする試みのようだが、議論自体もメタファーになってしまっている感がある。山崎行太郎「『満州イデオロギー』の相対性と絶対性\\小林秀雄と田河泡水」の小林秀雄賛美には驚く。長谷川、加納実紀代、小沢信男、栗原幸夫、中川成美の「座談会〈非常時〉の文学」で、小林のヒューマニズム=民族という位置づけを軸とした翼賛体制へのコミットが明らかにされているのとは対照的だ。
 座談会は、編集方針に限定せず文学、思想、時代状況について自由に論じたものだが、「文学史にうとい」という加納の突っ込みで、フェミニズムの視点での読み直しの糸口が豊富に提示されている。女性作家も含む社会主義リアリズム論から民族へという回路の問題など、今後、深められることを期待したい。それとともに、座談会や中山和子「転形期の農村と『ジェンダー』――中野重治『村の家』を読みかえる」(フェミニズムの視点からの読み直しという点ではやや疑問がある)は、平野図式を問い直す中野の抵抗の再評価として面白い。
 また、下平尾直史の「『人民文庫』を読む」とか、長谷川の論考は人民文庫に焦点を当てられている。平野の図式の中では「左翼くずれ」と「文士というさむらひ」を表裏一体とした「転向文学の一変種」と位置づけられていた「人民文庫」の読み直しという観点から本書を読むこともできよう。
 なお、加納実紀代「プラクティカルなファシズム\\自力更正運動下の『家の光』がもたらしたもの」は、翼賛体制の組織化の分析として読みごたえがある。紹介されている賀川豊彦などの著作を素材に、男性イデオローグによる農村の自力更正運動言説における女性像・結婚像の検証という角度での考察を試みることもできるだろう。編集方針との関わりは別として、木村一信「徳永直『転向』の行方\\社会的私小説と国策小説」も力作である。
 最期に、池田浩士「良吉は境界をどう超えたか――『人生の阿呆』、最期の挑戦」に触れておきたい。探偵小説をめぐる議論を素材として文学理論の総括を滲ませ、探偵小説の主人公と女性との関係の分析を通して「条件反射的な生き方をしない」国境を超えた(隠喩として既存の男女の関係の在り方を超えた)生き方の示唆。池田ファンとして(同姓という理由ではない!)、脱帽。(『反天皇制運動じゃ〜なる』24号、1999.7.6号)