alternative autonomous lane No.2
1998.3.20

カバーページへ

栗原幸夫のホームページへ

目 次

【議論と論考】

「自由主義」以後の思想的境界(続)(栗原幸夫)
天皇表現の自由と自主規制(小倉利丸)

ナチス・オリンピック、もう一度(池田浩士)

【世界の運動情報】

ネグリとアウトノミア関係者の恩赦をめぐる近況(市田良彦)
多国間投資協定(MAI)は敵! なぜフランスは反対するのか(コリン・コバヤシ)

【コラム・表現のBattlefield】

映画一本さらしに巻いて――幾多の峠を越えながら
上映行脚「山谷 制作上映委員会」(桜井大子)

【資料】

国連安全保障理事会決議 第1154号(1998年3月2日採択)


「自由主義」以後の思想的境界(続)

栗原幸夫●『レヴィジオン』主幹

 戦後思想のもっとも気骨のある思想家のひとりであり、「思想の科学」という思想運動の文字通りのオルガナイザーであり、なによりもベ平連の中心的な活動家であった鶴見俊輔が、「語る鶴見俊輔の世界」というインタビュー記事(『朝日新聞』1998年2月2日〜5日)のなかで、「『ベ平連』運動は、あの時期に大きなうねりになりました」という記者の問いに答えてこんなことを言っている。「宮沢喜一さんがいなかったら、あれだけ大きな運動にはならなかった。1965年4月にベ平連が発足した夏に徹夜ティーチインを計画した。小田実さんや開高健さんらが発案したが、自民党につながりがない。そこで私は宮沢さんを訪ねた。〔中略〕宮沢さんは自分の信念で〔出席を〕決断したんだ。ティーチインは大成功した。」
 宮沢喜一が途中で席を蹴って退場したこともふくめて、鶴見は「大成功」と言っているのだろうか。それともそんなことはすっかり忘れて、保守党の「気骨ある」政治家が参加してくれた喜びだけが記憶に残っているのだろうか。「宮沢喜一さんがいなかったら、あれだけ大きな運動にはならなかった」とは、いったいどこからそんな言葉が出てくるのか。
 おなじところで鶴見はこんなことも言っている。「戦争を終らせるのに米軍の力は大きかったが、忘れてならないのは昭和天皇が意志を行使して戦争を止めたことです。天皇に戦争責任があることは確かだけれど、戦争を止めるという決意を表明した事実もまた認めなくてはなりません。自己の責任として戦争を終わらせたこと、戦争防止に個人の意志や行動が力を持つということを示した点に、戦後の民主主義につながる細い道がある。それを天皇が意志の行使をしなかったかのごとく考えるには欺瞞がある。」
 これこそ欺瞞というものだ。天皇の終戦が「国体護持」という名の保身でしかなかったこと、その保身のために多くの人命が失われたことは、最近の「終戦史」研究(一例をあげれば、吉田裕著『昭和天皇の終戦史』)や安保条約の研究(豊下楢彦著『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交』、以上いずれも岩波新書)を見るだけでも明らかだ。天皇の保身から発した「終戦」が、戦後の民主主義につながる細い道だとは、いったいどこからそんな言葉が出てくるのか。
 自称「不良少年」になにが起ったのだろうか。少年も老いてついに頭脳の生理的限界に至ったのか。もしそうだったら、彼の親しい友人たちが、俊輔さん、もう「発言」はおよしなさいと、こころをこめて言えばいいのだ。人は誰でも肉体の生理的な限界に勝つことはできない。わたしも常日頃、若い友人たちに、そういう忠告を遠慮なくしてくれるように頼んでいる。しかし鶴見俊輔にいま起っているのは単なる生理的な老化現象ではない。むしろ思想的な老化現象だ。わたしは鶴見俊輔のケースを、日本における自由主義者の問題、とくに冷戦終結後の自由主義の問題として考えてみたいという誘惑にかられる。
 鶴見俊輔の最近の「語り」には、ふたつの大きな特徴がある。ひとつは自分の出自への繰返しの言及であり、もう一つはマルクス主義者にたいするほとんど怨念とでもいうべきこれまた繰返しの否定的言及である。そしてこれらの言及からはかつてのような緊張感が失われている。それは繰返されるごとに失われ、自己肯定が逆に前面にせり出す。
 彼は回想のなかで繰返し母方の祖父である後藤新平と父・鶴見祐輔に言及する。エリートの家系だ。彼の精神形成にとってこの家系が、当然にも決定的な意味を持ったことは、それが彼の年少でのアメリカ留学の契機でもあったという一事をもってしても、その言及は至極当然だともいえる。
「私は上層の出身です。日本人全体の上位一パーセントの暮らしをして、薄々、まずいなとは感じてたんだ。〔中略〕自分が矢襖(やぶすま)の前に立っているという感情をもった。この恐ろしさは歴史的恐ろしさだ」(『期待と回想』上巻、120頁)と感じる二十歳の鶴見俊輔と、祖父や父との「ケンカ」と自分の敗北を楽しげに語る現在の鶴見との間には、大きな隔りがある。革命という観念の頽落に応じて彼は自分の出自を楽しげに語るようになる。アイデンティティの回復だ。もう二度と再び鬱病になることはあるまい。
 鶴見のマルクス主義者にたいする怨念をむき出しにした否定的言及は、このことと不可分のようにわたしには思える。鶴見はくりかえしマルクス主義者、とくに「東大新人会系」のインテリ・マルクス主義者の観念的ラディカリズム=最大限綱領主義を批判する。たとえば彼は、従軍慰安婦への「女性のためのアジア平和国民基金」について、またその呼びかけ人になったことについてつぎのように語る。「私からすると、民間の募金運動に対する批判のやり方は、どうしても『東大新人会』とかさなってくるんです。戦前の東大新人会は、革命政権で国家を倒して、すげ替えるというところまでワーッともっていったでしょ。統帥権(とうすいけん)というものをやめ、衆議院一本にするといった吉野作造という人たちまで叩き、ついに反動の側にまわしてしまった。東大新人会のこうした論理と同じことをくり返すことになると思う。/この人たちは『日本政府は民間募金で済ませようとしている』といっている。私もそうした政府のやり方には反対しています。だが政治的、思想的に一つに凝り固まると、いいことはない。東大新人会が戦前から戦争中にどのような軌跡をたどったのか、その後の五十年を見ればはっきりしているでしょ。」(『期待と回想』下巻、230〜1頁)
 東大新人会は1929年に解散しているのだから、「戦前から戦争中にどのような軌跡をたどったのか」というのは東大新人会出身者が、と読みかえておく。そのうえで鶴見俊輔の一部インテリ・ラディカリストの観念性にたいする批判は共有することができる。もちろんマルクス主義者のすべてがこのような観念的急進主義者なのではない、ということを自明の前提として。そしてこのような観念的急進主義者がある状況のもとでは、180度の転回をとげることも「転向研究」の鶴見俊輔にとっては自明のことだし、その認識をわたしもまた共有する。
 さて、そのうえで、「民間の募金運動に対する批判のやり方は、どうしても『東大新人会』とかさなってくる」というのは本当だろうか。それよりもまえに、国民基金はほんとうに「民間の募金運動」なのだろうか。それは日本国家が自分の責任を回避するための姑息な装置でしかないのではないか。しかしそれにもかかわらず、現に緊急に償い金を必要としている年老いた女性たちがおり、正統な解決を回避し続ける日本政府がある以上、「次善の選択として」国民基金に協力する人が出てくることはありうる。その人たちを等し並に非難攻撃することは正しくない。まして国民基金への賛否をある人間の評価に結びつけることなどあってはならないことだ。
 しかしそれにもかかわらず、ここでの鶴見俊輔の選択をわたしは支持できない。なぜなら彼はいままで、「東大新人会」的な道でもなく、国家を補完する官製大衆運動の道でもなく、それらから自立した「市民運動」の道を、運動的にも思想的にも歩んできたとわたしは考えてきたからだ。であるならばなぜ彼は自分(たち)のイニシアチブによって本当の「民間の募金運動」をたちあげ、その運動に依拠して正統な解決へと政府を動かしていくという方向をとらずに安易に官製の運動に加担するのだろうか。ここにはベ平連の鶴見俊輔は影も形もない。
 以上、鶴見俊輔の最近の発言についてわたしの考えを述べたが、鶴見個人にたいする批判が目的ではない。これは、湾岸戦争と冷戦以後の世界でおこっている思想的な崩壊を、その根拠にまでさかのぼって解明したいというわたしの関心の、いわば「序説」なのである。(『反天皇制運動じゃ〜なる』1998.3.15号)


天皇表現の自由と自主規制

小倉利丸●富山大学教員

 『週刊金曜日』における貝原浩のイラスト不掲載問題について、前号で本多勝一社長の釈明の手紙が掲載された。この手紙には、『金曜日』にとどまらず、多くのメディアに共通する天皇に関する表現の「自主規制」の底流にある重要な問題が含まれている。
 そこで、わたしなりにいくつか論点を整理してみたいと思う。
 本多は前号掲載の釈明の手紙で、「今回のイラストですが、プライバシーにはたぶんふれないでしょう。しかし侮辱あるいは〈事実に反する〉おそれはかなりあります」と書いている。つまり、天皇を侮辱した「おそれ」は「かなり」あるとの判断を示している。天皇の人格権の侵害の恐れはある、というわけだ。しかし、この判断は従来の普通の憲法理解にもとづく天皇の人格権(人権)についての考え方と比較しても、到底支持できないものである。
 従来の通説の考え方によれば、個人のプライバシーについて、一般の市民に対する名誉棄損と公人や有名人に対する名誉棄損とはおなじ基準では判断すべきではないとされてきた。たとえば、芦部信喜は『憲法判例を読む』(岩波書店)で次のように書いている。
 「たとえば、報道機関がある人の名誉を毀損するといっても、その対象になった人が公務員――これは大臣や議員を含む広い意味での公務員です――である場合、あるいは社会的に著名な人物である場合、その人は常に公衆の目に触れているいわば公人ですから、そういう人に対する名誉棄損的な表現は、表現の自由の範囲に属するとして許される場合がありうるのです。一般の人の場合には禁止されているような発言であっても、そういう公人に対しては許されるという場合がかなりありうる。とくに国民の〈知る権利〉が強調され、政治的な自由の自由をできる限り保障していく必要性が高まった二〇世紀の現代国家においては、公務員ないし公人に対する名誉棄損的な表現についても、できる限り憲法の枠内で保障していく必要性があります」(一九七ページ)。
 この芦部の見解は決して極端な説ではなく、憲法学者の通説だろう。では、なぜ公人は一般市民にくらべて名誉権の制約が小さいのか。それは、公人に対する自由な批評行為は、政治的な自由に関する市民的な権利と不可分だからだ。たとえ、公人の名誉を侵害することになったとしても、それ以上に一般市民の政治的な意思表明の自由を優先させるという法理念によって、民主主義の平等性を担保しようとしているわけだ。
 天皇というのは、戦後憲法では日本の国家権力における象徴的な権力という位置づけを与えているのであって、それ自体がひとつの政治的な機能を担っている。国家のありようを批判するために、その国家的な象徴を使用することは、政治的な自由権の基本である。主権者である一般市民の自由権の保障を前提とすれば、その象徴である個人の意志のいかんに関らず、その個人は、国家の象徴として批判されあるいは侮辱されたり悪意ある中傷にさらされるとしても、それは禁ずることはできないし、すべきでもない。いいかえれば、天皇のような国家的なシンボルに人権を認めることは、市民的な自由権と根本から抵触するのだ。この点をふまえれば、本多のいう「侮辱したおそれ」という理由での掲載拒否はすべきではないといえる。
 蛇足だが、「侮辱している」という場合と、「侮辱しているおそれがある」と言う場合を比較してみたばあい、当然後者の方がより広い範囲を含む。保守反動の言い分を認めて、天皇を侮辱する場合には、人格権侵害として「違法」であるとしたとしても〔私は上記の理由からこうした考えに賛成しないが〕、はっきりと侮辱しているとすらいえない、単にその「おそれ」があるにすぎないという場合は、「違法」ですらない。いいかえれば、日本では法的に認められている表現の自由の範囲に含まれると本多自身は自覚しながら、なおかつ、それを掲載しないと判断したわけだ。ここには、違法だから掲載しないという判断とは雲泥の差がある。
 さらにまた、多分貝原の漫画は、事実に反するかあるいは事実としては存在しない内容を含んでいるという点で、より一層名誉棄損の度合いが高いという理由を本多は挙げている。しかし、貝原のイラストを見て、それが報道写真と同じ意味での「事実」を表現していると信じる人は恐らくいない。言い換えれば、そこに描かれていることが事実かどうかを詮索することは、パロディやフィクションに対するまったく見当違いな批判ではないかと思う。風刺やパロディといった手法は、表現されている対象の価値を貶めることによってなりたつ表現行為だが、それらもまた「事実」を扱うジャーナリズムのなかで一定の意味と意義をもってきた。パロディや風刺は、対象に対して事実ではありえない表現を用いるけれども、しかしそこに表現されている「意味」の部分においては、作者による対象に対する一定の批評や批判が含まれている。深沢七郎が『風流夢譚』のなかで天皇の首がころころと転がったと表現したとしても、それは「事実」とは読まないが、しかし、同時にその表現には、天皇制についての深沢なりの批評が表現されているという「事実」は表現されているのである。
 イラストやパロディなどの場合は、報道やルポルタージュのように対象について、「事実」の表現であるかどうかを基準にして、その是非やその作品の良し悪しを判断することはできない。むしろ私達がパロディを見て、苦笑したり、大笑いしたりするのは、そのパロディが的確にその人物のある種の本質を突いており、その切っ先が鋭く、毒に満ちているからである。パロディから毒を取り去ってしまったら、パロディとしての価値はない。言い換えればパロディや風刺における表現の自由の核心は、その「毒」にある。そして、その「毒」とは当然有名人に対して多かれすくなかれある種の「ブジョク」や「悪意」を内容とするということになるだろう。たとえ、悪意がある内容であっても、それが公的な役柄や社会的な役柄を担う個人に向けられた場合は、最大限その表現を保障すべきなのは、それが権力に対する市民的な規制のひとつの作用であり、市民的な自由の権利そのものだからだ。
 
 この国では天皇や皇族に関して自由な言論、表現を許さない事実上の権力作用がある。こうした雰囲気や具体的な制度は、明らかに私達の自由権の侵害を構成している。こうした抑圧を打破するためには、さまざまな努力と闘いが必要だと思う。しかし、何も英雄的な闘いをすべきだとは思わないし、どれだけ右翼に狙われているかを自慢の種にするような振る舞いだけが闘いだとも思わない。『金曜日』には『金曜日』なりの振る舞いがあると思う。それは、本多や編集部がきめることだが、市民運動や民衆の運動の側にたとうとするメディアとしては、少なくとも天皇についての表現の自由をより拡張する方向で自分たちのメディアの編集の原則を立てる努力が必要だと私は思う。

ナチス・オリンピック、もう一度

池田浩士●京都大学教員

 1976年にドイツで開かれたオリンピックは、一般に「ナチス・オリンピック」として記憶されている。この年の2月に南独ガルミッシュ・パルテンキルヒェンで、8月に首都ベルリンで挙行されたスポーツ・イヴェントが、当時ドイツ第三帝国を支配していたヒトラー・ナチズムの威光を全世界に宣伝する道具として、フルに活用されたからである。
 「国民社会主義=ナチズム」を最も正しく現実的な革命思想として革新的に模索していたヒトラー一派は、あらゆる機会とあらゆる手段を駆使して、それをドイツ国民の精神と感情のなかに浸透させ、全世界に向けて誇示することに努めた。有名な国民啓発宣伝相・ヨーゼフ・ゲッベルスが、新しいメディアであるラジオや映画に絶大な関心を示し、他国に先がけてテレビの開発を進めたのも、それらこそは新しい時代の人間を獲得するための比類ない宣伝手段である、と信じていたからにほかならない。 とはいえ、ナチズム、とりわけその宣伝部門の最高責任者たるゲッベルスの独自性は、ナチズムをイズムとして、むきだしの政治的信念や主義主張として、宣伝するやりかたとは別の道を、重視したということだった。たとえば、映画に関して、ゲッベルスはくりかえし、「ナチズムのイデオロギーが観客に察知されるような映画を作ってはならない」という意味の見解を、映画製作者たちをまえにして語りつづけた。ナチス時代を通じて、いわゆる政治的な色彩の映画はきわめて低い割合しか占めておらず、最も多く作られたのはホーム・ドラマ的な大衆娯楽映画だったことが、すでに専門的研究によって明らかになっている。意識的な政治イデオロギーへの同意にもまして、無意識的な感性レベルの合意形成・共鳴を、ゲッベルスは娯楽映画によって達成しようとしたのだった。
 「非政治的」イヴェントとしてのオリンピックは、それゆえまさに、ナチズムの宣伝にとって格好の素材だった。周知のように、ナチス型の大衆動員形式であるスペクタクル現出のパターンが、オリンピックでいっそう強力に推進された。そしてこれによって、1936年のナチス・オリンピックは、クーベルタンの提唱で始まった「近代オリンピック」を、真に「現代オリンピック」に変える大会となったのである。 「現代オリンピック」の始まりは、象徴的な事例について言えば、「聖火リレー」の登場によって示される。36年五輪組織委員会事務総長に任命されたカール・ディーム(1882〜1962)が、その発明者とされているが、そのこと自体に劣らず重要なのは、このディームという人物が、ナチズムの歴史のなかで占める位置である。ヒトラーとナチズムのいわば思想的・政治的な源流について語られるとき、必ず出てくる人名のひとつにF・L・ヤーンがある。19世紀前半にプロイセンの体育教育を推進し、いわゆる体育と徳育の両輪によって「国民性」を向上させようと努めた人物、とされている。ナチズムは、「ヒトラー青年団」や「歓喜力行団」といった党の大衆組織に、このヤーンの精神を意識的に採用した。そして、聖火リレーの発明者、ディームこそは、ヤーンの体育主義の系譜のうえにある最大の体育イデオローグだったのだ。かれにとって、それゆえオリンピックは、単に観るためのイヴェントではなく、国民がそれに参加することによって体育と、そして「徳育」とをはかるべきものだった。
 ディームが「現代オリンピック」の始まりとの関連で果たした役割は、もう一つある。ナチ党大会のドキュメント映画として知られる『信念の勝利』と『意志の勝利』を制作したレーニ・リーフェンシュタールに、五輪記念映画を引き受けさせたことである。ヒトラーの懇請で二本のナチ党大会映画を作ったあと、リーフェンシュタールは、記録映画のジャンルには二度と手を染めない、という意向を表明し、したがって五輪映画についても作る意思はなかった。その彼女をついに動かしたのが、ディームの熱意だった、とされている。詳細は明らかでないにせよ、スポーツと美との結合を大言する映画『諸民族の祭典』と『美の祭典』によって、1936年のナチス・オリンピックのイメージからこのオリンピックの「成功」によってこそ可能となった政治的・社会的現実の姿――侵略戦争に向かう実像――が拭い去られることになったのは、否定すべくもない。年表を見れば直ちに明らかなように、ヒトラー・ドイツは、この「祭典」の成功をテコにして、第一次大戦の敗北の遺産を最終的に一掃し、新たな侵略戦争への確実な歩を――日本とイタリアとスペインを伴侶として――踏み出すことができたのだ。
 フィールドやトラックでの競技だけがオリンピックではなく、さらにはまた、競技に出場するだけがオリンピック参加ではない、という現代五輪の形式は、ナチス・オリンピックで競われたのはスポーツだけではなかった、という事実のなかにも示されている。『朝日年鑑』二五九七年版(!)の関連記事にもその記録があるとおり、「二百米平泳」や「篭球」や「ボッブスレー」や「レスリング」と並んで、「美術」という競技種目があり、藤田嗣治画「アイスホッケー」と鈴木朱雀画「古典的競馬」がそれぞれ三位に入選したのである。この「種目」について、ナチ党の余暇組織団体「歓喜力行団」(クラフト・ドゥルヒ・フロイデ)向けの五輪案内冊子は、「スポーツと美との合一というオリンピック精神の根本」を具体的に実現するための試みである、と述べている。
 スポーツと「美」とが合一しなければならない、というのは、宣伝メディアとの関係で考えれば、きわめて納得できることだ。テレビによる同時放映がリーフェンシュタールの映画が求めたものを求めるにすぎない。そして、だれもが聖火リレーに参加するわけではないにせよ、オリンピック・スタジアムの高さ74メートルの「フューラーの塔」(フューラー=指導者=総統=ヒトラー)から鳴り響く重さ5.4トンの鐘を、自分が打ち鳴らすわけではないにせよ、競技場に隣接する「五月広場」の20万人の巨大マスゲームや、2万人を収用する野外劇場のイヴェントは、「国民」の参加を不可欠としていた。開会式の夜は、あのヒトラー首相就任の夜に首都を埋めた炬火の列が、再びベルリンを光の海に変えた。「美」は、日ごろ体育にいそしむ中小のナチたち――つまりあたりまえの「国民」たちによって、演じられたのだ。「参加することに意義がある」というあのキマリ文句は、美とスポーツとを自分の肉体をもって結びつけた第三帝国「国民」たちによって、ただ単に代表選手たちだけのモットーから、「国民」のモットーへと深化させられた。これが、オリンピックの近代から現代への最大の質的転換だった。「平和」の祭典が侵略戦争のバランスシートに決定的な影響を与えた、という歴史的事実は、オリンピックに「参加」した「国民」たちの合意の帰結としてのみ、事実となり得たのだった。

 自発的参加、ボランティア活動とは、悲惨なことに、ナチス・オリンピックにおいても、いや、そこにおいてもっとも顕著に、行為の「美」のゆえに行為そのものがもたらす醜悪な帰結をみることができない活動だった。(『反天皇制運動じゃ〜なる』1998.2.15)

ネグリとアウトノミア関係者の恩赦をめぐる近況

市田良彦●神戸大学教員

 署名は全世界で約1650名に達しました(うち、日本人約80名)。かなりの広がりと言っていいのではないでしょうか。

 しかし肝心の恩赦ならびに釈放の可能性については、情況は芳しくないと言わざるをえません。以下、箇条書きで現在分かっている範囲のことをお知らせします。

 1)イタリアの一般メディアはこの件については完全に沈黙しています。報道は一切ありません。
 2)恩赦には、現在の法律では議会両院で3分の2以上の賛成が必要です。与党である中道左派連合「オリーブの木」を構成している社会民主党(旧共産党)、大衆党(首相の所属政党)、社会党の中には恩赦に積極的な議員もいて、何人かは獄中のネグリに面会に行き、この「3分の2」を「過半数」に変える法改正に向けて動けるかもしれない旨を伝えました。
 3)しかし「オリーブの木」内部の事情は複雑で、当分、恩赦に関して意見を統一することは無理なようです。それを阻む要因としては、たとえば社会党は同党のクラクシ元首相が汚職を問われていて(現在彼は国外にいます)、アウトノミアと旅団関係者に恩赦を要求するのであればクラクシにも、という声が当然上がってくるが、他党はそれは認められない、とか、旧共産党のなかには、かつて激しく同党を批判したネグリを自由にすることへの懸念と抵抗がある、とか、色々あるようです。特に3分の2 以上の賛成が必要となれば、当然、野党である右派勢力の票も必要になってきます。彼らも社会党のように、贈収賄やマフィアとの関係を問われて有罪になった所属議員の恩赦を要求してくるでしょう。「アウトノミア・旅団」プラス「汚職・マフィア議員」という恩赦の構図は、左派連合内で当然、強い抵抗を招きます。結局、何人かの社会民主党幹部の恩赦に対する積極的な姿勢にもかかわらず、同党も含め、何も公の動きはないままです。
 4)この2月、ネグリの「24時間の外出」と「獄外労働」の請求は却下されました。イタリアの司法制度では、服役中の人間でも、ある程度の年月がたてば、外出や外での仕事ができる(夜は刑務所に帰る)のですが、そしてネグリの通算服役期間(5年)を考えると通常であれば認められる請求なのですが、彼ともう一人のアウトノミア「指導者」アドリアーノ・ソフリには拒否されました。ネグリの場合、「逃亡のおそれあり」が最大の理由のようです。フランスに逃げていたことに対する懲罰的意味合いが読みとれます。なお却下理由書のなかでは、彼はフランスに滞在中も「テロリスト」とコンタクトがあったとされています。ソフリは恩赦要求には批判的で、あくまで再審・無罪の路線を取りたいとの意志をもっています。再審請求が認められるかどうかはこの3月に正式に決定が下されますが、ほぼ絶望的なようで、その場合、ソフリは無期限のハンストに入るかもしれません。なおネグリの申請を却下した裁判所の文書は、まもなく公開される手はずになっています。旧旅団関係者に対してさえ、すでに同じ請求は認められており、中には旅団の歴史的リーダー・クルッチョも含まれています。どうもあくまで非転向の人間には、たとえその人間が旅団のテロリズム路線には否定的であっても、「外には出さない」という方針があるようです。ネグリが収監されている刑務所の所長は「ネグリでなければ許可は下りたろう」と言っています。
 5)イタリアの司法・警察は攻勢に出ています。この2月、3人のイタリア人がフランスで逮捕されました。いずれも「鉛の時代」に「テロリスト」と目され、亡命した人間です。そのうちの一人は10年以上前に、フランスの司法によって「身柄引き渡しに応ぜず」という決定を下されています。そういう人物でさえ、イタリア側は逮捕と身柄引き渡しを要求したわけです。彼らの送還が行われるかどうかはまだ分かりませんが、今後まだ、約15名の逮捕が続くだろうと予想されています。EUの新しい協定に、「テロリスト」の送還については一般犯罪人とは別にほぼ自動的に行うという内容のものがあるらしく、それにもとづいてイタリア側は亡命者の逮捕・送還をどんどん要求してくるのではないかという恐怖が、亡命者の間に広がっています。恩赦要求運動関係者の推測によると、旅団に近かったフランスへの亡命者を捕まえることで、イタリアの司法・警察はどうもネグリ=旅団という図式をもう一度作りたがっているのではないか、ということです。最近出たシークレット・サービス(アメリカのFBIに相当する機関)のレポートでも、旅団のテロの危険性はなくなっていないとされているそうです。

 状況としてはこういったところです。各国の恩赦要求運動関係者の間では、やはり国際的なメディア展開が、署名の次のステップとしてさらに必要なのではないかという議論がなされています。ヨーロッパとアメリカの関係者は欧州議会へのオルグ活動もやったのですが、今のところ効果は現れていません。そこで、各国のイタリア大使館・領事館に同時期に請願書の提出行動を行う、とか、各国で影響力のあるメディアにこの件を取り上げさせる、といった行動が検討されています。

 とりあえずの報告です。

多国間投資協定(MAI)は敵!

なぜフランスは反対するのか

コリン・コバヤシ●在パリ、画家

 MAIは経済開発協力機構(以下OECD)内部で、ほとんど極秘に交渉が2年前から行なわれてきたため、以前からこの問題を知っている人は極めて稀だった。米国内部から起こったNGOによる反対運動とカナダ政府、またWWFを含む多くのNGOの異議申し立てのお陰で、昨年から協定案の内容が暴露し始めた。反対する世界中の約600のNGOは、パリで昨10月に共同声明を発表した。フランスでは、下院外交委員会委員長ジャック・ラングがル・モンド紙に「ラミ、セ・レヌミ=MAIは敵!」と題した記事を2月10日に投稿し、MAIが社会福祉制度とより公平な社会の建設という一世紀の闘いをすべて台なしにしてしまうことを明らかにしてから、マスコミが初めて動き出した。

 2月16日、丁度OECDの内部交渉が始まる同じ日に、映画監督、プロデューサー、俳優、芸術家たちがまるで68年5月革命時の市民集会の時のように、国立オデオン劇場に結集したのは彼らの危機感を明瞭に語っている。彼らは、GATT関税貿易一般協定の94年マラケシュ会議の折りに、何とか「文化的例外」規定を設けさせ、投資保護規定からの除外を勝ち取ったが、MAIが成立てしまうと、例えば、フランスは、自国の映画文化保護のために出している補助金が、それは投資を平等に保護する建前から違反となる。タヴェルニエ、ベイネックス、コスタ=ガブラスやジャンヌ・モローなどが立ち上がったのも無理はない。現時点で、映画市場の80%以上がハリウッド産に支配されているのは周知だ。その自由化を完成させる機関としてOECDは最適と見做されたのだ。GATTマラケシュ会議は、この「文化的例外」を欧州連合UEに与えるかわりに、関税なしの農産物の輸入の増加を約束させた。この枠内で、遺伝子組み替えトウモロコシが、米国本国で禁止されているにもかかわらず、フランスに平気で輸出されている始末だ。遺伝子組み替え穀類に大反対している農民総連合の活動家3人は遺伝子組み替えトウモロコシの販売会社ノヴァルティスの倉庫に入って、そのトウモロコシを破壊した。環境省が判断する前にもう輸入が義務づけられた形になってしまっているのが現状だ。

 2/16日の集会は、仏政府の反対表明も兼ね、政府やフランス国営放送のテコ入れされたものであり、文化、映画問題に焦点があったが、二日目17日の労働組合会館での集会は、もっとラディカルで本質的だった。「世界化観測所」と失業者運動を牽引している労働組合などがアド・ホックに連合して組織したもので、知識人、ジャーナリスト、労働組合、前述した農民総連合、失業者、ホームレス支援などの市民団体代表など約500名を集めて開かれた。「ル・モンド・ディプロマティック」紙のB・カッセンは、今日の世界化の本質的な問題は3つあるとし、1.資本の流れ、2.サーヴィスと資産の取引、3.投資で、ここがMAIに関係する部分で、国際投資の完全な自由化と保護であると同時に、国の主権が国際企業の権利に従属させられるものだと述べ、MAIすべてを否定すべきだとした。「唯一の思考=市場経済がすべて」に対抗する「経済学者のアピール」を打った若き経済学者たちの一人、ベトナム系二世、H・N・リエムは、米国型の完全な自由交換、自由貿易は市場経済の専制にほかならないと断言した。

 94年にGATTを受け継いだ世界貿易機構(WTO)はOECDと組んで、あらゆる規制の自由化を推し進めるだろう。WTOこそが、問題のMAIと極めて類似したMIAなる規定をすでに前からWTOの規約に盛り込もうとしていた。この動きに対して、ジュネーヴでは、ピープルズ・グローバル・アクションという組織が、若者を中心に毎週、集会デモとプレス会見を組織し、WTOの正当性が何処にもないことを暴露するアクションを繰り返している。

 端的に言って、MAIは多国籍企業の利益を守るための権利憲章だ。例えば、ある多国籍企業がある国に工場を造るとして、国の政府が、ある化学物質を使うことを禁じたり、騒音、公害防止、または解雇などを含む就労条件の規制を設けようとすると、それはその企業にたいする差別であり、企業の操業を妨害する行為だとして国際商業裁判所に訴えると、国が敗訴してしまう世界経済システムなのである。こんな協定が成立してしまえば、あらゆる社会運動や環境運動はやる意味がなくなってしまうのは一目瞭然だろう。言い換えれば、弱肉強食の市場原理の独裁であり、国や自治体、しいては市民一人一人の主権などまったく無視される。

 内容が明らかになった今、マスコミでも批判が集中している。もし放置しておくなら、MAIは、私たちの日々の生活を完璧なまでに資本に隷属化させることになるのは火を見るより明らかだろう。

MAIについての情報サイト:

Public Citizen's Global Trade Watch

http://www.citizen.org/pctrade/mai.html

経団連

http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/index.html

OECD

http://www.oecd.org

 映画一本さらしに巻いて――幾多の峠を越えながら

上映行脚「山谷 制作上映委員会」

 体をはった(命がけの)闘いや表現活動というものは、このぼんやりとしているようにしか見えない日本にも少なからず存在する。その一つに「生きることが闘い」という境遇を押しつけられている山谷をはじめとする日雇い労働者の闘い、そして、彼らの闘いを支援し世に知らしめようと奮闘する人々の闘い、かなり乱暴に端折った話ではあるが、そのなかで山谷の外で生きる人間も当該者として巻き込みながら作られた映画がある。「山谷(やま) やられたらやりかえせ」だ。そして、この一本の映画を上映し続けることにこだわってきた人たちがいる。「山谷」制作上映委員会(以下「上映委」)である。
 彼ら自身「こんな上映委員会、日本じゃ他にないはずだよ」と語っていることだが、実際、一本の映画を上映し続けている上映委員会なんてそんなにはあるまい。「続ける」といっても生半可ではない。13年間である。上映される一年前の制作の段階を勘定に入れると、彼らの映画とのつき合いは、実に14年間ということになるのだ。
 彼らの活動やその目的を正確に伝えるためには、この映画の紹介もさることながら、それに必要な山谷の歴史、少なくとも当時の山谷の現実やそれをつくり出す社会構造、映画が作られる過程等々の説明が不可欠かもしれない。しかし、それらについてはすでに上映委によってつくり出された様々な資料もあるし、何といっても映画がある。あえてその部分は最低限にとどめ、彼らの活動に注目したい。
 ところで、この委員会の名称は「制作上映委員会」だ。だからといって「制作プロダクション」を意味しているわけではない。当初は「この一本」に限定していたわけではなかったらしいが、「一本の作品を発展させ『次の作品』を制作するということを否定はしないが、それを追求するつもりもない」というのが、メンバーのほぼ一致した見解のようだ。「次の作品」について、メンバーの一人がいった「監督が出てきたらいくらでも協力するよ、ときどき監督は死んじゃうけどね」というジョークにしてもブラックすぎる言葉にドキリとした。が、そのような皮肉をとばしたくなるような現実もあるのだった。
 実はこの映画、二人の監督の手にかかっており、そして二人とも「死んだ」。正確には「殺された」。国の政策に、それにのっかって甘い汁を吸う土建業者に、さらにそこでおいしい思いをする右翼やくざに、そして、そんな社会に安住する多くの人によって。直接手を出した奴、見捨てた奴、見て見ぬふりの奴、あるいは生活保守の思想によって。
 山谷の労働者(日雇い労働者)の現実、闘い、彼らの生活を撮ること、彼らが何と闘っているのかを暴きだし、知らしめること(表現すること)自体が、文字どおりの命がけの闘いとなったのだ。
 最初の監督佐藤満夫は撮影にはいってまもなく、「山谷に巣くうヤクザ(労働者を暴力的に支配し、寄せ場という労働市場において労働者を劣悪な労働条件のもとで使い捨てる仕組みを補完する役割を担うとともに、天皇制を全面に押し出しての労働者の統合をはかっていた)の一つである金町一家西戸組・筒井栄一」(「『山谷 やられたらやりかえせ』パンフレット」・「山谷」制作上映委員会編)によって殺された。1984年12月だ。この上映委はその直後に結成。そして、日雇全協のメンバーである山谷の活動家・山岡強一を監督に迎えてその一年後の1985年12月、映画を完成させた。その山岡強一監督も、映画が完成し上映運動が始まった矢先の1986年1月、「佐藤満夫を虐殺した金町一家の手により、再び虐殺された」(同)。
 彼らのこの映画へのこだわりは、映画完成までの二人の監督の虐殺を象徴とするような政治的・運動的な経過だけではない。もちろん、「佐藤さんがこの映画を撮りきっていたら、このような形態の上映運動が成立していたかどうかはわからない」という声も聞こえた。しかし、これも「結果論としてはいろいろ考えられる」と彼ら自身が語っている見解のひとつである。彼らがこだわっているのは、映画が伝える・表現したもの、「作品」そのものだ。
 ここ10数年間、全体状況は著しく変容した。山谷の状況だけでもかなりの変化を見ている。そんななかでこの映画を上映し続けるという表現活動についての彼らの見解の最初の一言は、「この一本を越える映画がない」だ。
 さらに彼らは語る。
 「この映画が伝えるのは1984年の山谷の現状ではなくテーマだ。84年の山谷の現実の帰着点は、たとえば今日の新宿(「ホームレス」問題)でもあるわけでしょう」 「状況はどんなに変わっても上映を続ける意味は変容しないし、その必要もない。映画はテーマの原理論であり、変わらなければならないのは現場の運動」
 「上映委のメンバーはup-to-date に現在を生きている。10年前の映画とともに語りかけるぼくらの言葉は現実にそくして変わっている」
 「映画の現実を凌駕する現実ができるまでこの映画は無効ではない。もちろん<良い>と思える方向への凌駕だけどね」
 「映画『山谷 やられたらやりかえせ』についてのぼくらの基本的な考え・『山谷』制作上映委員会」というのが、映画のパンフレットに掲載されている。そこには 「一読(一見?)してわかるように、この映画のテーマはいうまでもなく『労務者』である。佐藤さんは山谷の『労務者』たちを撮りはじめ、山岡さんはそれに空間的(日本の中で、世界の中で)・時空的(歴史性)な幅を与えた。つまり、山岡さんは佐藤さんから手渡されたフイルムに、「描こうとする対象そのものの全体性」を導入し、『一編のフィルムとしての全体性』を固めて、これを完成させたといえる」とある。
 映画に描き出されているテーマ・「労務者」の現実が納得のいく方向へ凌駕されない限り、上映は意味を持ち続けるということか。
 映画完成までにさまざまな困難があったということは、二人の監督の死を知らされるだけでもすぐに了解できる話である。それから10数年間の上映運動。この年月は、この映画制作の時点での意志を継続させる時間であったといえるだろう。そしてその意志の継続と実行そのものが、新たな"battlefield"として展開されているのだ。
 彼らは90年、上映委の解散を宣言している。それは「上映をやめる」ということではない。上映運動の形態(意味ではない)を現実に即して変えていくという試みだ。それまでは、東京の上映委が中心で、「山谷の闘いを全国へ」をスローガンに各地の上映実行委の要請で動いていた第一次上映運動があり、その後「全国から山谷へ」をスローガンにした第二次上映キャラバン運動が展開されていた。第一次上映の頃は、動いている人が100人以上いて、全国で一日4〜5ヶ所の同時上映もあるほどだったという。解散は「運動あっての映画という構造から抜け出し、過去の遺産・運動によりかからないで、映画を独立させていこう」ということと、「各地の実行委員会が独立し、上映委が実質もっていたフィルムの上映・使用権を、各地が同等の立場でつかえるようにする」の2点を模索した結果ということだ。彼らは中央事務局的な任からはなれ、いわば上映東京実行委的なスタンスを取り直し、名称も "Office Attack to Attack" に変えた。しかし、フィルムに鋏を入れるか上映断念か、あるいは他に対案があるかという選択を迫られる局面が浮上し、彼らは上映委を再度結成することになる。
 表現の中の差別問題。私が関わっている運動現場でもこの問題は、時には思いもよらぬところでそれが問題であることを私たちに突きつけてくる。私たちは討論に討論を重ねながらなんとか対応していく。私たちには今のところそれ以外の方法を見つけ出せていない。この映画で問題になったのも同じだ。詳細は上映委発行の諸資料に譲るとして、映像のなかの実在人物の顔を切り取るか残すか、あるいはある地域を映像化するときに映画のテーマに沿った必要部分を映像化するのか、地域のもつ歴史性を全面的に出さねばならぬのか。「差別」問題としてそれが問題化されたときの対応は難しい。
 彼らは討論をかさね、一つの結論を出して、現在上映を再開している。彼らの結論はおそらく彼らの本意ではない。彼らは言う。「僕たちはノーカット主義だ」「安易なカットは運動の責任の放棄。このシーンは地域差別に繋がるからカットしましたでは運動とはいえない」と。しかし「その努力を続ける条件はそろってなかった」。彼らは一番討論しなければならない相手と会うことが最後までできず、「その部分を文章で採録する」という条件で、問題となった箇所のカットに踏み切り、上映を再開したのだ。
 「顔をきちんと撮る」という思想に忠実であることと、たとえばそれが地域差別に繋がるという現実とのギャップ。彼らはこのカットに至る経緯について、これらは10年近くかけてそのギャップを埋めていった作業であって、一般的な検閲とはまったく違う問題であると言う。
 たとえば、ある芝居やは「この映画は第一章、われわれはその次の章を芝居で続けている」と語っているいう。そして上映委は「映画は第一宣言、われわれはどうしても第一にかかわっているので第二にはなれないが、第二宣言の手前でやり続ける」という。結果論かもしれない。が、彼らは二人の監督の死と「差別」問題でフィルムお蔵入りか!という三大危機を乗り越えフィルムを救った。かくして上映委は、現在の問題を考える場をつくるため、「84年現在の山谷の現実を越えるテーマ」、つまりはこの映画をひっさげて、活動を再開したのだ。再開の花道は97年10月の「山形国際ドキュメンタリー映画祭」。実質の再上映は翌11月、Plan Bにて。そして、これからの上映会の予定もすでに決まっている。

 4月19日 "Plan B"(中野富士見町) 19時から / 4月30日 BOX東中野(要確認)の二回だ。BOX東中野での上映は、山形映画祭の第二弾的な位置づけでおこなわれるということ。上映はシンポジウムやコンサートなどあわせて開催されることが多い。一度は足を運ばれることおすすめである。
 連絡先は 048-865-7650 ぜひ、お見のがしのないよう。

 

《資料》

国連安全保障理事会 決議 第1154号
(1998年3月2日採択)

 安全保障理事会は、
イラクが従うべき規範を構成する全ての先行する諸決議を想起し、
イラクが〔国連安保理〕決議第687号(1991年)と他の関連諸決議の下での同国の義務に対して、条件や制限をつけることなく直ちに、また完全に従うよう求め、
イラク、クウェイトおよび周辺諸国の主権と領土の保全、そして政治的な独立に対する、全加盟国の確約を再確認し、
国連憲章第7条に従って行動し、

1.イラク政府に関連諸決議の下での同国の義務順守に関する確約を確かなものとさせるための事務総長のイニシアティヴを称え、この観点から1998年2月23日にイラク副首相と事務総長との間で調印された合意覚え書き(S/1998/166)を承認し、その早期かつ完全な履行を期待する。

2.国連特別委員会〔UNSCOM;国連大量破壊兵器廃棄特別委員会〕執行委員長および国際原子力機関(IAEA)総局長との協議の上での大統領敷地〔の査察〕に関する方法の決定に関して、可能な限り早急に安全保障理事会に報告するよう、事務総長に求める。

3.イラク政府が、今回の合意覚え書きでも再確認された、その義務に従って早急かつ無条件、また無制限に、関連諸決議に基づいての特別委員会とIAEAの査察実現に合意することは決議第687号(1991年)の履行のために必須であることを強調し、また、そのいかなる侵害も、イラクにとっては最も重大な結果をもたらすであろうことを強調する。

4.決議第687号(1991年)に言及されている〔経済制裁に関連する〕禁止措置の継続期間に関しては、同決議にある関連諸条項に従って行動する意思が安全保障理事会にあることを再確認する。また、これに関連する義務を履行しないことによって、禁止措置に関して同理事会がなし得る行動を遅らせてきたのはイラクであることを銘記する。

5.国連憲章の下での責任に従って、この決議の履行を確実なものとし、また同地域における平和と安全を保証するために、事柄の重要性を認識して積極的に関与し続けることを決定した。

--------------------------------------------------------------

【付記】

*以上は、イギリスと日本が共同提案国となって提出・採択された国連安保理決議第1154号(日本のマス・メディアなどで「イラク警告決議」と報じられた決議)の翻訳だが、あくまでも「暫定訳」であることをお断りしておく。また〔 〕は、訳者が翻訳に際して言葉を補った部分。
*小渕外務大臣は3月3日の「談話」で、「本件安保理決議は、日英共同提案によるものであり、内容的にも極めてバランスのとれたものとなっている。……外交的解決を図ることが最善と考え、今次決議案についても、かかる外交努力の一環として、英国と協力し、全ての理事国と緊密に協議しつつ採択を目指してきたものであり、その努力が結実したことは極めて喜ばしい」などと発言している。
*ここで言及されている安保理決議第687号は、1991年4月3日に採択された。この中で「イラクの生物・化学兵器およびミサイルについての現地査察を行う特別委員会」(=UNSCOM)の設立について決定している。さらに、経済制裁の終了のための条件についても言及している。また、現在まで継続するイラク経済制裁は、安保理決議第661号(1990年8月6日採択)で決定されたもの。国連憲章第7条は、「平和への脅威と平和の破壊、そして侵略行為に対する行動」についての条項。
*これらの安保理決議は、国連のホームページ【http://www.un.org/Docs/sc.htm】からダウンロードすることができる。国連憲章は【http://www.un.org/aboutun/charter/】にある。また、決議第661号を含む一連の決議(第660号〜第686号)は、『世界 臨時増刊 総決算・湾岸戦争』(岩波書店/1991年)に「非公式訳」として(ほぼ)全文が掲載されている。(『派兵チェック』編集部)