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autonomous lane No.21 1999.10.19 |
【議論と論考】
アキヒト天皇「在位」十年式典への動き本格化――「日の丸・君が代」「奉祝」の強制への抗議を!(天野恵一)
粛清・査問文化をめぐって――責任を問う主体は誰なのか(天野恵一)
【チョー右派言論を読む】
【海外情報】
【書評】
纐纈厚著『侵略戦争――歴史事実と歴史認識』 (小山俊士)
《議論と論考》
国民国家を相対化する改憲の可能性
小倉利丸●富山大学教員
鳩山由紀夫が民主党の代表になったが、この民主党代表選の争点の一つに改憲の是非があった。同様に、自民党総裁選においても改憲をめぐる議論がかなり注目をあつめた。すでに国会には憲法調査会が設置されており、早晩改憲をめぐる動きはより具体的になる可能性がでてきている。
とはいえ、すでに解釈改憲は行われているから、今回の改憲問題は、いわば現実の事態を追認するための法的な最後の手続きを踏み、これを足掛かりにさらにもう一歩も二歩も踏み込んだ新しい国家の支配機構を構築することだろう。
ところで、改憲vs護憲論議という枠組みで、9条をめぐる場合のように、天皇制について護憲の立場に立てるものではない。むしろ、天皇条項を削除する改憲の立場をとる以外にないだろう。右からの改憲論議のなかで、護憲の主張が高まる中で、護憲ではない国民国家を相対化する改憲の道、ラディカルな民主主義と民衆の基本的な権利の獲得のための運動にとっては、護憲ではなくラディカルな改憲しか選択肢はあり得ないと思う。この点についての理論的な問題意識は、『レヴィジオン』に書く予定だから、いまここでは天皇制に関する観点についてだけ簡単に書いておきたい。
象徴天皇規定については、現行の天皇のありかたが、憲法の象徴天皇の規定に抵触するか否か、という問題設定では「イエス」と答えても「ノー」と答えても、どちらであっても正解にはならない。抵触するから憲法の理念に戻れ、と主張しようと、抵触しないと主張しようと、象徴天皇制の条項が憲法に規定されていることがもたらす国民統合の抑圧的な問題は解決できないからだ。
憲法制定当時に期待されていた天皇の機能は、文字通りの単なる「象徴」であって、主権は「国民」(原文の英語では「人民」)にあること、天皇はもはや神聖不可侵な存在ではないということから、天皇制問題は戦後憲法では事実上問題とはならないとみなされた時期が長く続いた。少なくとも既成の革新勢力が天皇制問題を主題としてきたことは、敗戦直後の一時期を除いてほとんどみられなかった。これは、戦後、天皇制の問題が問題としては成り立たなくなった、ということではなく、戦前の天皇制を基準とする考え方が支配的だった時期には、戦後的な天皇制のもつ政治性を見いだす方法を持ちえなかったというに過ぎない。これは、天皇制をめぐる政治性の文脈が転換された結果であり、ある意味で言えば、天皇制の支配を隠蔽するものであったが、この支配の隠蔽を裏付けたのが戦後憲法の象徴天皇制条項だった。
靖国問題、戦争責任問題、建国記念日問題などについてはかなり早い時期から問題化され、天皇が関わる儀礼的な機能や、国体、オリンピック、植樹祭などの文化的な国家行事に果たす機能や、マスメディアの皇室報道などが、「国民的な統合」のための極めて政治的な機能を果たしてきた。こうして天皇、皇室の行為は、単なる儀式だからと軽んずることはできない、ということが徐々に明らかにされる過程があったが、これは、マルクス主義の歴史学、法学、政治学などのアカデミズムの成果というよりも菅孝行、天野恵一や反天連、国家と儀礼研究会などの反天皇制の運動が新たな天皇制批判の可能性を模索するなかで可能にしてきた観点だった。
そして、昭和天皇の即位50周年、60周年、さらに大喪の礼、即位・大嘗祭といった代替わりの一連の儀礼における国民的な同調体制の演出のなかで、非政治的政治性、文化的イデオロギー的な装置としての象徴天皇制の機能があからさまになった。これは、天皇の象徴機能が強化されたのであって、戦前のような主権者への復帰の傾向がみられるということではない。不可侵性はとくに政府、自治体や公的な場面、おおくの表現領域で見いだされる。この点では戦前型の態勢が事実上とられているようにみえるが、むしろより巧妙である。戦前のような植民地をかかえ、欧米列強との帝国主義的な対外膨張の競争状態のなかでの国民統合の装置としての天皇ではなく、内向的な国民統合の装置としての天皇というのが戦後の象徴天皇制の基本的な役割であった。しかし、この間の周辺事態法や有事法制整備のながれのなかで、日の丸・君が代法に典型的に見られるように、天皇の象徴機能は大きな変質と遂げようとしている。それは、象徴的な機能からの逸脱なのではなく、象徴的な機能の質的な転換であって、象徴天皇制であることにはかわりない。
現行政府や保守派は、憲法の象徴天皇制の規定を、戦前の天皇制から主権者、統帥権者、現人神の規定を差し引いて、国家的な象徴としての機能の戦前・戦後の連続性をあきらかに意図しており、戦後の天皇はこの線に沿って構築されてきた。だから、この現にある支配的な天皇制以外に象徴天皇制はないし、より好ましい象徴天皇制を憲法から導くことができるように考えるのは、違憲訴訟などの裁判闘争の戦術としてはありえるとしても、運動を支える理念や基本的な立場とはなりえない。象徴天皇制の質的転換も「変質」なのではない。戦後憲法の天皇条項が内在させていた性格に由来するものなのである。
ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」としての国民国家論を引くまでもなく、近代国家は「国民」という観念を生み出すための装置を持たなければならない。マスメディアや教育などがそううした役割を果たす。天皇はこうした意味で、日本の近代国家へ民衆を統合し、「国民」につくりかえる重要な装置であったし、日本という国家の理念が曖昧であればあるほど逆に「天皇」という象徴の制度は、儀礼的な「かたち」を実体とせざるをえなくなり、ますます人々をそのスタイルにおいて服従させる装置となる。
こうしたフィクションによる統合は、たとえば民主主義が前提とする討議の重要性や、多様な価値観の共存のための試行錯誤といった重要な合意形成のための手続きや制度を形骸化させる。そして、「日本」や「日本人」という合理性のない集団的な観念のなかに有無を言わせず押し込められる。
しかし、他方で、このような19世紀の発明した国民国家というフィクションは徐々にその足場を堀り崩されているように見える。国境はあまりにも狭すぎるからだ。グローバリゼーションはなにも多国籍企業の専売特許ではない。日常化する移民の流れ、国境のないインターネットのようなコミュニケーションは、人々のアイデンティティを拡散させはじめている。いいかえれば、人々の基本的な人権や民主主義を維持するためには国家という枠組みは必ずしも絶対的ではないのである。むしろ、人々の交通やコミュニケーションのありかたからすれば、国民国家という枠組みそのものを相対化する以外にないのだ。そうであれば、象徴天皇制などを憲法の条項に盛り込むこと自体がますます私たちの基本的な権利と抵触することになるのであって、護憲・改憲論争を伝統的な国民国家の枠組みを前提とした議論に回収させてはならないと思う。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.184, 1999.10.5号)
改めて千鳥ヶ淵戦没者墓苑を思う
徳永五郎●城西教会牧師
八月六日の野中官房長官の靖国発言は、@戦争責任はA級戦犯に負って貰い靖国神社からは分祀、A靖国は宗教法人をやめ国の特殊法人に、→B国民全体が慰霊、外国首脳が献花できる様に、として、 小平が「もしA級戦犯が分祀されるなら、私も日本に行ったときに献花する」と言ったそうだ、と付け加える。
野中発言で思ったのは千鳥ヶ淵国立戦没者墓苑のことだが、しかしあれはニクソン副大統領に靖国参拝を断られて造り始めたのだが、当時A級戦犯は合祀されてなかった。政府は宗教上の問題と思い、国立墓苑を造った。
八五年に中曽根首相は、八月一五日首相として初めての靖国公式参拝をしたが、九月には中国政府から批判を受け、一〇月、A級戦犯合祀取りやめを要請したが神社側に拒否された。ちなみにA級合祀は、七八年一〇月で日中平和友好条約調印の二カ月後である。
今回の野中提起は、六月に野中が分祀意見の中曽根に協力を要請し、七月に自民党森幹事長と綿貫神道政治連盟議員懇談会会長(小渕派会長、なお小渕は首相就任前「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」会長)が神社本庁を訪れたあと、なされた。
しかしこれに対し、諸方面からの反対が強いが、特に『神社新報』によって二、三書き並べてみる。
八月一三日の同紙はトップに「靖国神社に絶えず 分祀・特殊法人化に怒りの声」として八月一五日の状況を記している。
「英霊にこたえる会」の慰霊大祭の祭文では天皇の靖国「御親拝」が昭和五〇年以来ないことを、政府の中国に屈した政治姿勢とし、野中発言を容認できるものでない、と批判。
同日日本会議の戦没者追悼中央国民集会では、堀江会長が野中発言に対し、首相公式参拝への努力としては評価しつつ、「その内容は靖国神社の歴史伝統を冒涜するもので絶対容認できない」と批判、政府の屈服外交の脱却と首相の靖国参拝早期実現を求める声明が朗読された。「A級戦犯分祀」については、一九五三年国会で全ての殉難者を「犯罪者」と見なさぬ決議がなされ、「戦犯」呼ばわりは東京裁判史観への完全屈服と徹底批判。「特殊法人化」は明治天皇の思召の否定、現行憲法の信教の自由原則に反する(この点は新宗連も同じ批判)とし、現状のままで首相の公式参拝を決断せよ、と主張。
九月六日の同紙では「神政連だより」が、「A級戦犯」とは国際法無視の報復裁判によるもの、一九五三年、戦争裁判受刑者遺族にも遺族援護法が適用され、一般戦没者と同様遺族年金や弔慰金が支給され、恩給についてもこの裁判の刑死・獄死者の遺族に公的扶助に相当する扶助料が支給され、「A級戦犯」の合祀も官民合意による、と述べている。
翌週の同紙では神政連役員会が、野中発言の二項については「靖国神社有識者懇談会」の早期設置を訴えている。
野中発言の前日、自民党に首相の靖国公式参拝の環境整備として、党内に靖国神社の有識者懇談会を設置する、そこでは、(一)宗教色を薄める靖国神社の特殊法人化案、(二)A級戦犯を他に移して祀る分祀案、が中心的に検討され、首相の靖国公式参拝につなげたい由、と『読売』は八月六日に報じた。
これを翌日の野中発言と併せて考えると、その直接の意図は、(一)首相が公式参拝できること、(二)外国首脳が献花できること、(三)全国民が参拝できること(戦争を肯定、それに向かう国民統合)、である。これはまさに、国立の千鳥ヶ淵戦没者墓苑でなされていること、及びそこで政府が意図したことである。
そもそもこの墓苑は、日米安保条約締結に基づいて五四年初めて来日した米国副大統領ニクソンを靖国神社に連れていこうとしたが断られ、政府はニクソンがクリスチャンであるため神社に行くことを断られたという理解だったが、非宗教のいわゆる無名戦士の墓、米国のアーリントン墓地等をイメージし、翌日閣議で建設が決定された。宮内庁が皇居に隣接した元皇族の土地を提供し、自衛隊の整地作業で始まり、アイゼンハウアー大統領来日が日程になっていた六〇年安保の前年完成された。引き取り手のない戦死者の遺骨が埋められているが、各戦域から少しずつ天皇「下賜」の金の壷に入れられ、最初の年や大事な年は天皇・皇后が行き、別の年も毎年その弟か息子が行って千鳥ヶ淵戦没者墓苑拝礼式が行われている。七五年を最後に天皇の靖国「親拝」がなくなっても、これはなされている(宮内庁の弁)。先の(一)で言うと、首相も天皇も行っている。
しかし(二)で(ニクソンは本当はなぜ靖国を拒否したのか)、アイゼンハウアーは激しい反安保闘争のため羽田に降りれなかったが(急遽沖縄に変更!)、その後外国首脳の千鳥ヶ淵行きは、政府の意図に反して実現してない。ニクソンのときの靖国も、その後の千鳥ヶ淵も、A級戦犯の合祀も骨もない。ドイツでこれに似た墓地をどこだったかの首脳が訪れたとき、「ナチスの墓を!」と強い批判、反対があった(ヒットラーの墓地ではない)。外国首脳の千鳥ヶ淵訪問については靖国神社からの反対もあるというが。
ただ、(三)の、国民統合に向けてはそれなりに資するところはあったと言えないか。八一年頃、社会党、総評、国労、動労等々が八月一五日に千鳥ヶ淵の戦没者墓苑で戦争犠牲者追悼式をしている。果たして『神社新報』は「やうやく彼らも日本人であることに気がついたやうだ」「今まで冷淡だった理由から問ひ質してみようではないか」と、いわばそれまでの「平和思想」の総括を求めている。キリスト教でも六〇年から日本基督教団東京教区社会委員会主催で、六九年からは日本キリスト教協議会(NCC)主催で毎年八・一五千鳥ヶ淵戦没者墓苑平和祈祷会が行われている。内部批判に抗しきれず、主催は有志に変わったが主体は同じである。平和遺族会の中心はこれに熱心なキリスト者が多いが、小川会長は野中発言に対し「A級戦犯分祀や特殊法人化で靖国神社の宗教色が薄まるものではない」と激しい憤りを吐露した。この平和祈祷会に集うキリスト者にとって、千鳥ヶ淵は非宗教なので「信教の自由」が生きるのである。だが「信教の自由」は近代国家が近代国家としてその支配を民衆に貫徹させるためのタテマエであって、人民の側で利用することはあっても人民みずからの本来的武器と錯覚してはならない。そこには宗教エゴの場を保障して宗教人を国家が吸いとる質がある。
ここで戦没者といっても、沖縄、原爆その他非軍人軍属は含まれず、反戦による刑死・獄死者ももちろん除かれる。千鳥ヶ淵墓苑が原型としたアーリントン墓地にせよ、白人の侵略にこうして戦って死んだ先住民族は除くのが国立戦没者墓苑の本質である。
気になったことを二、三。
千鳥ヶ淵平和祈祷会に関して“アジアの全戦争犠牲者のために”とある弁護士が謳ったが、中国人その他侵略された人々はどう見るか。一緒にされたくないだろう。
学ぶことの多い八・一五集会で一昨年、沖縄の「平和の礎」をアーリントン墓地と似ているが……との質問があったが、攻められた側が攻めた側の死者を一緒に刻むのと、攻めた側が、攻めた側の死者だけ、または自分たちが攻めて殺した相手を主観的にか将来か一緒にすることがあるとしても、それはまったく違う。立つ場がまったく違う。東京の人間が東京に集まってやった集会の正面の横断幕に「沖縄から天皇制を撃つ」とあったが、共通の問題を感じた。
これも又学ぶこと多い『「日の丸・君が代」FAX通信』に、“沖縄における「平和の礎」のようなものが仮に構想されたとき、それにどう反対していくのか”と危惧されていたが、“そのようなもの”は日本には「本土」には起こる余地はないと思う。歴史が違うから。
それにしても、なぜ、今、あの野中発言が起こったのか(その可能性は別としても)。千鳥ヶ淵があるのになぜ――。外国首脳については失敗だったとしても国民統合には何らかの役に立ったのだが。もともと日米安保からつくられた千鳥ヶ淵だったが、安保と今の新ガイドラインとではスケールが違うからか。自衛隊法一〇〇条G「改正」(法人救出→海外派兵の拡大、日中戦争はこれで始めた)にしても空中給油機導入の急ぎ様にしても、安保時代とは比較にならぬ大がかりな、広範囲の戦争体制である。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.184, 1999.10.5号)
アキヒト天皇「在位」十年式典への動き本格化
「日の丸・君が代」「奉祝」の強制への抗議を!
天野恵一●反天皇制運動連絡会
『産経新聞』(九月二十八日)はこのようにつたえている。
「野中広務官房長官は二十七日午後の政府与党連絡会議で、天皇陛下の在位十周年記念式典が行われる十一月十二日に各政府機関で国旗を掲揚するほか、地方自治体や私立学校を含む学校、民間企業に国旗を掲揚する協力を要請する方針を明らかにした」。
協力要請については、地方自治体については自治省、学校には各地の教育委員会、民間企業には経団連や商工会、さらには一般家庭には新聞・テレビを通じて呼びかける、との方針であると二十七日の記者会見で古川貞二郎官房副長官が語ったと、そこにはある。
式典当日は半日休、大蔵省が記念一万円金貨二十万枚、五百円白銅千五百万枚を十一月に発行、記念郵便切手、SFメトロカード、記念ハイウェイカードの発行などが予定されているらしい。
『読売新聞』(九月二十八日)は、宮内庁、文部省、総理府などの天皇在位十年記念の「皇室ゆかりの天覧会」の予定を紹介している。
九月二十八日の夕刊の『産経新聞』は、民間側の動きを、このように紹介している。
「一方、天皇陛下の在位十周年を祝う超党派の『奉祝国会議員連盟』が二十八日午前、東京・紀尾井町のホテルニューオータニで設立総会を開き、発足した。衆参七百五十二人の国会議員のうち、共産党を除く衆院二百八十四人、参院百三十三人の計四百十七人が参加。会長に森喜朗自民党幹事長を選した。/政府や民間で組織する奉祝委員会(会長・稲葉興作日本商工会議所会頭)と連携し、在位十周年奉祝行事を支援していく」。
九月二十八日に政府が式典について閣議決定して、いよいよ天皇アキヒト「在位」十周年式典へ向けての動きが本格化しだしたわけである。
ここでふれられている「天皇陛下御即位十周年奉祝委員会」の設立は、七月二日(設立総会)と、グッーと早い。
「設立総会は、大原康男國學院大学教授が司会をつとめ、まず開会の挨拶を島村宣伸日本会議国会議員懇談会会長がおこなった。/続いて事業計画案が戸澤眞奉祝委員会事務総長から発表され/@国民総参加の奉祝行事の開催(十一月十二日、皇居前広場で三万人〜五万人が提灯を掲げて祝賀式典に参加。各地で奉祝大会など)。/A御即位十年記念の文化事業の推進(記念出版、青少年弁論大会など)/B全国での広報活動の展開(記念映画上映運動や天皇陛下の御聖徳を伝える書籍・パンフレット普及)/――が満場の拍手で採択された。/委員会会長の稲葉興作日本商工会議所会頭は『この行事を通じて、皇室と国民をつなぐ絆をゆるぎないものにしたい』と、決意を述べた。/続いて政府代表の鈴木宗男内閣官房副長官、羽田孜民主党幹事長、扇千景自由党副代表常任理事、財界代表の石川六郎日本商工会議所名誉会頭、学会代表の坪井栄孝日本医師会会長、宗教界代表の東園基文神社本庁統理がこもごも祝辞を述べた」(『神社新報』〈七月十七日号〉)。
政府・民間(右翼)が一体となって動いていることが、よくわかる。「祝辞」のなかで注目すべきは羽田孜の発言だ。そこにはこうある。
「羽田民主党幹事長は、どこの国の代表者でも天皇陛下に接すると誇らしげであることを紹介しつつ、法制化で問題になってゐる国旗国歌問題について触れ『国旗を掲げ、君が代を大きな声で歌える環境をつくらねば』と述べた」。
「日の丸・君が代」の「国旗・国歌」としての法制化への動きは、まちがいなく、このアキヒト天皇「在位」十年奉祝式典をにらんでのものだったのである。
国旗・国歌としての「日の丸・君が代」を正面から、全国民に強制して、天皇「在位」十年の祝いを政治的に演出する。こういう政治意図が、権力側には明確にあったのだ。だから、それにまにあわせるためにあんなにムチャクチャなスピードで、法制化してしまったのである。
ヒロヒト天皇「在位」五十年、そして「在位」六十年(一九八六年)と比較して、アキヒト天皇「在位」十年のマス・メディアのキャンペーンはここまでは大きなものではなかった。しかし、政府の側は、「日の丸・君が代」の「国旗・国歌」化という、とてつもない大きな「奉祝」を、すでに実施してしまったのであるということを忘れるべきではない。
アキヒト「在位」十年の「奉祝」キャンペーン・式典批判の動きを、「日の丸・君が代」の拒否の動きと重ねて、つくりだしていかねばなるまい。
「日の丸・君が代」・天皇制の戦争責任・戦後責任をこそ問い続けなければならないのだ。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.184, 1999.10.5号)
粛清・査問文化をめぐって――責任を問う主体は誰なのか
天野恵一●反天皇制運動連絡会
栗原幸夫は『死者たちの日々』という小説を1975年に書いている(三一書房)。これは、この小説が発表される20年ぐらい前の日本共産党内の「反党分派活動」グループへの査問(「神山茂夫派」)と除名という自殺者も出た事実に基づいて書かれたフィクションである。栗原は神山と親しい党員であったのであり、自分たちの査問をうけた体験に基づいて、それは書かれているのだ。
この小説が魅力的であるのは、「党の査問体質」を批判的に抉ってみせたからのみではない。「前衛党」、「党による革命」、「革命の歴史的必然性」といった観念が、まるごと自分たちの中で崩壊していく具体的体験のドラマとしてそれを描き出し、友人を自殺に追い込んだ人々への、「償わせてやるぞ」という決意とともに、それでもなお権力との闘いを持続しようという意思の存在を、ゆっくりと示してみせているからである。
その栗原は1933年12月下旬から翌年1月中旬にかけておきた「リンチ共産党事件」を戦前日本共産党史の一帰結として明快に整理してみせた論文で、以下のように論じている。
「私は手ばなしで暴力を是認しているのでもなければ、査問にあたって被害者にリンチが加えられるのを肯定しているのでもない。ただ私は、政治というものが避けようもなくその底に秘めている暴力性に目を閉ざして、うわべのきれいごとに身を装うことの欺瞞性を強く指摘したいのである。このような暴力を冷徹に認識し、たえず意識化している場合にのみ、その非人間的な発現をおさえることができるのである。そのような認識と意志的な努力に支えられないで、いかに『自由と民主主義』が高らかにかかげられようと、20世紀の過酷な歴史を生きてきたわれわれには、それを信じることはできないのである(「戦前日本共産党史の一帰結」『リンチ事件とスパイ問題』竹内一編〈1977年・三一書房〉の解説)。
この件について、「宮本指導部は、スパイ問題の処理は最高指導部が全責任を負うべき問題であることを自覚しなかったばかりでなく、その処理のしかたも完全にまちがった」と論ずる福永操は、近代刑法学も「証拠能力」を持たないとしている、かつての公安警察まがいの「拷問」による「自白」、この自白の強制という方法を批判している。
「このスパイ査問事件は、小畑の急死の原因がどうであったかということが問題なのではない。そもそも、スパイと疑われた人間をつかまえ、自白を強制するという『査問』そのものが根本的にまちがいなのである」(『あるおんな共産主義者の回想』
1982年・れんが書房新社)。
不可避的に出てくる暴力的対応をおさえこむ冷徹な意志は、人権感覚に支えられていなければならない。暴力的な方法で「自白」させるという方法自体が自覚的に拒否されなければならないのだ。
さて、同一の人物を主役にして1972年に発生した「査問」をめぐる論議の問題に向かわなければならない。「さざなみ通信」は、私の人権蹂躪の査問をした党中央は、本当にそうであるなら、被害者に謝罪・賠償し、責任を取るべきだということを前提にした、彼等の党中央による「名誉回復」要求への疑問と批判(「名誉を回復」する権利などが、加害者の彼等にあるわけがない)を、「偏見」と「差別意識」の産物であると決めつけている(「油井喜夫著『汚名』の書評について『名誉回復問題』をめぐる天野恵一氏の批判に答える」『かけはし』9月27日号)。
査問の被害者である川上徹の『査問』(筑摩書房)にも油井の『汚名』(毎日新聞社)にも、この査問という人権蹂躪は党中央あげての行為であったということはハッキリと示されている。宮本は後景にしりぞいても、党中央のメンバーは大きく変わっているわけでもないし、その伝統的体質(そういう人権侵害をやる権利を自分たちは持っているという思想)はそのままである。だから川上や油井は党をぬけることで、はじめて事実が書けたわけだろう。
事実は明らかにされるべきだろう。しかし、この加害者たちに、その加害行為の事実関係の具体的調査をしてもらおうという発想が、まず私にはわからない。加害者である党中央全体の責任を問い、彼等を責任ある地位からおろすことが可能でなければ、この組織にとっては本当のところなにも始まらないのではないか。加害者自身による自己調査要求(「名誉回復」要求はこれに重なる)などはやはりおかしいと思う。
強力な組織の保護とバックアップがある運動の必要を「さざなみ通信」は力説しているが、私は、『汚名』そして『査問』の著者も、自分を含めたそういった発想の人々の事大主義的よりかかりが、党中央の官僚主義(査問体質)を支えてきたのではないかということに、やっと気づきだし、その内在的反省をレポートしているのだと思う。そこにこそ、この2つの著作の積極面があるのではないか。
(『派兵チェック』No.85, 1999.10.15号)
【チョー右派言論を読む】
「おまえの敵はおまえだ」
太田昌国●ラテンアメリカ研究家
去る六月、年長の友人・山口健二さんが病死した。享年74歳。知り合ったのは、私の学生時代。以後30年有余、断続的にではあったが、付き合いは続いた。手元から本が喪われたので正確な引用はできないが、鶴見俊輔が「(山口健二は)もっとも信頼できる左翼の人間だった」との趣旨のことを述懐したことがあると、かつて森秀人は書いていた記憶がある。私が知るかぎりでも、共産党、社会党、総評、アナキズム運動、新左翼諸党派−時代によってさまざまな潮流と関係を結びながら運動の過程を生きた、不思議な人だった。戦後反体制運動の裏面史、外史、野史を、人を煙にまくフィクションをまじえながら語り得る稀有の人だったと思う。
知り合って間もない、私がごく若いころに言われた。「思想の幅は狭くてよいが、行動の幅は広くとっておくほうがよいと思うよ」。私が、この含蓄ある助言を生かしてやってきたと言い切る自信はない。でもこの言葉は、1960年代初頭の雑誌『白夜評論』に山口さんが書いた「おまえの敵はおまえだ」という文章の表題とともに、記憶から消えることはない。「表題」とあえて書いた。実は、この雑誌もいま手元にはなく、文章の内容を確かめるすべがない。論理の展開というより、アフォリズムの連鎖のような文章であった気がするが、いまの私にその真相はどうでもよく、表題の含意だけが大事だ。
唐突だが、大江健三郎の文章を引く。シカゴ大学で徳川時代の思想史を講じるテツオ・ナジタに宛てた書簡で大江は言う。〈自国の歴史を単純化せず、多様に、リアルに見て、どんな自己中心の夢も押しのけることこそ、二十一世紀の国際社会によく生きるための、本当に新しい「仁」と「義」の教育ではないでしょうか。(中略)しかし、実際に盛んになりそうなのは、「日の丸」「君が代」の法制化に力をえた、歴史家でも教育者でもない人々が歴史教科書を作りかえるという、他者の痛苦をくみとる「仁」とも、フェアの精確さの「義」とも無縁な動きなのです〉(1999年10月5日付け『朝日新聞』夕刊
)。
「歴史家でも教育者でもない人々が歴史教科書を作りかえるという」事実に苛立つ大江は、この前段でも、この考え方と無縁ではないであろう夢を語る。アジア太平洋戦争の末期、大江の父親は毎晩酒に酔っては、無学な商人である自分を恥じていたと回想したうえで、大江は言う。テツオ・ナジタの『懐徳堂−18世紀日本の「徳」の諸相』を読みながら、酔って身体を揺らす父親の前に無力感と悲しみをもって正座するばかりの自分に、「仁」を《人間の寛容さ、同情、慈悲心の基礎》とした徳川期の学問所の開基者の言葉に倣って、それならお父さんにもあると思うと言うことができたなら、と夢みたことを。大江はここで、わずか10歳にも満たぬかの年ごろの自分に、こんな言葉で父親を慰めえたかもしれぬ役割を仮託している。
実は、後者の夢想には、畏れ入りましたとでも言って、引き下がるしかない。10歳のわが子にこんな言葉を吐かれたら、父親は酔いにまかせて、きいたふうのことを言うな、と殴りつけるのではないかというほうへ、私の想像力は及ぶからである。「お父さんは、恥じる必要はないと思う」と励まし得た、幼い自分を含羞もなく仮想できる大江は、うまくは言えぬがどこか勘違いをしていると思え、そのあまりの優等生ぶりに大きな違和感をおぼえる。
単なる違和感に終わることのない、批判的な思いは、優等生ぶりではひけをとらない、前者の発言に対してこそ生まれる。「歴史教科書を作りかえるという」「歴史家でも教育者でもない人々」というのは、『戦争論』などを描き続ける小林よしのりや、間もなく『国民の歴史』を刊行するであろう西尾幹二らのことを言いたいのだろうか? 私自身も幾度も書いてきたように、私も小林や西尾の歴史観には深い批判をもつ。だが、それは「歴史家でも教育者でもない」彼らが歴史に口出しすることに対する批判では、決してない。内容に対する批判である。むしろ、小林たちの表現が大きな「成功」を収めてきたのは、「歴史家や教育者」などの口舌の徒=インテリ=言葉や文字をもてあそび、行動しない人間への敵意を煽ることで、硬直した学校教育に苦しみ、(大江のような東大出、ましてやノーベル文学賞受賞者!に象徴される)エリート主義への怒りを燃やす人びと(とりわけ若者)の共感を獲得できているからだと考え、この事実の重大性に注目している。
「たかが漫画家」が社会・政治問題から、若者の性・エイズ問題に至るまで、知の高みにいる者たちを辛辣に当て擦りながら〈本音で〉描く。「たかがドイツ思想家」が「日本の歴史」などという大それた一書の執筆に果敢に取り組む。立派な専門家としての歴史家や教育者が、上から描く空疎な歴史書には欠けている何かを、内容の当否以前に、人びとはそこに感じているのだ。この種の表現がなぜかくも大勢の人びとの心を捕らえているのかを掘り下げること、そのうえで内容の当否を問い、批判する有効な道を探ること。そのことこそが求められている時に、大江は手垢にまみれた〈専門性〉の囲いの中から〈敵〉を撃とうとしている。驚くべき時代錯誤、というべきである。大江がこう表現する時、どんな理想的な歴史家や教育者を思い浮かべているのかは知らない。だが、自由主義史観への批判を行ないながら私は、ほかならぬ私自身が読み込み、影響を受け、信じた時期もあった歴史観には、〈日本ナショナリズム〉に収斂していくという一点において、批判されるべき自由主義の歴史観と通底するものがあるということを省みざるをえなかった。その意味で、私は、遠山茂樹、江口朴郎、上原専禄、竹内好、井上清、石母田正らの主著を読み返す作業をしている。読めば読むほど、〈敵〉はわが裡にあり、「おまえの敵はおまえだ」との思いがわいてくる。それは、この作業の渦中で、かつてこの表題の文章を書いた山口さんの死に出会ったから、ばかりではない。ナショナリズム批判とは、自分の中にも巣食うそれともたたかわなければならぬ困難な作業だとあらためて思うからである。右派言論と対峙してきたこの数年間を経ての思いは、そこへ行き着いていることを、私は知る。(
1999年10月11日記)
(『派兵チェック』No.85, 1999.10.15号)
「教育改革」という戦場
伊藤公雄●男性論
東海村の原子力施設の事故の真っ最中、第2次小渕内閣が成立した。大臣、政務次官の年齢が前回と比べて4〜5歳高いといわれる。「滞貨一掃内閣」という声のある一方で、重量級内閣などという声もある。ジーと顔触れを見ていると、確かに、ベテランが多い。また、元官僚という政治家も目立つ。こうした布陣の背景には、小沢自由党の主張する「国会改革」があるといわれる。この「改革」によって、政府委員という名の官僚答弁ができなくなったのだ。クエスチョン・タイムなどという議員間のやりとりの場も設けられる(これも政治のショー化にしかならないかもしれないが、まあ、見世物として、面白いといえば面白い)。そんなとき、野党の質問に、答弁できるくらいの才覚の人物でないとカッコ悪いということで重量級の登場ということになったのだろう(与党内にまともに議論できる議員がいかに少ないかということでもある)。
しかしこの新内閣、よく見て行くと、大臣および政務次官には、アレッと思うようなタカ派が目立つ。なかでも、瓦防衛庁長官や中曽根ジュニア文部大臣などというのを見ていると、ナルホド、という気分にさせられる。というのも、今期の内閣のテーマは、たぶん有事立法と「教育改革」ということになると思うからだ。
それにしても、今回の「国会改革」、政治の右傾化という時流においては、かなりヤバイと思うのはぼくだけだろうか。もちろん、政治家がきちんと議論ができないようでは困るのだが、実情は、特に保守系の議員の場合、ほとんど理念をもたない利権の維持・拡大と単純な権力志向の政治屋さんが多い。政治(家)優位の構図は、こうした展望なき単純な右派をのさばらすことにつながる可能性がある。
すでにその傾向は、ここ数年見え始めている。たとえば、今回の「日の丸・君が代」法も、政治(家)優位でドンドン進められてきた。こうした動きは、まがりなりにも日本の保守政治の背骨を支えてきた(上からの管理主義の政治を進めてきた)官僚中心の政治に対して、今後、これまでになく政治家のヘゲモニーが急速に強まる可能性を生み出すだろう。確かに、官僚政治は、戦後一貫して民衆を戦後秩序のうちに管理する役割を担ってきた。しかし、その一方で、保守派・反動派の政治家に対しては、ときに甘い汁をすわせてなだめつつ、極端な右寄り路線については、それを制御する力としてそれなりに作用してきたのも事実である。「国会改革」は、たぶん、こうした官僚的な現状維持に向けた歯止めを食い破り、政治(家)優位の意志決定の仕組みを強化することに結びつく可能性が高いはずだ。長い目でみれば、国会議員や大臣が、きちんと国会で議論するというのはあたりまえだ。また、民意を代表していないエリート官僚が、陰で政治をひっぱるのは確かに問題だ。しかし、現状では、日本の国会が「普通の国の国会」になる前に、強引な右寄りのシフトができあがってしまう可能性がある。
繰り返すことになるが、居直り始めた小渕内閣の次なる課題は、有事立法と教育「改革」になるだろう。保守論壇、特に『諸君!』や『正論』などでも、この教育「改革」(改悪)に向けたキャンペーンが盛んになりつつある。「日の丸・君が代」に続いて、次のメルクマールになるのは教育基本法改悪だろう。中曽根ジュニアも、愛国心教育の必要性などとからめてこの問題にふれている。すでに『正論』『諸君!』などでは、八木秀次氏を代表的なスポークスマンとして、文部省の寺脇企画課長たたきや、教員組合たたきが開始されている。文部省と教員組合を同時にたたくというのだから、時代は変わったものだと思う。特に、文部省の個性重視、ゆとり教育への風当たりが強いのが特徴だ。これに、自由主義史観の藤岡東大教授などの教科書採択をめぐるキャンペーンや、10月末発売予定の新しい教科書を作る会のパイロット版出版と、右派の教育キャンペーンが続くことになる。
こうした動きに、「学級崩壊などの子ども問題の背景には、子どもを甘やかしてきた戦後の民主主義がある」だとか、「もっときびしく管理しないと子どもが社会的ルールを身につけられない」とか、「個人主義が強くなって、公的な問題に対する意識が弱まっている」とか、「権利ばかり主張して義務が果たされていない」とかいった言説が、なんとなく「説得力」をもってしまうような状況もまた作り出されている。実際、自分の身の回りを見ても、読書量の多いと思われる学生ほど、こうした保守的言説にいかれている者が多いのが現状だ。
もちろん、子どもをめぐる諸問題が、「厳しくしつければ問題は解決する」といった単純なものでないのは、少しでもこうした課題を真剣に考えた人ならわかるはずだ。しかし、性急に問題の解決をはかりたいという世論のなかで、管理・統制による子どもの馴致・秩序への組み込みという論理が通りやすいのも事実だろう。「日の丸・君が代」問題だって、結局のところ、「教育は強制だ」という論理が、右派の、おそらくは多くの人々を説得するための理論的バックボーンになっているのだ。
『諸君!』11月号の「教育を崩壊させた懲りない面々」を読んでいたら、登場している学校の教師というのが、全貌社から本を出しているという人だったり、福岡県の秩序派教員組合(福岡教育連盟)のメンバーだったりしている。特に、福岡のこの教員組織はすでに日教組の組合員と同じくらいのメンバーがいるとのこと。しゃべっている中身は、「イデオロギー教育を越える」という徹底した右翼イデオロギーの押しつけ路線。「そんなに統制国家がいいなら、疑似天皇制国家であるお隣の金正日さんの国にでも行かれたらどうですか」といいたくなるくらいだ。
いずれにしても、有事立法とともに、教育基本法改悪を軸にして、「教育」という微妙な問題が、今後、右派言論と対決するための重要な場になっていくのは間違いないところだろう。
(『派兵チェック』No.85, 1999.10.15号)
【海外情報】
ゴラン高原の自衛隊
森田ケイ
9月5日、パレスチナ暫定自治当局のアラファートとイスラエルの新首相バラクが「修正ワイ合意」に調印した。
当初、7月6日のバラク首相就任を受けて、マスコミでは様々に脳天気な報道がなされていた。しかし7月27日、アラファートとの2回目の首脳会談の際にバラクが、「イスラエル側が凍結しているヨルダン川西岸の13%にあたる占領地からの軍追加撤退の履行について、一部を国境問題などを扱う最終地位交渉と一体化させる案を正式に提示した」(毎日新聞ニュース速報・7月28日付ほか)ことから、事態はグシャグシャとなった。「最終地位交渉」とは、そもそも1993年9月にワシントンで合意された「原則宣言(=オスロ合意)」に記されている。エルサレムという街の帰属、歴史的なパレスチナ「難民」たちの帰還、入植地問題、イスラエルとパレスチナの境界線の確定など、双方にとって合意困難な諸問題の「最終的」な解決策は、とりあえずパレスチナ暫定自治を開始した後に話し合うという、その交渉のことだ。
この7月27日のバラク提案は、1998年10月23日に調印された「ワイ合意」−米クリントンの仲介のもとでの8日間に渡る集中的な討議によって、アラファートが、当時イスラエル首相だった強行派のネタニヤーフとの間で実現した「最大限度」の成果としての合意−を事実上、イスラエル側が一方的に変更することを意味した。
アラファートからすれば、この「ワイ合意」を受けて被占領下ヨルダン川西岸地区の13%からのイスラエル軍の追加撤退を実現、今年5月4日に5年の期限を迎える「暫定自治」終了と同時に「パレスチナ独立国家」宣言をおこなう、とのシナリオがあった。しかしイスラエル軍の追加撤退は、昨年11月に一部分的(2%)が実現しただけ。さらに翌月(12月)になってイスラエルが、総選挙を今年5月17日に前倒しすることを決定。5月4日の「暫定自治」期限切れは、イスラエル側のこの「作戦」によって、みごとに政治的焦点からはずされてしまった。つまり総選挙目前に「独立宣言」をすれば、それはイスラエル世論の支持を強行派のネタニヤーフに集める効果を生む一方、「独立宣言」延期はアラファートには敗北に等しい。それでアラファートは、今年の春に「全世界行脚」を行った。「2カ月間で50カ国以上を歴訪」したという(毎日新聞ニュース速報・4月29日付)。4月7、8日には日本にも来た。各国から「独立国家」への支持を取り付けようとしたのだが、逆に各国首脳から「独立」を思いとどまるよう説得を受けた、というのが実際のところだったようだ。
合州国は「安全ネット」を張った。この5月の「暫定自治」期限切れとイスラエル総選挙に先立つ4月26日、ホワイトハウスのロックハート報道官が、「米国は双方が最終地位交渉を急ぎ、1年以内に合意に到達するよう呼び掛ける」と述べた(毎日新聞ニュース速報・4月27日付ほか)。暫定自治を1年先延ばしにして、なんとか「中東和平」継続の枠組みを保とうとしたのだ。そして5月17日、総選挙でネタニヤーフが敗北。バラク新体制は7月6日、120議席のクネセット(イスラエル国会)で75議席を占める連立として立ち上がった。バラクは7月11日にアラファートと第1回目の会談を行い、共同記者会見では「ワイ合意」遵守も表明された。
こうした経過の後の、7月27日の「追加撤退と最終地位交渉との一体化案」だった。ここから紆余曲折が始まった。そして結果的に9月5日に合意された内容は、おおまかに「最終地位交渉は今月13日までに再開、1年後の決着を目指す、▽イスラエル軍は3段階で来年1月20日までにヨルダン川西岸の11%から追加撤退、▽パレスチナ政治犯ら計350人を10月までに釈放。さらなる釈放を協議する、▽10月にガザとヘブロン間のパレスチナ人『安全往来』を開始、▽ガザ港の建設は10月1日に開始」というもの(朝日新聞ニュース速報・9月5日付)だった。
一言でいえば、昨年10月23日の「ワイ合意」は、パレスチナ側が合州国(具体的にはCIA[中央情報局]!)の協力をも得ながら「テロ」取締りを強化するなどの措置に同意することと引き換えに、イスラエル軍がヨルダン川西岸の一部地域から撤退することを中心に組み立てられていた。一方、今回の「修正ワイ合意」は、「最終地位交渉」の具体的な再開(もちろん、これはバラクにとっての大きな政治的獲得ポイントだ)と引き換えに、昨年の「ワイ合意」で合意されていたイスラエル軍の撤退に改めて(!)合意したものだ。
さらにイスラエルは10月7日、「修正ワイ合意」に基づくパレスチナ人政治囚350人釈放の第二陣としての151人の釈放を延期した(第一陣199人の釈放は9月9日に実現)。「パレスチナ側が五年以上収監されている政治犯の釈放を要求したため、両者の妥協が成立しなかった」というのがイスラエル側の主張(共同通信ニュース速報・
10月7日付)だが、釈放される政治囚の数が350人というのは、そもそも「修正ワイ合意」に至る過程でイスラエル側の主張する数字にパレスチナ側が妥協した結果だった。結局のところ現在の「和平プロセス」とは、イスラエル側の条件と要求に見合う限りにおいてのみ「進展」する、そうした「和平」でしかない。
最後に日本との関わり。9月24日にニューヨークで開かれた「米ロ両国が共同議長を務める中東和平支援の閣僚級会合『平和のパートナー』」に日本も参加し、「佐藤行雄国連大使は、日本が議長を務める環境問題の作業部会を12月初めまでに再開するとともに、豊富な古代遺跡などをもとに将来性のある観光開発にも尽力していく方針を表明した」(朝日新聞ニュース速報・9月25日付)。そして10月8日に河野洋平外相が、14、15日に「パレスチナ支援調整東京会議」を外務省で開催すると発表。河野外相とボッレベック・ノルウェー外相が共同議長を務め、アラファートの他に合州国、ロシア、欧州連合、ヨルダン、エジプト、世銀などから関係者が出席するという。日本は、まだまだしっかりと、こうした現在の「中東和平プロセス」に寄り添っている。(10月8日 記)
(『派兵チェック』No.85, 1999.10.15号)
《書評》
纐纈厚『侵略戦争――歴史事実と歴史認識』
(ちくま新書 六六〇円+税)
小山俊士●反天皇制運動連絡会
従軍慰安婦の教科書記述をきっかけに拡がった「自由主義史観」グループの活動は、今秋歴史教科書のパイロット版を発行するという。この間、いくつもの戦後補償を求めた裁判に棄却判決が出され、国会ではガイドライン関連法案をはじめとする戦後日本国家を根本的に変えていく法律が制定されている。九〇年代に入って、被害者の訴えに促されながら行われてきた日本の戦争責任追及の動きがおかれた非常に厳しい状況を見るとき、この国における歴史認識の現状について悲観的な気分にならざるを得ない。しかし、天皇の代替わりの前後から現代史の研究は急速に進展し、日本の戦時期・占領期について多くの事実が明らかにされてきてもいる。本書は現代日本の政治・軍事に関わる歴史研究を続けている著者の論文のうち、一般向けに書かれたものを戦時期を中心として集めたものである。こうした研究の成果を歴史認識として広げていくことが必要なのだろうと考えさせられる。
序章において著者は本書の意図を次のように明確に述べている。「“歴史の管理”者として過去の歴史を歪曲・隠蔽しようとする国家や、そうした路線に忠実な政治家や歴史修正主義者たちの犯罪性を告発し、国家から歴史の〈取り返し〉を急ぐことにある」。そのために、侵略戦争を指導してきた国家の支配層の内実を細かく分析していくという方向が全体を一貫している。
本書の中で、第一章はやや特異な位置にあって明治期を対象とし、当時の諸言説の分析から、「日本の近代化とは、一面において侵略思想を基盤にしながら、この「帝国意識」を内在化させる歴史過程そのものであった」ことを示している。例えば、「明治専制政府との基本的対抗軸を形成」した自由民権思想においても、「中国の現状を見たことから発する中国への差別・蔑視が西欧の近代化の実際を見聞する中で培われ」ていき、やがては「西欧諸列強の侵略への脅威は観念としては存在し得ても、それ以上にアジアを犠牲にし、アジアを収奪することで近代国家日本の建設を果たすことが正当な論理として定着していく」ことになったとする。そして、日露戦争後の軍の「大陸経営論」が、十五年戦争へとつながっているという連続性を指摘している。
第二章から第五章までが日本の戦時体制の研究である。侵略戦争の拡大や日独同盟において海軍がまたも積極的な役割を果たしたこと。戦争指導体制において、国務(政治)と統帥(軍事)、陸軍と海軍の分裂の中で天皇や側近が大きな役割を果たしたことについて分析を行なっている。海軍や宮中・重臣グループによる「戦争継続の意思の固い天皇を、あくまで『国体護持』を目的とする戦争終結方針に同調させる試み」としての「終戦工作」について、様々な文献を利用しながら丁寧に描いている。それとともに、沖縄の遊撃隊、「国頭支隊」についての実証研究に基づく日本軍の実態を明らかにしたところは強く印象に残るものだ。後方撹乱と防諜のためと称して、米軍上陸後に残され潜伏した離島残地工作員が、米軍の捕虜となった住民の抹殺を行っていった過程などは、日本軍の実態をよく表現している。
第六章は、「残された課題は何か」で戦後を対象としている。間接統治、占領改革、片面講和などを当時の国際関係の中で位置づけ、その過程で旧軍関係者などが戦後の支配層にどう復活していったかについての問題提起が行われている。
本書の中心となっている戦時体制の分析は、前著『日本海軍の終戦工作』(中公新書)を受け継ぎ、多角的に分析を行うことでそれを補っている。新書にしては全体のまとまりが弱いといえるが、個々の論文は興味深いものである。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.184, 1999.10.5号)