alternative autonomous lane No.23
1999.12.20

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目 次



【議論と論考】

雑学「ユニオン・ジャック」(青山薫)

イタリアの国旗と国歌(片桐薫)

天皇(皇室)信仰の空洞化――「天皇在位十年式典」が浮かび上がらせたもの(天野恵一)

「支配層の国家改造に反対する」共同行動の必要を!(高田健)


【沖縄の闘い】

沖縄・名護でおきていること――キチンと事実に注目しよう(天野恵一)

【書評】

戦後憲法思想へ潜入させられた国家思想――纐纈厚著『侵略戦争』(伊藤晃)

戦後日本の「ねじれ」をどちら向きにとくのか ――武藤一羊著『〈戦後日本国家〉という問題』(冨山一郎)






雑学「ユニオン・ジャック」

青山薫●ピープルズ・プラン研究所

 サッカーのワールドカップ(九八年に初めて日本が出て一勝どころか一点も取れずに負け続け、予選の時はジョホールバルへ日本人が大量に押しかけてって、競技場で「日の丸」振りまくってアジアで大ひんしゅく買ったやつ)や、ラグビーのワールドカップ(この前オーストラリアでやったやつ。日本も結構回数は出てるんだけど、西洋人解説者に「いやぁ、なかなか上手なんだけどいかんせん小さすぎますね」とか「我慢がたりないですねぇ」とか毎回言われてるやつ)、観てると「わが国」の必然的に「男ばかりの集団」の情けなさに思わず脱亜入欧したくなってしまうが、「日の丸」に比べて、私の愛する国イギリスの旗「ユニオン・ジャック」は見当たらない。
 実はこれが、かの「ユニオン・ジャック」とわれらが「日の丸」の一番違うところを言葉どおり「象徴」しているというわけ。
 私はべつに旗章学やスポーツや英国文化の専門家ではないので、聞きかじり見かじりと受け売りで書いているのだが、それでも実際「イギリスの○○について説明してよ」と言われて始めに困るのが、「イギリス」とは何かを限定することだ。
 日本語で「イギリス」と言えば一般的には英語表記の United Kingdom という連合国のことだと思われる。でも、よく知られている「イギリス」の語源は England(以下、イングランド)である。この「国」は United Kingdom の一部を構成するひとつの Country であって、 Nation State の意味での国家ではない。で、「イギリスの国旗」となると少なくとも二種類のものを想定しなければならない。普通に思い浮かぶのは、「ユニオン・ジャック」。青地に白のななめ十字、赤のななめ十字、赤の縦十字が重なりあっているあれである。デザイン的に洗練されているのが人気の秘訣だと、デザインの本とイギリス海軍のホームページに書いてあった(このデザインの本には「日の丸」もとても好ましいと書いてあった)。もうひとつはイングランドの「国旗」。イングランドの旗は、キリスト教上の守護聖人のシンボルで「セント・ジョージ・クロス」と呼ばれる、白地に赤の縦十字だ。
 この白地に赤の縦十字が、「ユニオン・ジャック」のデザイン全体に君臨しているのが興味深い。「ユニオン・ジャック」は、小学校の運動会になぜかつきものの万国旗の記憶では、ただ縦横ななめに赤い線が走っているだけの気がしていたが、それは間違い。よく見ると、垂直方向と水平方向に図の中心をそれぞれ区切っている赤い十字とその周りの白い縁取りが一番太く、他の十字と地の青の上から重ねて描かれているのが分かる。下に描かれている青の地と白いななめ十字は、スコットランドのシンボル「セント・アンドリュー」の旗。そして、もうひとつの白地に赤のななめ十字は、アイルランドのシンボル「セント・パトリック」の旗だ。「洗練された」デザインは、イングランドによる征服の歴史をそのまま物語っていることになる。なるほど「ユニオン・ジャック」の始まりは、大航海時代に近代国家概念がつくられつつあり、経済大国間で小国を侵略征服する競争が起こり、国籍による船の見分けが必要になったことからへさきにつけた小旗(jack)だった。
 スコットランドは、日本から観光で行けばイギリスの一「地方」という感じ。ネス湖、ウイスキー、エディンバラ・フェスティバルに最近はわざわざ蜷川幸雄を観に日本人が大挙して押しかけるところとして知られている。でも、本当は「地方」なんかじゃなく Country の意味ではれっきとした「国」。独立した議会をもち、独自の教育制度をもち、独自の紙幣と硬貨も発行している。いわゆる「英国教会」とは別の国教会(長老会派)もある。イングランド「国境」の向こう側には「ヒューマニティはない」とスコットランド人はこっそり言うし、長老会派教会は「洗練された宗教者の足を踏み入れるところではない」とイングランド人はこっそり言う。スコットランド人にしてみれば、短く見積っても三六六年間、安価な労働力の供給地として扱われてきた恨みはなかなか消えないだろう。いまでもナショナリスト党は議会で議席をもち、独立を目指して「国民」投票を呼びかけるが、そのたびにイングランドへの経済依存を理由に立ち消えにされている。
 かたやアイルランドである。観光客として行けば「緑の島」「妖精の島」「ケルト文化」「アラン・セーター」「ジェイムス・ジョイス」…… 輝くばかりに美しいこの「国」は、同時に、イギリス最後の(といわれている)植民地「北アイルランド」とひとつの島を共有し、分断以前はひとつの国を構成していた。アイルランド自身、共和国として独立する前に二〇〇年間のイングランドによる併合時代があり、それ以前に四五〇年間の「統治」に対する流血の抵抗があり、小説や詩になると「八〇〇年の圧制の歴史」とある。一九七二年になって英国軍による「暴動」鎮圧で一三人が殺された「血の日曜日」は、私の世代でもレノン&オノやU2の歌で身近にある。(♪Sunday, bloody Sunday, bloody Sunday, is THE Day......♪)当然のように、アイルランド人はイングランド人を、ホントは動物虐待が趣味で「あいつら世界中で犬しか愛してないんだ」とこっそり言う。イングランド人はアイルランド人を「『湾岸戦争』に行け、って言われたらスエズ運河じゃなくてパナマ運河へ行くんだぜ、きっと」とこっそりばかにする。いま和平交渉が現実に進んでいるのはすごいことだ。
 という訳だから、と、簡単に言ってしまっていいかどうかは別としても、まったく別の「国」が別の強国に制圧され続けていることがデザイン化された「国旗」を、独立国家となっているアイルランドはもちろん、今もイギリスに属させられている北アイルランドもスコットランドも、「国旗」として掲揚することはない。United Kingdom は「グレイト・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」の略称で、「グレイト・ブリテン」はイングランドとスコットランドの総称であるにも関わらず。
 「ユニオン・ジャック」は「国旗」として法律で定められたことは歴史上ないし、今でも定められていない。歴史の浅いオリンピックなどではイギリス「国家」として United Kingdom の代表が出てきて、メダルを取ると「国歌」が演奏され「ユニオン・ジャック」が国旗として掲揚されるが、サッカーなんかでは、そもそも United Kingdom の代表チーム―いわゆる「ナショナル・チーム」はつくれないのだ。ワールド・カップにはイングランド、スコットランド、アイルランド、そして一四〇〇年代に併合されて旗にものらないほど軽く扱われてきているウェールズ(ウェールズだけは「地方」と呼ばれている。しかし独自の言語をもっている)まで、それぞれ別の「国」の代表チームをもって対戦する。スコットランド対イングランドの予選の時など、試合のある街はまるで戒厳令下となる。ラグビーでは、ヨーロッパだと「五ヶ国対抗戦」というのが一番盛り上がるのだが、「五ヶ国」(Five Nations)の中身がイングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズ、フランス、というわけの分からなさである。
 もっと日常的に、学校での扱いはどうかというと、「ユニオン・ジャック」は言わずもがな、他のどの「国旗」も公立学校では掲揚されることはない、と小学校教員の友人は言う。法律で禁止されているのかどうか調べていないが、イギリスに住んでいたころ近所にあった英国国教会系の市立小学校でも、どこにも何の旗もなかった。宗教に関しても思ったことだが、おそらく多文化・多民族国家の統合について、アメリカなどとは違う考え方と政策があるのだろう。
 アメリカと言えば、「ユニオン・ジャック」は多分アメリカの星条旗と並んで日の丸よりも何よりも、世界中で燃やされる機会が多いだろうが、アメリカ国旗とも違って燃やしても「国旗冒涜罪」もない。ちなみに、アメリカには「国旗冒涜罪」という明文法があって、破損したり故意に侮辱的に扱うことは犯罪行為とされている。図書館で英米法の判例集をめくってみたら、アメリカでは星条旗をパンツにした人物を有罪にした判例があると書いてあった。
 これが私の目を惹いたのは、「ユニオン・ジャック」のパンツ一丁で夏の夕暮れをジョギングしているおじさんなんか日常茶飯事だったからだ。ロンドンあたりでもきっと、チープなマーケットに行けば観光客向けの「ユニオン・パンツ」を売っているに違いない。
 「日の丸のパンツ」って強制されたらコワイけど、もて遊ぶためならつくってはいてみてもいいかな。ちょっと図柄がキワドイが。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.29,  1999年12月11日号)













イタリアの国旗と国歌

片桐薫●グラムシ研究

 イタリアの国旗と国歌は、ともにイタリアの近代的な民族国家の独立運動の歴史と分かちがたく結びついて生まれてきた。
 まず国旗である。
 一七八九年のフランス大革命とナポレオン一世の台頭は、イタリアに大きな反響をもたらした。各地の都市における民衆運動のなかで、「フランス人のようにやろう」という声が湧き起こってきただけではない。イタリア人に自由・平等の思想や、自由主義・民主主義の雰囲気を芽生えさせ、分裂していたイタリアの独立と統一国家の建設という願望を強く醸成していった。一七九六年春、イタリア人がナポレオンの軍隊を解放者として歓呼をもって迎えたのもそのためだった。
 ロンバルディアに兵を進めたナポレオンによって、モデナ、レッジョエミリーア、フッラーラ、ボローニャの各都市の連合共和国を統一したチスパダーナ共和国がつくられ、フランス三色旗の青を緑に変えた旗がイタリアのシンボルとして承認された。自由・平等・友愛を表すイタリアにおける最初の三色旗だった。翌年七月、チスパダーナ共和国は、ミラノを首都とするより大きなチザルビーナ共和国に吸収され、三色旗を国旗とする強力な国家が中・北部イタリアに形成された。しかしながら、ナポレオンの没落とともにイタリアは、ふたたび小国が分立することとなり、それとともに三色旗は使われなくなっていった。
 だが、一八二一―二三年にわたる「炭焼き党」から、「青年イタリア党」、そしてさらにサルデーニャによるリソルジメント(イタリア国家統一運動)のなかで、ふたたびこの三色旗がかかげられるようになっていった。一八六〇年、イタリア半島を統一するサルデーニャ王国が成立し、真中の白の部分にサヴォイア家の紋章をつけた三色旗は、同憲法で国旗として制定され、一九四六年まで続いた。
 第二次大戦後の一九四六年、「王制か共和制かを問う国民投票」がおこなわれ、前者支持の一〇七一万票にたいして、後者は一二七一万票で、共和国への移行が決定した。それにともなって新たに制定された「イタリア共和国憲法」では、「第十二条 共和国の国旗は、イタリア三色旗、すなわち緑、白および赤の三つの幅の等しい縦縞の旗である」と明記された。つまり、それまでの三色旗の中央部分にあったサヴォイア家の紋章が削られたのである。それだけではない。同憲法末尾の「経過規定および補則」には、こう付記されていることも見落としてはなるまい。「十二 サヴォイア家の家族および子孫は、選挙権を有せず、公職または被選職につくことができない。/サヴォイア家の旧国王、その配偶者およびその男子孫は、イタリア領土内に入り、また滞在することを禁止される。/イタリア領土内にあるサヴォイア家の旧国王、その配偶者およびその男子孫の財産は、国に属する。一九四六年六月二日『国民投票の日』以後に生じたその財産に関する物権の移動および設定は、無効とする」。

 国歌についての規定は「共和国憲法」の規定にはない。だが、「イタリアのはらからたちの賛歌」ともよばれる「イタリア国歌」も、これまで見てきたイタリア統一への強い願いのもとに生まれたものだった。
 この作詩者ゴッフレード・マメーリ(一八二七―四九)は、ジェノヴァ生まれの詩人で愛国者だった。一八四七年、ガリバルディ将軍のもと赤シャツ隊の義勇兵としてイタリアの国家統一運動に参加したマメーリは、統一戦争に従軍中、この「イタリアのはらからへの賛歌」を作詩した。作詩者の名をとって「マメーリの賛歌」と呼ばれるこの詩は以下のようなものである。

一、はらからよ、スキピオの兜を頭にいただき
  イタリアの国、いま目覚めぬ
  勝利の女神、いずくにありや
  わがイタリアは主の創りたもうたローマの僕
  そのうるわしき髪をささげん
  はらからよ、いざ隊伍を組みて死に臨まん
  美しきイタリアに召されて、この身を捧げん(リフレイン)

二、我ら、幾世紀にもわたり、抑圧と苦しみのもとにありぬ
  我ら、一つの国民としてでなく、
  分断のもとにありし故なり
  一つの旗と一つの希望のみ、我らを一つにせん
  はらからよ、団結の時、すでに告げられぬ

三、団結せん、団結せん
  団結と愛こそ、神の道を人民に明らかに指し示さん
  誓わん、祖国の解放を
  神の名のもとに団結せん
  はらからよ、誰か我らを征服しうる者あらん

四、北はアルプスから南はシチリアまで
  いずこにもレニャーノの戦いあり
  フェルッチョの男たちは、いずれも魂と力をもてり
  イタリアの子どもたちは、バリッラと呼べり
  はらからよ、すべての鐘は、蜂起の時を告げたり
(1)紀元前二三五―一八三年のローマの将軍・政治家
(2)独立のための戦い
(3)ルネッサンス期の独立の戦士
(4)独立運動に関わった少年の名前
(注)一番だけ、小学館伊和中辞典から、以下は拙訳

 作曲はミケーレ・ノヴァーロ(一八二二―八五)で、イタリア統一への願いをこめて、この詩をイタリア国民への呼びかけの行進曲風に作曲した。一九四六年に国歌として採用された。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.29,  1999年12月11日号)















天皇(皇室)信仰の空洞化
「天皇在位十年式典」が浮かび上がらせたもの

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 「今回のイベントで五万人集まるといわれた観衆もフタをあければ、二万五千人程度だった。テレビには、動員されたものの、万歳しない、君が代を歌わないタレントたちが大映しにされた。そしてYOSHIKIの出番が終わると、まだ祭典は続いているのに、一斉に会場の出口に歩きだしてしまった若者たち……。/もぬけのカラになった一般募集席を前に万歳を叫び続ける村上正邦の姿が、天皇を政治利用しようという者たちの現在を象徴するかに見えた」。『噂の真相』(二〇〇〇年一月号)の「YOSHIKIやGLAYまで参加した天皇即位10年祭の仕掛けの構図を剥ぐ!」(特別取材班)の結びの文章である。
 一一月一二日の政府主催の「天皇在位十年式典」に続いて行われた「国民祭典」は、YOSHIKIやGLAYやSPEEDなど、茶髪のロック歌手や芸能人を大量に動員した。そしてYOSHIKIは「奉祝」のための曲を作曲し、自分で演奏してみせた。祝賀パレードは、こうした式典につきものだが、こうしたことははじめての試みである。主催は「天皇陛下御在位十周年奉祝委員会」と「奉祝国会義委員連盟」であり、実体はゴリゴリの伝統的右翼天皇主義者のグループ「日本会議」が中心。
 神道の伝統にのっとった皇室儀式の重要さに執着し続けてきた彼らは、むしろ、こうした芸能人に皇室が「開かれる」ようになることに強く反発してきたはずである。
 ロックなどの人気で茶髪の若者たちを動員しても、もともとの皇室儀式とは水と油。この記事がレポートするような事態になるのは、十分に予測できたはずだ(マス・メディアはこぞって若者が動員されたことをクローズアップしたが、この記事同様、皮肉な状況をリアルにレポートしているものも少なくない)。これの発案と仕切りは「日本会議の中心メンバーで、イベントの実行委員長も努めた参議院のドン・村上正邦こそ張本人のようだ」。これに、「警視総監上がりのゴリゴリの保守派」の宮内庁長官の鎌倉節が全面協力で政府(首相)のバックアップをも引き出してきたと、この記事は論じている。「守旧派」がこういう祭りを演出し、仕切ったらしい。村上の名前はマスコミにも浮上していた。
 私は、「右派勢力」の内部に、こういう試みに反対する声が、もっと大きく存在しているのではないかと思っていた。しかし、「開かれた皇室」路線の人々でなく、それを批判してきた「右派勢力」によってこれが準備され、つくりだされ、はっきりとした内部からの批判の声は、ほとんど認められないという状況である。たとえば、『神社新報』(十一月二十二日号)はこう報告している。
 「続いて元“X―JAPANのYOSHIKIさんが、この日のために作曲した奉祝曲をオーケストラを従へてピアノ演奏する、会場に二台設置された大画面に、両陛下が時折会話をかわされながらにこやかに聴き入られる御様子が映し出された。」
 北島三郎、森進一、星野仙一が万歳三唱の音頭をとり、その後に村上の閉会の言葉があったことをも、この記事は淡々とレポートしている(まったくハシャいで書いていないところは「伝統的」である)。
 こういう“祭り”路線を彼らがイヤイヤ選択したのではないことはまちがいないようである。
 神道主義右翼、伝統的天皇主義グループこそが、人気タレント、若者の茶髪文化にコビコビの“祭り”を準備した主役であったのだ。
 ここには、大きな変化が示されていることに私たちは注目しておくべきだ。
 これは、漫画家小林よしのり(彼も参加していた)などの人気で、若者文化に右翼文化が浸透しだしている状況と対応した、彼らの側のしかける意欲の産物といえるだろう。だとすると、彼らのこうした変身は、時代の要請への彼らなりの対応ということになる。
 いやな、いや、おもしろい時代になってきたものだ。この“祭り”が、水と油をひっかきまぜたようなものになり、かなり混乱した、天皇への一体感がうまくつくり出されなかった儀式(メディア・イベントとしても)であったことの意味にも、私たちは、注目しておかなければなるまい。
 伝統主義右翼の天皇(皇室)信仰は、現実には、ヤクザ右翼が天皇を脅迫のテコとして金を集め続けている実体に目を向けて考えてみれば(彼らは、ある部分でダブって存在してきた)いまさら驚くことではないのだろうが、まったく名目的なものにすぎなくなっている。そして、その名目を誇示するための皇室儀礼(伝統)の尊重というポーズすら、一部分解体させだしたのだ(もちろん儀礼の大枠はそのままではあるが)。
 天皇主義右翼文化の中でも、天皇(皇室)信仰が、とめどなく空洞化し続けている。マス・メディアの注目度(芸能人の人気)によりかかることを、あたりまえとする気分が、かなり支配的になってきているのだろう。
 「開かれた皇室」路線のマス・メディア(主流)でも、とまどうようなイベントを右派勢力が突出してつくり出した。この「突出」は、天皇主義文化の中で天皇(皇室)信仰の全面的空洞化を象徴している。それは、空洞化を目に見える形で浮かび上がらせたのだ。
 「天皇在位十年式典」は、「天皇陛下万歳!」と叫ぶ人々の天皇(皇室)信仰(伝統的神聖化の精神)が、まったく空洞化してしまっていることを、くっきり映し出す鏡であった。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.29,  1999年12月11日号)












「支配層の国家改造に反対する」共同行動の必要を!

高田健●許すな!憲法改悪・市民連絡会

 いま「改憲論」が暴走している。保守系の政治家やメディアはわれ先にと「改憲」を語っている。いま出てきている改憲論は、憲法の枝葉の部分の改定ではなく、現憲法の三原則に手をつけようとしている改憲論だ。修飾語としては「民主主義、平和主義、基本的人権はまもりつつ」と言いながら、実際にはこの三原則に手をつけるものになっている。
 これは上からの「国家の革命」、右からの「国家の改造」だ。もはや支配層にとっては、日米安保体制とならんで、戦後政治の柱とされてきた「憲法体制」を変えなければやってゆけないところに来た。安保と憲法の矛盾が決定的なところに来つつある。解釈改憲に解釈改憲を積み重ねてきた支配層の政治が、もはや限界に来ている。二十一世紀の世界で、日本がひきつづき資本主義列強の一角をしめて生き延びていくためには、安保・軍事問題だけではなく、その総ての面において国家と社会を改造する必要があり、国家の基本法としての憲法を変える必要にせまられている。
 だから第百四十五国会が「地方分権法」や「中小省庁改革法」も含めて強引に成立させた時、小沢一郎は「一種の革命だった」と勝ち誇ったのだ。
 私たちはこれと対決をしながら、支配層の解釈改憲によって作られてきた違憲国家状況を憲法三原則の理念を実現する方向で変革していく闘いをすすめる必要がある。
 天皇制問題については、これまで右派が「菊タブー」を強いてきたが、戦後の護憲運動もあまりこれに触れたがらなかった。「改憲派に乗じられる危険がある」という論理だが、問題は議論の仕方や議論の中身の問題であり、本来、議論すること自体が危険だということではない。きちんと整理して議論すればよい。
 まず第一に、天皇制の現状自体が現行憲法に違反しているのだということを政治問題にしていく必要がある。この問題を国会はもとより、広く人びとの中に提起して闘う必要がある。例えば「皇室外交」なるもの、天皇のさまざまな場面での「お言葉」による政治的発言、歴代政府の政策を擁護する発言なども憲法違反だ。現憲法で許されている、天皇がやる仕事は第六条、七条に書かれて十二項目だけだ。それを天皇制の復活強化をめざす支配層がどんどん逸脱させ、事実上の元首扱いをしてきた。共産党は国会の開会式を拒否するだけではなく、これらのひとつひとつを取り上げて闘うべきだし、社民党の土井党首が天皇在位十周年の国民祭典の発起人になるなどは言語道断だ。いずれにしても、天皇制の現状そのものが憲法違反だという政治闘争が必要だ。これは社民党の支持者などを含めて比較的広範な事実上の反天皇制の戦線を形成できる可能性をひらく。
 もうひとつは、現行憲法自体の基本的矛盾の問題を議論していく必要がある。憲法三原則と第一章の天皇条項は根本的に矛盾するという問題だ。基本的人権の問題では、部落差別や、昭和天皇の沖縄処分の結果としての現在の沖縄差別などの問題もあれば、非武装平和原則に関連して天皇制の戦争責任の問題もある。主権在民からみて「君が代」で明確なように、象徴であれ何であれ、天皇制と民主主義とは相容れない。この憲法自体がこういう重大な矛盾、対立を内包している。どちらが普遍的価値なのか。十九世紀の天皇制と二十一世紀の社会の在り方、こういう天皇制廃止にむけた議論をやる必要がある。
 しかし、この場合、私たちはいまどこで政治的に闘うのかというところはハッキリとさせておかなくてはならない。政治闘争では、どういうスローガンで共同して敵と闘うのか、これがもっとも重要な問題になる。
 この社会は「革命されなくてはならない」からといって、いつでもどこでも「革命」のスローガンのもとに「革命闘争」をやっていれば、革命ができるわけではない。支配層が「上からの革命」を言っている時に、「そうだ、私も革命が必要だと思う」とはいえまい。この場合、「支配層の国家改造に反対する」闘いの共同行動が必要なのだ。沖縄米軍基地の「縮小・撤去」の「縮小」が気に入らないなどとはいえない。ましてや「基地の撤去」ではなくて「沖縄解放だ」などと言っても始まらないのだ。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.29,  1999年12月11日号)












沖縄・名護でおきていること
キチンと事実に注目しよう

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 11月22日、稲嶺沖縄県知事は普天間基地の移設地は名護市辺野古付近の「キャンプ・シュワブ沿岸域」と正式に発表した。すでに以前からメディアにその情報は流れており、22日に正式発表という事自体がそれ以前から語られているという、奇妙な発表であった。
 SACO(日米特別行動委員会)合意をベースにした米日政府の意向にそった稲嶺知事の「決断」の公表という事態を前に、私たちも、政府への抗議・名護支援を広くつくりだしていく活動へ向けてあわただしく動き出している。「全国共同行動」を呼びかけ、12月4日昼に、防衛庁・外務省への抗議デモ、その夜「相談会」を持った。「戦争協力を拒否し、米軍基地の沖縄内移設に反対する実行委員会」とともにこの集まりの呼びかけ団体であった「戦争協力を拒否し、新ガイドライン・有事立法に反対する全国Fax通信」(事務局)のFax通信7号(12月14日)に名護の反対行動の中心メンバーの一人である安次富浩は、こういう声をよせている。
 「一方、アメリカ政府は15年使用期限に反対のみならず、キャンプ・シュワブへの高層住宅の建設や大型空中給油機の配備など普天間飛行場の機能そのものを移転する計画を示している。MV-22オスプレイ配備計画と符合するものであり、朝鮮有事の際には海兵隊の出撃基地としての役割を企んでいるのである。また、97年の国防総省報告では、普天間飛行場の代替基地に運用40年・耐用年数200年という半永久的基地構想を持ち、基地の整理縮小ではなく、東アジア10万人体制の要塞基地として固定化を目論んでいるのである」(「米軍基地の移設を許さない! 新たな闘いへと、闘志満々の名護市民」)。
 永久的、あるいは半永久的基地使用という言葉が、沖縄の運動の中にいる人々から、よく発せられるが、それは決してオーバーな言葉ではないのだ。政府・マスコミがかぶせた、基地の「整理・縮小」というイメージ操作のためのベールをはぎとり、私たちは沖縄で進展している事実にキチンと向きあい続けなければならない。
 12月12日の『沖縄タイムス』には、こういう記事がある。
 「『普天間がそっくりそのまま移ってくるわけではありません。整理・縮小されたヘリポートです』(政府が作成したパンフレット)とPRし政府は市民に理解を求めた」。
 これが1997年に政府が名護の海上ヘリポート基地づくり案を提示した時のことである。
 「しかし、今回、稲嶺知事は軍民共用空港の滑走路について、『民間航空機が就航できるもの』と明言。それに伴い米政府は、新たな飛行場の滑走路が延長される場合、大型輸送機による戦略空輸や緊急時の中継基地など、普天間飛行場と同様の機能を日本政府に非公式に求めている。2年前の海上ヘリ基地案に比べて、規模や機能が大きくなることは避けられない」。
 「軍民共用」は、それ自体がどういう「共用」なのかよくわからないまま、基地の規模や機能の拡大の口実に使われているのだ。名護住民は「住民投票」でキッパリとヘリポート基地に「ノー」の声を示した。今度の動きは、その声を踏みにじるのみか、それよりも大きな、そして合理化された軍事基地を押しつけようという、まったく住民を足蹴にするものなのである。
 今度もまた政府は、基地の見返りとして振興策(予算)のバラマキを準備し、稲嶺県政はそれへの期待と要求を語り続けている。しかし振興予算と基地は取り引きされるべきものなどではなかったはずだ。振興策(予算)を基地受け入れの「エサ」のようにさしだす政府の態度それ自体が、強く批判されるべきである。
 この記事は、さらにこのように続いている。
 「環境に与える影響についても政府は二年前、キャンプ・シュワブ沖が海上ヘリ基地の移設先として適地かどうかを判断するための事前調査を、約六ケ月にわたって実施した。結論は『基地の設置・運用が自然環境に与える影響は最小限にとどまる』だった。/それに対して専門家からは『生態系のサイクルを調べるには、最低三年の継続観測が必要』などと批判が相次いだ。/その時でも政府は、住民説明会を開くなど市民の『理解』を求める姿勢をとっていた。しかし今回、県は説明会はもちろん、新しい調査すら行っていない」。
 手続きについても、海上ヘリポート案の時以上にメチャメチャなゴリ押しなのである。
 この記事のラストは、こうである。
 「東海岸側のある区長は、県から市に渡された文書を手に取りながら、『この資料では、われわれだってどうしようもないし、これでは市長も判断できないだろう』と首をかしげた」(「『苦渋』の中身――名護からの問いかけ〈中〉」)。
 知事の「15年使用限定」案など、基地を押しつけるまでの「整理・縮小」のイメージ操作の小道具として使われているにすぎない。工法についての決定もないまま、「受け入れ」をせまっているのだ。
 「……知事自ら名護市に訪問する際、名護市民との対話を拒否のみならず、市民が座り込みしている名護市民会館正面玄関を避け、横廊下の大窓から職員・誘致派に守られて岸本市長との会見会場に乱入、会見後は知事専用公用車を放置して、裏口から逃げるように名護市の車で去っていったブザマな姿をTVニュースに放映される始末であった(12/4)」。
 こう安次富浩は、先に引いた文章で書いている。
 こういう沖縄への構造的差別政策を沖縄県政に強い、県政に実施させているのは、アメリカの意に従い、日米安保体制の維持・拡大を自明の基本政策としている日本政府である。そう、「私たちの政府」なのである。
(『派兵チェック』No.87. 1999年12月15日号)













【書評】

戦後憲法思想へ潜入させられた国家思想
纐纈厚著『侵略戦争』〔ちくま新書・1999年・660円+税〕

伊藤晃●近代思想史研究

 本書にたいして、私はある点で共感し、ある点でものたりないものを感ずる。
 過去は現在から切り離せない。歴史認識は現在における政治対立の争点になりうる。だから、流行の歴史修正主義と対決して日本の侵略戦争の事実を明らかにしつづけるという本書の立場に私は共感できる。しかし、歴史修正主義はどんな過去をどのように復権させようとしているのかの解明ではもの足りなさを覚える。本書はこの点での系統的著述ではない。
 第二、三、五章は、日本の戦争と軍隊の特色を前近代性に帰着させる単純さが気になるが、有益な箇所も多い。とくに第五章の二「沖縄戦と秘密戦」はそうである。
 第四、六章には問題が多いと思う。敗戦過程から戦後を扱った章で、国家支配集団がアメリカとの合作のもとに、過去のなにをどのように戦後に伝えようとしたか、がテーマである。アメリカ側では日本をどう負けさせるかが戦後対日政策を規定し、日本側でもどう負けるかの選択が戦後支配体制を規定した、という著者の視角はまちがってはいないが、少しせまいとも言える。支配体制とは国民全体へのヘゲモニー関係なのだから、視野を支配集団の思想に限るのでは不十分なのである。戦後支配体制は民衆側の運動思想をも強く規定した。戦後憲法思想を支配集団の思想に対置するのは必ずしも正しくない。戦後憲法体制は支配集団と民衆運動がそのなかで対立するところの枠組そのものである。戦後民主主義・平和主義対戦前的な国家観・国家制度復活の意志という構図(9〜10頁)に私は賛成しない。支配集団は戦後的に戦前を引きつぎ、その引きつぎ方において国民的ヘゲモニーを樹立したのであり、従って民衆運動側も戦後的に改作された戦前を知らず知らずのうちに潜入させられたのだ。
 戦前を戦後的に改作して引きついだとはどういうことか。二、三例をあげてみよう。
 支配集団が敗戦後ただちに米国派に加わったのは、明治日本が英国派の国であった伝統の復活で、この政策が「世界を支配する国の系列」に加わる願望の実現形態であることも明治期と同じである。国家体制における先進国への同化はそのための条件整備で、だから戦後民主化は、明治国家主導の近代化を再現して、終始支配集団がリードした。国益の主導性は明治民権運動の国権への従属をもたらしたが、戦後民主主義も、アジアの利用による繁栄の下で先進国民として生活する権利という受益民主主義を内包している。
 つまり戦後憲法体制は、それが作られる過程(民主化過程)で、戦前的ヘゲモニー関係を改作しながら継承したのである。ここでは民主主義はしばしば「当り前のだれでも一致できる」はずの思想なのであった。この国民的一体の思想はまた国家・国民一体の思想である(戦前はこれを一君万民と表現した)。民主主義は「みんなが(当然国家も)」容認できるところまで引き下げられないだろうか。
 民主化が国家支配層の戦争責任追及を忘れていたことは重要である。責任追及回避の成功は、戦前の国家無答責の思想をそのまま戦後国家にまでつなげることになった。国家無答責は国民無答責でもあって、民衆運動はある段階まで、日本の戦争加害責任も朝鮮半島分断の歴史的責任もケロリンと忘れていた。
 アメリカの占領政策が右のことすべてを支えた。アメリカは、本書が詳説するように日本を分断統治から防ぎ、また間接統治のもとにおいて戦前行政体系を天皇もろとも温存したが、それは戦後アジアの激動から日本をへだてることにも役立った。戦後日本再建は終始国内問題であり、天皇論議は世界的にでなく国民的に天皇をどうするかであり、民衆意識は一国的な温室に閉じこめられることになった。国際と国内の接点を国家が独占的に制御するなかでの一国主義が、これも戦前の遺産として残り、日米の国家的同盟に対して民衆側ではインタナショナルな主体形成が立ちおくれ、無意識の国籍主義が支配した(このことは本書第一章の対象、近代日本の侵略主義を扱うときの視点としても欠かせない。他からの批判という契機なしに国際連帯の思想は自生しえない。この点で私は第一章に対して言いたいことがあるが、いまは紙幅がないから省略する)。
 歴史修正主義と闘うとき、個々の歴史事実の認識が対立点となるが、同時にこれが現存する国民意識のある面に訴え、そこに支持基盤を見出し、それを強めようとしていることも問題である。この意識のなかでこそ彼らの歴史歪曲は生命力を与えられる。私は、戦後憲法意識そのものの内面に潜入させられた近代日本の伝統的国家思想がことに重要だと考えているので、これを強調した。憲法に私たちの方から生命力を与えようとするなら、戦前思想のこうした復権とも闘わねばならないと思う。
(『派兵チェック』No.87. 1999年12月15日号)










【書評】

戦後日本の「ねじれ」をどちら向きにとくのか
武藤一羊著『〈戦後日本国家〉という問題』〔れんが書房新社・1999年・2400円+税〕

冨山一郎●大学教員

 つい最近、武藤さんが今から20年余り前に書いた文章を、あるシリーズの「月報」に、みつけた。その「月報」はフランツ・ファノンの著作に関わるもので、武藤さんの文章は、「『やつら』と『われわれ』」という表題になっている。そこでは、ベトナム戦争に関して、明確な敵対関係を前提にして認識する欧米と、「ヒューマニズム」でもって対応する日本の違いが言及されたのち、次のように結論づけられている。「日本にとっての第三世界とは、すでに西ヨーロッパにとっての第三世界と同じ意義を持っている」。そして問題は、「同じ」であるにもかかわらず、「やつら」と「われわれ」の敵対関係を他人事のように眺めながら、「ヒューマニズム」に浸ってきた戦後日本とは何かということなのだ。この3、4年の論考を集めた本書は、こうした戦後日本とどう向き合うのかということについての、武藤さんの、一つの結論に他ならない。
 それはまた、「日帝打倒」という言葉が道行く人々の前で崩壊していく時、何が問われなければならなかったのかという、今もなお継続している問題への、極めてアクチュアルな回答でもある。大状況を戦略的に語る言葉の貧困さが後押しをする個別課題への埋没ほど、悲しいものはない。武藤さんが描き出すのは、「日帝と闘うことが国際連帯だ」(209頁)ということにより措定されていった抽象的なアジアではなく、何もかもいっしょくたにした帝国主義でもなく、また対面関係にのみ意義付けられた現場主義でもない。武藤さんは、アメリカのヘゲモニーの具体的展開と、多国籍企業、開発援助のなかで展開する矛盾に満ちたアジアとそこでのさまざまな運動を生き生きと描き出し、そのようなアメリカとアジアの関係の中で、「なにをなすべきか」を不断に問いながら、戦後日本を問題化するのである。こうした戦後日本論は、国境を超えるとか、ナショナリズムを超えるといった落ち着きどころのない議論や、戦後民主主義の危機を叫ぶ議論、さらにはやっぱ帝国主義の問題だという開き直りとも、無縁である。読んだ後には、素直にほっとし、まだやれるんだと感じ入ってしまった。とても温かい文章である。
 1945年10月、接収のために三井財閥にやってきたアメリカ外交官に、三井の幹部は壁にかけられた大東亜共栄圏の地図を微笑みながら指差して、こいういったという。「あれなんですよ、われわれがしようとしたことは。これであなた方が何をなすべきか、おわかりになるでしょう」。戦後日本は、このいかさまのような(武藤さんのいいかたを借りれば「日和見主義」)会話からはじまった。それは、一方で帝国日本を継続しながら、他方でアメリカとの共同作戦にはいっていく展開であり、また内部の全体像として、平和憲法にもとづく戦後民主主義が打ちたてられていくプロセスでもあった。この帝国日本の継承、アメリカのヘゲモニー、平和憲法というそれぞれが矛盾する「三つの構成原理」(16頁)を軸に、武藤さんは戦後日本を検討していくのである。
 たとえば本書では、加藤典洋の『敗戦後論』をこうした文脈に置くことにより、加藤のいう「ねじれ」を批判している。つまり外に対して責任をとれない「ねじれ」とは、この矛盾する「三つの構成原理」に関わることであり、したがって重要なのは、ナショナリズム一般の議論に流し込むのではなく、この政治的アクターを明確に押し出さない「日和見主義」によりこれまで何がなされてきたのか、そして「ねじれ」を解くことが、冷戦後のアメリカのヘゲモニーの展開、平和憲法、帝国の継承の複合的な文脈においてどのような新展開を引き起こすのかという検討に他ならない。したがって加藤の問題は、小沢一郎の「ふつうの国家」や自由主義史観、さらには「ガイドライン」から「改憲」への動きの中で明確に論じられることになる。そして問題は、「どちら向きに『ねじれ』を解くのか」なのであり、それはくりかえすが民主主義の問題やナショナリズムの問題に限定されることではなく、冷戦後のアメリカのヘゲモニーやアジアの新展開の中で「何をなすべきか」ということに直結することなのである。この5年ほどの動きを総括しながら武藤さんは、いま戦後日本国家という「蛹」から「蛾」が飛び立とうとしているという。重要なのは、この「戦後日本国家とこの変態プロセス全体にどのように向き合い、どのように見定め、どのように介入するのか」(280頁)なのだ。
 本書の最後にはとても深刻な問題が提示されている。それは国家への「参画」という問題だ。もちろんそれはとりあえず、村山政権や土井、あるいは「平和基本法」、「国会決議」、「国民基金」、あるいはNGOとODAの野合といったことに関わることなのだが、あらゆる社会批判が「国益」に置き換えられてきている今、この「参画」をどう問題化し、どのような抵抗が構想できるのかということは、重要で重い問いだろう。
(『派兵チェック』No.87. 1999年12月15日号)