alternative autonomous lane No.27
2000.4.17

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目 次




【言葉の重力・無重力】(1)

他山の石としての「ハノイ・敵との対話」―東大作著『我々はなぜ戦争をしたのか』を読む(太田昌国)

【議論と論考】

たくさんの屍を滋養に繁茂する小さな花(岩崎稔)

音楽教科書のなかの「歌」の政治性(北村小夜)

「傀儡政権」と「日の丸・君が代」―「傀儡天皇制」の現在を考える(天野恵一)

〈サミット〉がつくり出している状況―沖縄県議会の「一坪反戦地主など」の排除決議をめぐって(天野恵一)

【「マサコ懐妊報道」を論議する】(1)

皇族の人権とジャーナリズム(中嶋啓明)

【書評】

マイケル・グリーン、パトリック・クローニン編 川上高司監訳『日米同盟――米国の戦略』〔勁草書房 1999年、3,000円+税〕(島川雅史)














《言葉の重力・無重力》(2)

他山の石としての「ハノイ・敵との対話」
東大作著『我々はなぜ戦争をしたのか』を読む

太田昌国●民族問題研究家

 1998年8月2日NHK総合テレビで放映されたNHKスペシャル「我々はなぜ戦争をしたのか――ベトナム戦争・敵との対話」を、私は都合で後半の一部分しか観ることが出来なかった。それでも深く印象に残り、いつか全体を観たいと思っていたが、その機会もないままに時間は過ぎた。ところが、そのテレビ番組を企画したNHKのディレクターが、この番組の製作に至る過程と論議の内容を明らかにし、補強取材を行なって一書にまとめたことを知って、さっそく読んでみた。東大作著『我々はなぜ戦争をしたのか――米国・ベトナム 敵との対話』(岩波書店、2000年3月刊)である。
 NHKという大組織の中で、一地方局で仕事をしていた著者が、この番組を具体化するに至る過程で生じた、人びととの出会いの偶然と必然を語る冒頭部分が、まず面白いが、それはともかく、ソ連崩壊という衝撃的な事態の後で始まった「仇敵間の対話」が孕む問題こそが大事であり、私たちに語りかけるところが多いと思える。ペレストロイカ期のソ連と米国の間では1987年に、両国の研究者と政策立案者が集まり、1962年のいわゆる「キューバ・ミサイル危機」をめぐる討論が行なわれたこともあった。それは、いわば当事者であるキューバを除外したふりかえりの場であった。だがソ連崩壊後には元米国国防長官マクナマラもハバナへ赴き、カストロも参加してハバナ会議が開かれ、「ミサイル危機」に至る経過をそれぞれの立場からふりかえり、相手の証言と付き合わせるという作業が行なわれた。冷戦構造終結後の世界では、こうして、かつての「敵」同士の対話が思いがけない形で実現している。一方か、あるいは双方が、もはや政治・外交・軍事の現場にはいないという条件がそれを可能にするのだろう。
 ベトナム戦争に関してこの気運が生まれたのは、ベトナム戦争遂行の最高責任者のひとりであった人物が回顧録を書いたことに始まる。『マクナマラ回顧録――ベトナムの悲劇と教訓』である(原書1995年4月刊、日本語訳は共同通信社から1997年刊)。マクナマラはここで、ベトナム戦争は米国が犯した過ちだったと認めた。これに対しては当然にも、「ベトナム戦争における5万8千人もの米兵の死は、誤った目的のための無駄死にだったというのか」という、日本社会でも馴染み深い論難が数多く浴びせかけられた。私は、(米国内左派も批判しているようだが)彼が自己批判したとはいっても、自らの過ちをヨリ良く見せかけようとする詐術がはたらいていることを感じとらざるを得なかった。
 だが、この本の刊行を契機に事態は動いた。折りしも原書刊行から4ヵ月後の95年8月、ベトナムと米国は国交を樹立した。マクナマラは、ベトナム戦争はなぜ起き、それぞれの局面で双方はどう情勢を判断しており、戦争を回避する手立てはあったのかをベトナム側の指導者と話し合いたいと考え、側近を介してベトナムにはたらきかけていた。一方、ベトナム政府高官はマクナマラ回顧録を輪番で読み、彼の「反省」の率直さに驚いた。やがてベトナム語に翻訳された同書は、ベトナムの一般の人びともこぞって読むベストセラーとなった。ベトナム側はこれらの情勢を見ながら、最重要課題である経済の発展のためには米国の高度な技術と資本を必要としている現状に鑑みて、対話に応じることにしたようだ。95年11月マクナマラのハノイ訪問を手がかりにして、97年6月、両国の当時の政策決定者が一堂に会しての「ハノイ対話」は行われた。
 この対話には学びとるべきことがたくさん含まれているように思える。たしかに、マクナマラ回顧録に感じたように、米国側の「反省」なるものが、時に盗人猛々しい物言いになる傾向は隠しがたい。それはマクナマラ自身の「ベトナムの指導者は、同胞の命のことなどまったく考えていなかったのではないか。同胞の死傷者の数を減らすことなど念頭になかったからこそ、戦争を早期に終結させる話し合いも拒否したのではないか」という発言で頂点に達する。瀬踏み交渉のなかでも北爆を続行しておいて、「これを認めなければ爆撃を続けるぞ」という物言いが、一方的に戦場にされている側から見てどう捉えられるかが、マクナマラにはついに理解しがたい地点なのだ。軍事行動を増大させつつ交渉のチャンネルを開こうとすることに、合理性をしか見ないところにマクナマラたちはいる。ベトナム側の憤りは当然にも強いが、対話を続けようとする意志によって辛うじて彼らは冷静さを保つ。著者自身もこの発言には驚き、対話が終わった後でマクナマラに本意を質問している。だがマクナマラは動じない。「もし私が北ベトナムの高官であったなら、米国の提案について交渉を開始し、和平達成の努力をしただろう」と断言する。かつて自らが関わった対ベトナム政策を「反省」しているマクナマラにしてこの水準の認識なのだということを確認することは大事なことだ。イラクやコソボの例を思い起こしてみても、一方的に「われわれの提案を認めない限り、爆撃を続ける」と言うに等しい対外政策を、米国は採り続けているからだ。
 にもかかわらず、このハノイ対話の意義は大きい。対話は、両者がいかに「敵」のこと(歴史・現実・意志)を知らなかったかを明らかにしている。過去の失敗をそれぞれ語り、その原因を究明し、(米国側はいまだ無自覚だとはいえ)責任のありかを明らかにする努力が、ここでは行なわれている。一見敵対している者同士の間でも、水面下では対立解消に向けての努力がなされる時期があることは、韓国・北朝鮮首脳会談の決定の報を見てもわかる。アジア太平洋戦争という歴史的過去に関して、そして現在の平和に関わって日本社会がどうするかという意味で、ハノイ対話は他山の石だと言える。
(『派兵チェック』 No. 91(2000年4月15日)

















たくさんの屍を滋養に繁茂する小さな花

岩崎稔●東京外国語大学教員

 もう三年以上経つ。ぼくたちはクロアチアからスロヴェニア、ボスニア、セルビアと、あわただしくインタヴューをしたり取材したりして、回っていた。その旅のあいだ中、クロアチア出身で、普段はアムステルダムで仕事をしている社会学者の友人ベンヤミン・ペラソヴィッチが、ずっと案内役を勤めてくれた。それは忘れられない旅、ユーゴの戦争の生々しい傷痕を前にいたるところで立ち尽くさざるをえなくなる旅であった。

 ボスニアの山道の両わきは、どこまで行っても破壊され焼き尽くされた村々が続いていた。それこそ、文字どおり蜂の巣状に弾痕が刻まれている壁。焼け落ちた梁。そのひとつひとつの場所で、どれだけのひとびとの生命と生活、そして生活の記憶が抹消されたことだろうか。慣れてくると、戦闘で直接破壊されたものと、かつての住民が戻ってこれないようにあとからダイナマイトで吹き飛ばしたものとの区別がつくようになった。その慣れがどうにも嫌だった。
 サラエヴォは、数年間の包囲のなかで、多文化社会の象徴として民族主義者の憎悪の対象となり、砲弾や銃弾をひっきりなしにたたき込まれてきた。食料も燃料も入らないなかで、特別な理由や手づるがないかぎり脱出することが不可能だった街は、デイトン合意によってようやく死と隣合わせの日々から抜け出していたのだが、それでも、スパイナーから身を隠すためのバリケードがどうにか撤去されただけで、復興には程遠い状態だった。ぼくには、廃虚となった高層建築が、同時に国際社会の救いがたい無為を嘲笑するための記念碑のように見えた。
               *
 たとえばそのサラエヴォで、突然「日本人かね」とすれ違いざまに呼びかけられたことがあった。ほかの国の街角であれば、そのあとには、たいてい他愛もない会話がくる。ところが、不用意に「ええ」と答えたぼくに、その年輩の労働者が苦労しながらドイツ語で語ったのは、自分たちの村がどのように襲われ、三歳の孫や子供たちからかれの連れ合いまで、自分をのぞいて一族の大半が、どこでどのように殺害されたのかという出来事だった。「みんな死んでしまった。誰も助けにこなかった。アメリカも国連もこなかった」。つんのめるように話すかれの物語は断片的で混乱していたが、ぼくはその前から立ち去ることができなくなった。
 あるいは、どこをどうして通ったのかはっきりとは覚えていないが、夜ごとひとびとが集まってくる無認可の酒場の真夜中の光景。外から見ているかぎりはそこに酒場があるとはとても思えない真っ暗な路地裏の窓を叩くと、中から開けてくれた。以前はふつうのアパルトマンのリビングとキッチンだったのだろう。明かりも内装もそのままで、ただいっさいの家具が取り払われ、粗雑な机と椅子(の役割をどうにか果たすもの)が置いてある。そのことが、包囲によってそこから去って行かなくてはならなかった生活のことを想起させる。トランジスタ・ラジオの音楽がかけっぱなしになっており、小さなグラスのラキアを抱くように座っている近隣の男や女たちには、ある名状しがたい緩慢で非現実的な印象があった。「PTSDって知ってるわね」と、そこに連れてきてくれた別の友人が囁いた。この酒場は、戦争のなかで多くを失ったひとびとがいつのまにか集まってくるようになった場所なのだという。「ここにはユダヤ人もいるし、クロアチア人もいる。セルビア人もいる。ハンガリー人もいる。みんな一緒に暮らしていたんだ。それなのに、戦争前とは何もかもが違ってしまった」。ひとりの女性がラジオの歌に併せてギターの弦をゆっくり叩き始めた。彼女の左手はコードを押さえていない。しかし、その六本の弦がたてるでたらめな不協和音が、過去、現在、未来の生気ある関係を壊されてしまったひとたちが抱える暗闇を、その暗闇の一角から届く何かを、むしろいっそう適切に伝えているように聞こえてきた。
                 *
 ともかく、そんなことを繰り返した旅だった。
 旅程の最後に、もう一度ザクレブに戻って、そこからアムステルダムに出国する予定だったが、飛行機の時間までまだ数時間あった。するとベンヤミンが、この旅のピリオドとして、ザクレブ郊外の古城あとがある小山に行ってみようという。ユーゴの戦争のなかで、クロアチアは独立を宣言し、同時に強い国民意識がメディアを使ってかき立てられていた。セルビアがそうするように、クロアチアも抑圧と迫害を受けてきた不当な「被害者」としての「国民の物語」を紬ぎだした。クロアチアがそうするように、セルビアも、「かれら」による「われわれ」の虐殺の歴史を繰り返しテレビで流し続けた。「国民の歴史」が発見され、「国民国家」のあらゆるパーツ、あらゆるレパートリーが作り出された。
 とくにクロアチアでは、トゥジマン大統領の指導下で、顕彰記念行為による国民国家の記憶の動員が、短期間に、しかも凝縮した典型的なスタイルで遂行されたのだ。それはまるで、国民国家論の練習問題とでも言いたくなるようなケースだった。通りや広場の名前がクロアチア・ナショナリズムに適うものに書き換えられ、「純粋に」クロアチア人であることがあらゆる行政の優先基準となり、作り出された「起源」の記念碑が乱造されていた。街にはにわかに「銅像の時代」がやってきたのだ。極めつけは、クロアチアの国旗、赤と白のチェックの旗の氾濫である。
                 *
 ベンヤミンが連れてきてくれた古城には、その庭に大きなモダンアートがあった。「これ、何だと思う?」とベンが謎をかけてきた。立方体がひとつひとつ交互に地中に生めてある作品は、その場ではとくに目立った喚起力を持たなかった。なんだか分からなかったのだ。そう答えるとベンヤミンは、この作品の序幕式では大統領の音頭で外交儀礼を極めたセレモニーが行われたんだ、とだけ説明してくれた。ぼくにはむしろ、その小山の山頂にいたる道に、物々しく自動小銃を抱えた兵士が何人もたっており、山頂にも歩哨が立っていることの方が気にかかった。
 山道を降りたあと、「さっきの答だよ」といってかれが小さな冊子をくれた。そこには、たった今ぼくたちが下りてきた小山を上空から撮った写真が載っていた。国旗なのだ。ひとつひとつの立方体は、あのクロアチアの国旗のチェックのデザインを表していたのだ。深い森のなかに浮かび上がる白いクロアチアの「起源」の歴史とその傍らに突き刺さっている大きな国旗のデザイン。自動小銃を持った兵士たちは、「国民の歴史」と「国旗」という言説と記号の番人たちだったのだ。
 思えば、この旅のなかでは、国民という想像的存在の記号につねに取りつかれていた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナを回るときにぼくたちがチャーターした車はクロアチアのナンバーだった。プレートにはチェックのクロアチア国旗が刷ってある。だから、セルビア民兵の支配地域とセルビア本国とのあいだをつなぐ有名な「セルビア回廊」と呼ばれる一帯は、暗くなるまでに全速力でそこを走り抜けなければならなかった。ムスリムのひとびととクロアチア系のひとびとが川を隔てて住んでいた街モスタルでも、ぼくたちの車はムスリム地区を抜けるときにアクセルをふかした。一週間前にクロアチア系の男性が刺殺されたばかりだったからだ。かつて異文化の共生を象徴していた、街の真ん中に架けられていた美しい橋は戦争のなかで破壊されてしまっていた。ぼくたちが渡ったのは、グロテスクな仮設の橋だった。
                  *
 このクロアチアの「国旗」については、先のサッカー・ワールドカップ、フランス大会で、クロアチア選手のユニフォームに対するユダヤ人団体の強い抗議があったことを覚えているだろうか。第二次世界大戦中、ナチスは親独的な「クロアチア独立国」という傀儡政権を作ってクロアチアをユーゴから切り離した。ナチスの庇護のもとで、クロアチア民族主義者ウスタシャは、ナショナリズムと人種思想に基づいてセルビア系のひとびとやユダヤ人に対するテロルを担ったのだ。そのウスタシャの用いた旗の赤、白のチェックが、いまのクロアチア「国旗」のそれである。そして、ワールドカップのクロアチアチームの選手たちは、その「国旗」を大きくあしらったシャツで出場したのである。そのときのユダヤ人団体の異議申し立ては、結局は認められなかった。そうだろうと思う。ある特定の国旗を、その国の過去の行為を理由に国際的に否認するということは、ナショナリズムとスポーツをかくも癒着させているイベントの主催者としてはできっこない相談なのだ。むしろ逆だろう。鵜飼哲さんが言うように、新しい「少国民」は、こうしたパーフォーマンスのなかで「国旗」をめぐる技法を刷り込まれ、「国歌」を歌う観客として規律化されつづけている。
 あの旅にまとわりついていたのは、クロアチア国旗ばかりではない。セルビアや新「ユーゴ連邦」のそれも、またデイトン合意で独立した国となったボスニア・ヘルツェゴヴィナのエンブレムや国旗もいたるところに現れていた。それは、廃墟と荒廃のなかでは、たくさんの屍を滋養に繁茂する小さな花のような鮮やかさであった。だからこそ、「国旗」という記号の暴力性そのものを、それが発動し作用するそのもっとも深いところから問わなくてはならない。ベンヤミンがあの旅の最後のメッセージとして手渡してくれたのは、そのことだったと思う。

(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.4.4, no.33)















音楽教科書のなかの「歌」の政治性

北村小夜●元教員


(『派兵チェック』 No. 91(2000年4月15日)

 ■文部省唱歌「ひのまる」の変遷
  「日の丸の旗」
  一、白地に赤く/日の丸染めて、/ああうつくしや、/日本の旗は。
  二、朝日の昇る/勢見せて、/ああ勇ましや、/日本の旗は。

 一九一一年(明治四四)から一九四〇年(昭和一五)まで使用された国定教科書尋常小学唱歌一年用に所収されている。第三期国語教科書(一九一八│三三)巻一二には「雪白の地に紅の日の丸をえがける我が国の国旗は、最もよく我が国号にかない、皇威の発揚、国運の隆昌さながら旭日昇天の勢あるを思わしむ。更に思えば、白地は我が国民の純正潔白なる性質を示し、日の丸は熱烈燃ゆるが如き愛国の至誠を表すものともいうべきか」とのべられている。
 この時期、多くの学校の「日の丸」は四大節などに校門の片側に立てかけられたり交差して二本立てられたりしていた。
 今、東京都教育委員会通知に従えば、最低四本は必要である。*四大節
四方拝(一月一日)
紀元節(二月一一日)神武天皇即位日(現「建国記念の日」)天長節(四月二九日)昭和天皇誕生日(現「みどりの日」│近く「昭和の日」 
    になるかも)
明治節(一一月三日)明治天皇誕生日(現「文化の日」)*各家庭でも祝祭日には「日の丸」を掲げるように学校を通して「指導」した。

 「ヒノマル」
  一、アオゾラ タカク/ヒノマル アゲテ、/アア、ウツクシイ、/ニホンノ ハタハ。
  二、アサヒノ ノボル/イキオイ ミセテ、(原文は「イキホイ」)/アア、イサマシイ/ニホンノ ハタハ。
一九四一年(昭和一六)から一九四五年(昭和二〇)まで、すなわち国民学校用教科書所収である。
 「昭和」にはいって日本が戦争に向かうなか、あいついで学校に掲揚塔が建てられ、国旗掲揚が行われるようになった。二番の歌詞の「アオゾラタカク」にそのことがよく現れている。
 教科書には掲揚塔に揚げられた「日の丸」の下、講話する校長と、男子が前、女子が後ろに並んできく子供の絵がある。
 同時期の国語教科書には「国旗掲揚台」という脚本形式の課があり、影を利用して掲揚台の高さを計る場面がある。
 
 「ひのまる」
  一、しろじに あかく/ひのまる そめて/ああ うつくしい/にほんの はたは
  二、あおぞら たかく/ひのまる あげて/ああ うつくしい/にほんの はたは

 戦後(一九四七)文部省は再び歌詞を変えて教科書に登場させた。現在使われているものである。
 「勇ましい」が好戦的ではないかと配慮したようであるが、一番も二番も「美しい」になり、二倍も美しくなった。子どもたちは日常的に美しいという言葉は使わない。法制化に当たっても「日の丸」のデザインを「美しい」という人がいたのはこのせいもあるのではないか。
 一九五八年改定学習指導要領特別活動第三学校行事等に「国民の祝日などにおいて儀式などを行う場合には、児童に対してこれらの意義を理解させるとともに、国旗を掲揚し、君が代をせい唱させることが望ましい」が入って以来、「日の丸」を式場ステージ正面に張り付ける学校がでてきた。このことは一九八九年改定で「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」になって、更に増え、一九九九年法制化以降は、なんら規定もないのに、指示する教育委員会が増えた。
 ステージ正面、そこはかつて「ゴシンエイ」のあったところである。いまや「日の丸」は「御真影」の役割も果たすのである。校長らがステージに一歩踏み込んだ途端そこに向かって最敬礼する所以である。
 ちなみに学校の体育館や行動の構造は明治の昔からあまり変わっていない。変わったのはステージだけで、高く立派になっている。昔はあっても、低い演壇で、多くはみんな平場であった。

 ■「蛍の光」
  一、ほたるのひかり、まどのゆき。/書きよむつき日、かさねつつ。/いつしか年も、すぎのとを、/あけてぞ けさは、わかれゆく。
  二、とまるもゆくも、かぎりとて、/かたみにおもう、ちよろずの、/こころのはしを、ひとことに、/さきくとばかり、うたうなり。
  三、つくしのきわみ、みちのおく、/うみやま とおく、へだつとも、/そのまごころは、へだてなく、/ひとつにつくせ、くにのため。
  四、千島のおくも、おきなわも、/やしまのうちの、まもりなり、/いたらんくにに、いさお しく、/つとめよ わがせ、つつがなく。
  「小学唱歌集(初)」一八八一年(明治14)

 原曲はスコットランド民謡「久しき昔」(Auid Lang Syne)、作詞者不詳。
 卒業式で「仰げば尊し」と共に歌われることが多くなっているが、二つとも小学校の学習指導要領の共通教材にも指定されていない。しかし小五と中二の音楽教科書には「蛍の光」が小六と中三には「仰げば尊し」がのっている。教科書会社関係者に聞くと現場の要求に応じてのことという。このような「現場」の伝統的で厳粛な雰囲気を求める声が「君が代」を招いたともいえよう。
 「蛍の光」は一番と二番しか歌われていないし教科書にも二番までしかのっていないが歌詞の意図は全編から読み取らなければならない。
 三番の歌詞をみればけっして学窓の別れではなく、「防人」を見送る歌である。更に四番をみれば「国防」「侵略」の歌であることはあきらかである。この歌が作られたのが一八八一年すなわち、沖縄処分(一八七九)の翌翌年であることに注意すべきである。
 その後四番の出だしを〈樺太のおくも 台湾も〉と歌った記録も残っている。さらにアリューシャンやサイパンなどと歌わせた教員もいたそうである。なお、「蛍の光」も「仰げば尊し」も国定教科書に載ったことはない。
 

 ■「仰げば尊し」
  一、あおげばとうとし、わが師の恩。/教の庭にも、はや いくとせ。/おもえばいととし、このとし月。/今こそ 別れめ、いざさらば。
  二、互にむつみし、日ごろの恩。/別るる 後にも、やよ 忘るな。/身を立て名をあげ、やよはげめよ。/今こそ 別れめ、いざさらば。
  三、朝夕なれにし、まなびの窓。/ほたるのともし火、つむ白雪。/忘るるまぞなき、ゆく年月。/今こそ 別れめ、いざさらば。
  「小学唱歌集(三)」一八八四年(明治17)

 作詞・作曲とも未詳。二番の歌詞は立身出世思想で時代に合わないからか教科書にのっていないし、歌われてもいない。いまどき〈わが師の恩〉など教えられる教員は多くないと思うがcc。
 日教組はすでに教師という言葉を使うことをやめている。「師」がおこがましいのである。当然、卒業式にこんな歌を歌わせるわけにはいかない。すでに「蛍の光・仰げば尊し・君が代」と三点セットになっている学校もあるが、一斉にやめるのは困難でもこんな歌からならできるかも。

(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.4.4, no.33)















「傀儡政権」と「日の丸・君が代」
「傀儡天皇制」の現在を考える

天野恵一
●反天皇制運動連絡会



 「日の丸・君が代」を国旗・国歌と法制化することによってあらためて開始された、政府の「日の丸・君が代」の全面的な強制政策は、今年の入学式・卒業式でピークをむかえたといってよかろう。しかし、その強制への「拒否」の意思表示の動きも、多様な形で噴出した。「強制はしない」と公言しながらの法制化であるにもかかわらず、学校では教師への処分体制をさらに強化しつつ、いろんな方法での強制を全国化した(文部省の意向を受け入れてこなかった地域には重点的に攻撃をかけ、これに右翼の脅迫も連動した)という事態。予想したとおりとはいえ、言っていることと、やっていることが正反対である権力政治家のあまりに欺瞞的な態度は、あらたな怒りをもうみださせたのだ。
 そして、地域で職場で少数派として孤立しつつ、自分の意志で拒否の姿勢を貫こうという人々が、相互に連絡しあいながら、運動的に支えあおうという動きが、あらためて各地で力強く公然化した。強制のさらなる日常化の中で、抵抗の運動の連絡の日常化をつくりだしていくことこそが必要である。攻撃の強化を〈抵抗の交流〉のチャンスとして活用しうる運動こそがつくりだされなければならない。そのように私たちは考え動き続けてきた。
 この「日の丸・君が代」問題を批判する論理に、この強制は、戦前の軍国主義への回帰であり、新たな「戦前の時代」づくりだというものが、かなり支配的である。一面ではあたっている批判といえなくはないが、単純な「回帰」などではないという点に、私たちは、もっとこだわる必要があるのではないか。
 『世界』の三月号にタカシ・フジタニが「ライシャワー元米国大使の傀儡天皇制構想」を新しく発掘した資料を基に書いている。
 「慎重に計画された戦略にしたがって、我々のイデオロギー闘争に勝利する必要がある。その第一歩とは、当然のことながら、協力的な集団を我々の側に引き入れることである。この集団が仮に、日本国民の少数部分を代表するものであれば、それはある意味で傀儡政権(puppet regime)ということになろう。日本はこれまで傀儡政府を策略として幅広く利用してきたが、傀儡が不十分であったために大きな成功をおさめることはなかった。しかし、我々の目的にかなった最良の傀儡を日本自身が産み出している。我々の味方として引き寄せることが可能なばかりか、中国における日本の傀儡がつねに欠いていた、莫大な重みを持った権威を彼自身備えもつ、そのような傀儡。私が言わんとするのは、勿論、日本の天皇のことである。」
 一九四二年九月一四日の日付入りの「メモ」である。タカシ・フジタニは、まだそんなに政治力のあったわけでないライシャワーの主張が力を発揮したわけではないとはいえ、このライシャワーの構想通りに、事態が進んだことに注目すべきであると、ここで語っている。そして、このメモを、このように読むべきだと語っているのだ。
 「ライシャワーが天皇を戦略的道具としてしか見なしていなかったこと自体に、深い怒りを覚えるナショナリストも多いに違いない。しかし、統合の象徴としてであれ、現人神としてであれ、『道具』としての役割をもたない存在としての天皇など、いったいありうるのだろうか?」
 局部的な政治意思を全体的なものであるかのごとく代表する「傀儡政権」こそ「象徴天皇制とナショナリズム・シンボル一般の持つ性格」だ、そうタカシ・フジタニは語っているのだ。
 まぁ、その通りだろう。しかし、私は、天皇ヒロヒトとそれをかこんだ日本の支配者が、直前まで殺し合っていた敵国の「傀儡」に積極的になることで(もちろん、スケープゴートは差し出し)、〈裏切り〉によって戦後国家をつくりだしたという点に、もっと注目しておくべきだと考えている。
 アメリカの「傀儡権力」が象徴天皇制国家である。そして、この「傀儡権力」が国家主義(ナショナリズム)を、その事実を隠しながら一般的に鼓舞しつづける。占領期以後も、この政治支配の基本構造は、いろいろな変容を伴いながら、変わらずにきているといえないか。
 「売国ナショナリスト」たち。「強制はしない」が全面「強制」の口実という政治体質は、ここの決定的欺瞞によって支えられている(ホラがベース)。
 象徴天皇制国家もアメリカ製なら、敗戦・占領で一時公的な場所で消えた「日の丸・君が代」の復活も、単純な復活でなく、アメリカ製につくりかえられての再登場だったのである。
 この間、アメリカの軍隊が日本をかなり好き勝手に使うことを可能にする「ガイドライン安保」体制が新たにつくり出されたことと対応して、「日の丸・君が代」が国旗・国歌として法制化された。軍事的には主体的に「従属」しつつ、日本国家の固有の「伝統」「天皇」をたたえる必要を強調する支配者たち。
 敗戦・占領という断絶が、天皇制・「日の丸・君が代」を決定的につくりかえていることの意味(天皇らが戦争責任をとらないことは、そのことによって可能になったのだ)を考えながら、私たちは「日の丸・君が代」の強制に抵抗し続けなければならないと思う。
 そういう意味で、天皇(皇室)の賛美の強化も「日の丸・君が代」の法制化をステップとした強制の全面化も、戦前への回帰ではありえないのだ。

(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.4.4, no.33)














【「マサコ懐妊報道」を論議する 1】

皇族の人権とジャーナリズム
中嶋啓明●人権と報道・連絡会


 私の関わっている「人権と報道・連絡会」(人報連)は、犯罪報道での匿名報道主義を提唱している。
 一般刑事事件で、警察による逮捕など当局の動きに連動して報道する現在のマスコミのあり方を批判し、報道する必要があったとしても、被疑者や被告人はもとより、囚人、被害者とも氏名などは原則として報道しない一方、権力を持つ人々が、当局に嫌疑をかけられたり、権力行使に関わることで不正を働いたりした疑いが濃厚と判断できるときには、当局の動きに関わりなく、取材した側のメディアの責任で実名を挙げて報道するべきだと主張している。報道すべきかどうかの内容は、パブリック・インタレストの有無によって判断するという訳だ。
 このニュースの読者にとって、釈迦に説法かもしれないことを、しかも反天論議という場違いかもしれない場所で書き始めたのには、訳がある。昨年暮れの「マサコ懐妊徴候報道」に対する批判の仕方の一部に、若干気になったことがあるためだ。
 「世継ぎ」を作るセックスという本来プライバシーに属することが公務になる、天皇制の持つグロテスクさこそが論じられるべきであるのは、その通りだと思う。そしてその世界に主体的に入ったものの責任は問われなければならない。公務は監視されなければならない。しかし、セックスが公務だからといって、例えば性行為や性器の刻々の様子などまで報道されるべきだろうか。生理や妊娠などどこまでが監視の対象になるのだろうか。
 警察が日常的に権力行使している逮捕という公務について、現在のマスコミは、そのまま報道するべきだと考えている。そして、誰それを「きょう逮捕」「あす逮捕」と少しでも早く「抜く」ことに血道を上げている。しかし、これがジャーナリズムの果たすべき役割と正反対にあることは明らかだろう。物理的にもすべての権力行使を報道するのは不可能だ。早く報道すべきかどうかは、伝えるべき内容とその意味にも関係している。
 思想を言葉にするという本来私的なことが、政治家にとっては公務になる。だからといって、ジャーナリズムは政治家のすべての言葉をそのまま垂れ流すべきなのだろうか。そんなことはない。ジャーナリズムがやるべきは、たとえプライベートな場でのプライバシーの範疇に入る事柄であったとしても、パブリック・インタレストがあるかどうかを基準に政治家の言葉や行為を批判的に監視し、報道することだと思う。
 富山県立近代美術館の大浦作品をめぐる訴訟の一審判決は、天皇にもプライバシーの権利が保障されるが、天皇の象徴としての地位、職務からすると、プライバシーの権利は制約を受けることになると判示している。皇族は、人権やプライバシーを享有するが、一般の庶民や通常の公人とは異なるウルトラ特権を有する一方で、人権やプライバシーが最大級に著しく制約されると考えるべきではないのだろうか。
 人報連・代表世話人の浅野健一さんは、「皇太子妃に子どもができることが『国民にとって朗報』という記者は、ジャーナリストをやめたほうがいい」と主張し、「朝日などメディアは、何のために彼女の妊娠の兆しを伝えているかが問題だ」と指摘している。「懐妊徴候」の検査や不妊治療のために、どれだけの税金が投入されたかということなら、本人の意に反していないかどうかなどを含めて、パブリック・インタレストのある事実として伝える意味があるかもしれない。しかし、「慶事の兆し」を知ったからいち早く報道するということのどこに、ジャーナリズムの役割を果たしたと言える要素があるのだろうか。いつ伝えるのか、何を伝えるためなのか、プライバシーを越えてなお報道する意味があるのかどうかが問われなければならないのだと思う。
 プライバシーのみを一般的に強調することでタブーを強化させ、「マスコミじかけの象徴天皇制」にはまりこんでいく陥穽に対しては、警戒してしすぎることはない。一方で、「公人中の公人」にはプライバシーなどないのだと一律に言ってしまうことで、だから大きく報道されても仕様がないのだと「象徴天皇制のマスコミじかけ」の陥穽にはまりこむことも避けなければならないと思う。

(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.4.4, no.33)











〈サミット〉がつくり出している状況
沖縄県議会の「一坪反戦地主など」の排除決議をめぐって

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 3月30日、私は「沖縄から基地をなくし世界の平和を求める市民連絡会」の会議に出席するために沖縄にいた。沖縄サミットに対抗する集まりである「民衆の安全保障フォーラム」(6月30日〜7月2日予定)の前段集会(「基地移設・沖縄戦改ざん問題を通してサミットと〈民衆の安全保障〉について考える集い」、4月16日)の準備のために、そこに参加している何人かの人と会うための沖縄行きであった。
 その日は、「沖縄県政を糾す有識者の会 国旗国歌推進沖縄県民会議」の「県の外郭団体など、あらゆる県の機関から『一坪反戦地主など』を役員から排除するべき件」という、とんでもない陳情が採択されてしまった日であった。一坪反戦地主「など」の人々は、そうした陳情書の存在を前日まで知らずにおり、その日議会への抗議行動を展開。その後に「市民連絡会」の会議というわけであった。
 そんな話は、まったく知らなかった私は、会議の場で、その陳情書のコピーを手にした(「『反戦平和』」は「日本を破滅に陥れようとする考え」だと主張しつつ、平和祈念資料館監修委員、県公文書館役員、県教育委員から「『一坪反戦地主』のような人物」のパージせよという驚くべき内容のものである)。
 一坪反戦地主会の採決をするなと要求する声明も、配られていた。そこには、こうある。「右陳情は、極めて危険な内容であり、民主主義を根底から否定するものである。/右陳情は、国の施策に反対する行為をしてはならない。国の定める歴史観に反してはならないという、まさに『ファシズム宣言』を沖縄県民に押しつけることを求めるものである」。
 「思想信条の自由」という基本的人権を踏みにじれと、公然と要求する内容のものであることは、まちがいない。これが県議会で採択されてしまったのである。
 平和祈念資料館、八重山祈念館の改竄した稲嶺県政の意向をくみとった内容が、そこには具体的に示されている。稲嶺県政は、事実をねじまげる改竄に対する抗議の声の高まりにおびえ、「元通り」にすると宣言。監修委員に会議を持たせずに勝手に改竄してた彼らは、県の職員と監修委員におっつけて逃げた。稲嶺県政にとっては、大田革新県政下で組織された監修委員は邪魔だったわけである。作業のための十分な時間も予算も与えられないというヒドい条件の下で奮闘した監修委の人々は、任務の継続を要求していた。そうした状況下での「排除」要求なのだ。
 4月1日に新しい平和祈念資料館はオープン。3月29日の『沖縄タイムス』(夕刊)には、こういう記事がある。
 「沖縄平和ネットワーク運営委員長の村上有慶さんは、運営スタッフの人材不足や誘致活動の展開不足などを理由に『県側はといかくオープンさせることだけを考えている』と手厳しい。『旧資料館の入場者の多くは本土からの修学旅行の生徒だった。県は新資料館に合わせた誘致活動や企画んど一切やっていない。沖縄戦に精通した学芸員など展示内容を生かせる人材もいない』と語る。/県側の管理不備などを理由に旧資料館から展示品を引き揚げた沖縄戦研究家の久手堅憲俊さん(69)は『資料館問題は何も解決していない』と言い切る。『いったん、こじれた感情を元に戻すのは難しいのに、稲嶺知事は見直し問題での自らの関与について謝罪すらしていない』と話す。」
 しかたなしの、シブシブのオープンという稲嶺県政の姿勢がよくわかる。
 3月30日の『沖縄タイムス』の社説(「名実ともに平和の殿堂に」)は、こう主張している。
 「変更問題は、開館(4月1日)にこぎつけたとはいえ、すべて片づいたわけではない。多くの人たちが、心の底にわだかまりをもっているのではないだろうか。真相が十分に語られずに、あいまいのままになっているからだ。/開館式典にあたって、稲嶺恵一知事から何らかの言及があるのではないか。そんな期待もあったが、知事は一切触れなかった。『もう済んだことだ』という思いがあるのだろうか。問題となった展示物を、監修委員の意向通りに直したのだから、それでいいのではないか。知事はそう考えているように見える。/たしかに『銃を構えた日本兵』や『青酸カリの入ったミルク』などは元に戻され、きのう、マスコミに公開された。監修委員らもそれを確認し、問題は解決した。/だが、なぜかしっくりこない。県に対する不信感を払拭できないからだ。監修委員に事前の相談もなく、展示内容を大きく変更しようとした県の対応は、責められて仕方のないものだったのに、その始末が不十分で、疑念をぬぐいきれないのである」。
 本当は、問題は「解決」していない。稲嶺県政の改竄への意志は、変わっていないのだ。この右翼の陳情を自民党ら与党議員が平然と採決している事実にも、それは示されている。
 私は翌日の3月31日には帰りの飛行機に乗っていた。新しい候補者をしぼりきれずに、名護市長リコール運動の展望が、まったくなくなってしまっているといった昨日の夜の酒の席で聞いた話と、陳情採択の現状が、私の気分をグッーと暗くした。
 やはり、当面、リコールは断念という声明が、「海上ヘリ基地建設反対・平和と名護市政民主化を求める協議会」によって4月3日に発せられた。4月4日の『朝日新聞』は、サミットが近づいてしまい、振興策によって情勢が変わってしまったという声を紹介している。
 基地強制のための沖縄サミットも振興策(金ばらまき)も、日本政府の政策である。そして稲嶺県政による日本軍の残虐性を薄める方向での祈念館改竄も 1996年の橋本首相(当時)の全国各地の平和博物館を調査要求と、それをふまえた「偏向」非難に端を発している。サミットで国際的に注目される前に政府の意向をくんで改竄してしまいたいという意思が稲嶺県政側に、まちがいなくあったのだ。
 「先進国」の首脳会議(サミット)は開かれる以前から、沖縄の状況を変えるテコとして、日本政府によって、このように政治的に活用されているのである。私たちのサミットそれ自身への批判の言葉と行動が、より研ぎ澄まされなければなるまい。
(『派兵チェック』 No. 91(2000年4月15日)











《書評》

安保再定義」の背景を垣間みる

マイケル・グリーン、パトリック・クローニン編 川上高司監訳『日米同盟――米国の戦略』〔勁草書房 1999年、3,000円+税〕

島川雅史●立教女学院短期大学教員

 本書は、1995年12月にアメリカで行なわれたシンポジウムを基にして、その後の出来事などを加え、99年に書籍として刊行されたものである。このシンポジウムは、ジョンズ・ホプキンス大学の国際関係大学院や国防大学の研究所などが催したもので、メンバーは大学や政府系研究機関に所属している者を中心に、国防総省・国務省などの元職・現職の政府関係者を含んでいる。編者の「まえがき」によれば、執筆者は96年春の「日米共同宣言」の作成過程で、政策・学術論争に積極的に関与した人びとであると言う。防衛研究所研究官である監訳者は、この人びとを「米国の安全保障エリート達」と呼んでいる。また、「安保再定義」の時に国防長官であったW. ペリーが序文を寄せ、日米政府間交渉の過程でアメリカ側では学界・研究者からのインプットが役立ったと述べて、本書を推奨している。
 周知のように、「安保再定義」の一連の流れは、当時国防次官補であったジョセフ・ナイの影響力が強かったというところから、別名「ナイ・イニシアティブ」とも呼ばれている。本書の執筆者たちがどの程度この「イニシアティブ」に寄与したのかは明らかではなく、またナイの独特な理論構成に影響を与えたとも思えないが、執筆者の論調は全体としてアメリカ政府寄り、それも商務省などの“貿易摩擦系”ではなく、軍事同盟優先の国防総省・国務省寄りであるので、彼らがナイ・イニシアティブのいわば応援団的な位置にあったことは確かである。
 本書では、11人の執筆者が戦略論、基地問題、軍事同盟機構、経済安全保障、武器輸出・技術提携等、多岐にわたる論点を提示している。ナイ・イニシアティブの理論的基盤としての『第3次東アジア戦略報告』(1995)は、同盟の原理・原則をくどいほどに繰り返し述べたもので、主題である軍事の部門でも具体的な政策・手段にはほとんど踏み込んではいない。本書の各章の論点は極めて具体的であり、この意味では、ナイ・リポートとも呼ばれる『戦略報告』を各論的に補足・展開したものになっていると言える。また、ナイの国際政治学者としての個性的な理論展開よりも、むしろ本書の各論的主張のほうが、アメリカ側の問題意識をよく表しているとも言える。
 執筆者の中では多数を占める研究者たちの評論よりも、国防総省で日本関係に携わったP. ジアラやG. ルービンスタインなど政府部内にあった筆者の記述には、スマートネスを旨とし同盟の肯定に力点を置くナイがあえて触れていないような、アメリカの真意や生の「国益」の論理が主張されており参考になる。例えば、ナイがオブラートにつつんだ中国に対する姿勢は、米軍の“仮想敵”と見なしていることが明らかである。また、TMD(戦域ミサイル防衛)に海上自衛隊は熱心であるが航空自衛隊は関心を示さなかったと言いつつも、日本の防空システムはTMDに対応すべきであり、その開発・調達・運用においては米軍と自衛隊の「効率的な統合」が必要である、という「政策提言」などが述べられている。日本の読者は、アメリカ側の主張から、“日本軍”内部の対立、つまり、すでに通信リンクを作りイージス・システムと低層TMDを結合させようとしている海軍同士の関係と、空自やその背後にある防衛業界が、現行バッジ・システムを廃し情報=指揮系統を完全支配しようとする米国の軍産連合に抵抗している様子を、垣間みることができるわけである。
 ジアラが「第3章・在日米軍基地」で述べていることには重要な点が数多くあるが、特に、朝鮮戦争後に締結された「国連軍地位協定」が現在も有効であり横田・横須賀・嘉手納などの7基地を包摂している、という指摘は重要である。これによって、朝鮮半島での戦闘の場合に、米軍は「事前協議」なしに戦闘出撃基地としてこの基地群を自由使用できると言う。これは日米安保の“抜け穴”と言うべきポイントで、従来は看過・黙過されてきたところである。現段階でアメリカ側からこのような主張が持ちだされていることの意味は深長であろう。(この問題については、詳しくは5月刊行の『年報日本現代史』6号掲載予定の拙稿で触れているので参照いただければ幸いである)。
(『派兵チェック』 No. 91(2000年4月15日)