2000.8.20  No.31

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目 次




【インタビュー】

共和制」をめぐる論議こそが必要――天皇制とイギリス王室(テッサ・モーリス=鈴木)

【議論と論考】

雅子「斂葬の儀」欠席騒ぎ――つくりものの「笑い」とつくりものの「心配」(天野恵一)

戦死者の追悼と「平和」・「安全保障」・「反核」−−沖縄「平和の礎」のクリントン発言と広島「平和記念公園」の森発言 (天野恵一)

【言葉の重力・無重力】(6)

「ソ連論」で共感し、「日本論」で異論をもつ――内村剛介『わが身を吹き抜けたロシア革命』を読む(太田昌国)

「マサコ懐妊報道」を論議する(5)

皇室の「公と私」と私たちの「公と私」(天野恵一)

【書評】

李小江著、秋山洋子訳『女に向かって 中国女性学をひらく』(坂元ひろ子)

石原昌家著『沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕−−国内が戦場になったとき』(水垣奈津子)

新崎盛暉編『《和英両文 100 Q&A》沖縄の素顔』(岡田剛士)








《インタビュー》

「共和制」をめぐる論議こそが必要
――天皇制とイギリス王室

テッサ・モーリス=鈴木
●一橋大学社会学研究科客員研究員

●ベトナム反戦運動の時代とイギリス王室・天皇制
――僕がテッサさんにインタビューしようと思った動機については、まず、今まであまりどういう仕事をしているかよく知らなかったテッサさんとの沖縄での出会いがあったということがあります。僕たちが「民衆の安全保障」国際フォーラムの前段の集まりを沖縄現地でつくった時、稲嶺知事らの改ざん問題で揺れた、新たな平和祈念資料館の英文の説明プレートの中で、米軍の抑圧的政策についてキチンと書いていない事実を、同行したテッサさんたちが発見して、その事を私たちの集会の中で問題にした。この件については、沖縄サミットを前に、結局、沖縄県行政はまったくなおさなかったわけですね。
テッサ ええ、やはり、そのままでした。
――七月十九日の『沖縄タイムス』には「サミットで多くの外国人が資料館を訪れるだろうが、このままの英文では、沖縄の戦争体験と戦後史をうまく理解することができない」、「米軍基地の大きな意味と影響を理解できない」のではというテッサさんのコメントがありますが。
テッサ その件は、またすぐ沖縄に行きますので、あらためて抗議したいと考えています。県の姿勢には問題があります。本気で事実を伝えたくないのではないでしょうか。
――インタビューしてみようと思ったもう一つの動機は、「無害な君主制として天皇制は生き延びられるか――英国君主制との比較から」(『世界』二〇〇〇年一月号)という論文です。日本の天皇制のあり方を見て、「私は共和主義者になった」と語っていますね。また、「六〇年代後半の学生運動世代でも、ヴェトナム戦争に対する猛烈な反対と、英国における君主制存続への無関心は、無理なく共存しえたのであった」という主張もある。六〇年代後半の運動は、日本でも天皇制を政治テーマとして考えていなかったという点で共通していました。この言葉は日本の学生運動にもあてはまるんです。
テッサ イギリスの文脈では、この時代の学生運動は、かなり盛り上がりましたけど、それでも、日本とかフランスほど強力なものではなかった。
 私の経験で考えますと、盛り上がった後に大学に入ったのです。私は六九年に入学していますから。六九年には、もう静かになってました。それでもヴェトナム反戦運動は続いていました。多くの学生たちにとってはヴェトナム戦争に反対することは、あたりまえのことでした。でもイギリスの政治制度そのものへの批判という点では、そういう批判はあまり強くなかったし、君主制の批判という点では、ほとんどなかったと思います。
――なぜ、そうだったのでしょうか。
テッサ ヴェトナム反戦運動という点から見れば、イギリスは直接に参戦していない。政府はアメリカを全面的に支持はしていましたが。だからヴェトナム戦争に反対することはイギリスの支配制度への批判とは直接に結びつかないという要素もあった。君主制に対しても、私の印象では、王室は非常にマス・メディアをうまく使っていましたから、そういう政治と王室は無関係というイメージでした。もう一つは、イギリスの帝国主義・植民地支配の歴史についての教育がなかったんですね。今でもその問題を徹底的に考えようという教育はないと思います。
――日本の場合は、軍部に戦争責任を押しつけ逃げた、天皇や官僚政治家たちが占領軍と組んでいて、その問題を考えないようにうまく操作されるなかで育ったんだと思うんですよね、僕たちは。でも、戦前は悪いという一般的ムードと論理はあった。そこでは戦後の方がよい、象徴天皇制のような「無害」な方がよいという一般的ムードもつくられた。
テッサ イギリスの場合は、植民地主義は悪いという意識は、かつても強くなかったし、今も強くない。帝国主義・植民地主義がよいと思っている人は少ない。無関心な人が多くて、徹底的な反省・自己批判がほとんどなかったんですね。
――もちろん、日本も基本的には同じです。でも敗戦国でしたし、軍事占領されることになったわけで、戦前(中)への反省ということは表面的には強いられたわけです。
  僕の記憶だと、ヒロヒト天皇在位六〇年式典というのがあった八六年ごろ、フランスの記者などに、なんで、あんな封建的な残りものにすぎない天皇制を、あなた方は問題にするのかという質問を受けた。その時、イギリスの王室だって、大きな政治的存在なのに、どうしてまったく「無害」で「非政治」的と決めつけ続けているんだろうナー、と思った。もちろん、自分も学生時代は、まったくそんな理解ではなかったから、同じようなものかなと同時に思ったわけです。
  日本の反体制運動の中心は、圧倒的にマルクス主義で、そこの戦前(中)天皇制の理解が、日本の野蛮な侵略をうみだした封建的な権力、あるいは前近代的な残りものというふうでしたから、戦後の象徴天皇制の問題も、キチンとつかまえられないということがあったんです。その点はイギリスではどうだったんでしょう。
テッサ イギリスは、早い段階で産業革命を実現し、先進国という強い意識がありましたから、王制を、そのように考えるということはなかったと思います。
 イギリスでは君主制への批判というのは強くなったり、すぐ弱くなったりをくりかえしてきているわけですが、批判の根拠というのは帝国主義・植民地支配との関係というより、もっぱらお金の問題ですね。まあ、王室の人間の不倫話というようなこともあります。私たちの税金をムダ使いしている存在であるという、日常生活の中からの批判ですね。

●マス・メディアと右翼の暴力
――スキャンダル、王室スキャンダルは、マスなメディアでも書かれる。そういうメディアの構造は、日本の皇室についてはない。基本的にタブーなんですね。それと対応しますが、天皇主義右翼の存在ですね。社会的には暴力団ですが、批判的な発言がマス・メディアに浮上するとテロ・脅迫というのがある。ここがイギリス王室と違うところですね。
 ですから、天皇制を批判する運動は、特殊に困難を背負い込みます。例えば、公安警察が右翼の暴力を口実に、いろいろいやがらせをする。こんなグループに部屋を貸していると、恐ろしい結果になるぞ、というような対応を貸し主にして、部屋が借りられなくなるなんてこともあります。イギリス王室との関係では、こういう存在は、ほとんどないわけでしょう。
テッサ 右翼団体は存在していますけど、そんなに君主制を支持しているわけではないんです。ナショナリストは人種主義者なんですけど、共和制を支持している右翼団体もいるんですね。
――なるほど。
テッサ 右翼団体は時に暴力的ですけれど、女王を批判することは許さない、なんてことはないですね。
 イギリスと日本の間の、その点は大きな違いですね。
――テッサさん、『世界』のこの論文でも、イギリス的感度で、経済的ムダという批判の声への期待を書かれていますね。私たちも、ズーッとそういう批判の運動を続けてきました。この間の「皇太后」の葬式も二五億円ぐらいかけているんですね。でも、私たちの実感では、どうも日本の多くの庶民は、あの人たちは特別で、大金がかかってもいたしかたないという気分が強いんでしょうね。経済的合理性という角度から、批判がもりあがるということが、これだけ不景気になっても、まったく少ない。右翼のテロとか暴力による「神聖化」と、こうしたことは無関係ではないのでしょうが。

●イギリス王室の変化
テッサ 天皇へのマス・メディアのタブーと暴力という問題は、一番大きな問題ですね。それをどうするのかというのが、とても大切な問題。
 イギリスの場合は、私が学生だった時代から考えますと、マス・メディアの王室の扱いというのは大きく変化しています。タブロイドでもそんなに批判的なものはなかった。タイムスとかのような高級紙にはまったくなかった。
――七〇年代。
テッサ ええ、それが八〇年代・九〇年代には変わりましたね。
――ダイアナ効果みたいなことがあった。
テッサ ええ、それが一つだと思います。ダイアナだけのスキャンダルじゃなかった。王室のスキャンダルは、いろいろあったでしょう。それが一つ。王室がメディアを積極的に使うということは七〇年代後半までなかったんです。インタビューに答えるということもなかった。ところが七〇年代後半になるとBBCに王室についての番組がつくられるようになった。そういう姿勢に変ったんですね。そうなるとメディアも、少し批判的なことも書くようになったんですね。
 それはサッチャーリズムとの関係もあったと思うんですね。サッチャーの登場は、イギリス社会の中に大きな貧富の差の拡大をもたらしました。社会的な不安とかトラブルがたいへん増大したんですね。それが王室批判へ向かった。
――不満のはけ口ということですね。
テッサ そうですね。王室に対しての批判が出ることは、よい事だと思いますけどね。でもね、その時、政府への批判、経済政策への批判というのはあまりなかったんですね。タブロイドの王室批判は、政府への批判をかわす役割を担ったといえると思います。
――国民のオモチャになって、不満を吸収したというわけですね。
テッサ ええ、今は、チャールズについての評判はよくない。だから彼が王になると、批判というのは、また噴き出してくると思いますけど。女王のお母さんが百歳になったことが話題になったでしょう。
――ええ、日本のメディアでも報道されましたね。
テッサ 彼女の評判はいいんですよ。それでも、その時、いろいろ批判の声も出たんですよね。
――なるほど。

●共和主義の運動がなぜないのか
――日本の反天皇制運動について、テッサさんの積極的な提言が何かありましたら。
テッサ 日本の中には、共和国主義の運動というのがないでしょう。それは、どうしてなんでしょう。
――戦後の象徴天皇制国家は、君主制か共和制かという論議がズッーとあるんですね。それで体制派・右派は象徴は実質的には君主であるという主張をし、批判派は、共産党系などを含めて、象徴は儀礼的な権力だから、君主とはいえない、だから天皇を持った共和制だという解釈が強かった。憲法学会の通説も、共和制なんですね。だから、共和制と解釈することで、天皇制を弱めようという動きが蓄積されてきた。そういう「倒錯」が前提になると、共和制を、という主張は出てこない。
  それと、もう一つ、共和制というのは資本主義・帝国主義と適合的な制度であるという歴史体験・認識があるでしょう。だからいまさらというような気分があった。この点は、私たちの運動の中にもある気分といえると思います。
テッサ なるほど。でも、二十一世紀に向かう今ですね、共和制について討論する必要がありませんか。反天皇制という問題が大切なのはわかります。でも、例えばですね、「二十一世紀の世の中で、なんで天皇制が必要なの」と問いかける、天皇制にかわるオルタナティブを構想するような問いがあるべきではないでしょうか。
――ええ。
テッサ いろんな立場からこの問題を討論することで、未来の理想を語るということは大切ではないでしょうか。
 憲法問題、政府の改憲の動きが始まってますよね。日本の「左」の立場で、憲法について討論するのは、むずかしいということは私にもわかります。
 基本的に「護憲」でやってきたわけでしょうし、そういう論理をたてると九条の平和主義を変えようという政府の手口にまきこまれてしまうという問題があること、それはわかります。
 でも、ここで、政府は改憲の論議をひらいていくわけでしょう。この機会を積極的に使う、天皇制の問題を正面から論ずることをするということがあってもいいでしょう。
――古い「護憲論」ではなくて、政府の九条改悪に反対しながら、天皇制論議をひらいていくチャンスとして、改憲論議の局面を積極的に使おうという気持ちは、私たちにもあります。ただその時、「国民国家」をつくってきた共和制を要求する、ということでいいのか、ということは、さきほどいったように、かなり、ひっかかりがあるんですね。
 まあ、どういう共和制かということでもあるといってもいいのかもいれませんが。
テッサ 共和制といっても、いろんなものがあるでしょう。例えばオーストラリアでは、どうするということで、いろんな討論がありましたね。その時の状況をみると、共和制を主張している人も、政治的にはバラバラなんですね。かなりナショナリスティックな人たちもいます。
 でも、討論自体は、とてもよかった。残念ながら敗れましたけれども。
 いろんな人たちが、いろんなモデルで考えて、かなりの人々が参加して討論が展開された。その事を通して、何が出てくるかといいますと、市民自体に国家体制を決める権利があるんだという意識が出てくる。
 私は、日本に一番欠けているのは、「私たちに、それを決定する権利があるんだ」という意識だと思います。ですから、共和制という言葉を提出してですね、その内容をあれこれ論議することを実現すればですね、少し状態がよくなると思うんですね。制度をあれこれ比較するだけでもちがう。
――なるほど、その点はよくわかる。
テッサ つまり、想像力の問題です。どのようなオルタナティブを想像するかということです。日本の多くの人々は、今の天皇制があたりまえだと考えているわけでしょう。積極的に支持していないとしても。そこの基本的なところを、違うモデルについて考え、あれこれ論ずることで考えていくことが必要だと思うんですね。
――わかります。

●辺境の先住民の歴史的経験
――さて、最後に。テッサさん、新しい本を出されたばかりですね。『辺境から眺める――アイヌが経験する近代』(みすず書房)というタイトルですね。この本のモチーフを話してください。
テッサ 日本とロシアの国境の地帯に住んでいる先住民、アイヌの人々なんかの歴史的な分析です。
 基本的に、こうした歴史的体験をしらべていくとですね、近代とはなんなのか、国民国家というものは、どういうものだったのかという問題にぶつかります。そういうことを持続的に考えていきたいと思っているわけです。
――なるほど、この間の沖縄への関心も、それと重なっているわけですね。
テッサ ええ、そうです。
――おしまいに聞くのは、おかしな話なんですが、テッサさん、つれあいが日本人ですね。それで何度も日本におみえになって、日本研究をしているということがあるんですね。
テッサ ええ、そうです。私が日本に最初に来たのは一九七三年です。その時は、まったく日本のことは知りませんでした。
――学生の終わりのころ。
テッサ ええ、卒業して、何をするかはっきりしていませんで、英語の教師をしていまして、その時、アジア・太平洋資料センターに行った。そこで武藤一羊さんなんかと知りあいになったんですね。ですから、古い関係なんです。
――そうなんですか。
テッサ イギリスに帰って、研究者の生活に入ったんですが、その後、年に一回は日本に来ています。
――そうですか。それでは、今後もまた、いろいろいっしょにできると思います。今日は、ありがとうございました。(インタビュー=天野恵一)
(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.8.8/37号)

《議論と論考》

雅子「斂葬の儀」欠席騒ぎ
つくりものの「笑い」とつくりものの「心配」

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 雅子が皇太后の『斂葬の儀』(七月二十五日)に欠席した。まあ皇室にとっては重大な行事である。「ご懐妊か?」という話にマスコミがなるのは当然だが、古川清(東宮大夫)の、欠席の理由の説明が以下の通りだから、話がさらにおかしくなる。
 「雅子さまは暑さが続いて疲れがたまり、夏バテのような状態。お身体を大切にしていただくという見地から、お取りやめになった」
 夏バテぐらいで欠席していい儀式ではないとされているわけだから、本当は何が理由なの、という声が高まる。
 おまけに、その六日後(八月一日)高校総体に出席のため、雅子は動きだす。出席は七月三十日に発表されている。
 そんなにすぐ動けるのに、どうしてというふうに話題は進む。
 『週刊新潮』(八月十日号)の「雅子さま『休養』で伝えられた『真相』」の分析は、こういう「皇室関係者」の声で方向づけられている。
 「これは申し上げにくいのですが、どうやら雅子さまはこの時、もしかしたら“ご懐妊”かも知れないと思われる状況にあったのです。つまり女性としての、月のご体調の変化がその可能性を示していた。それで、万が一にも、と大事を取って、……」。
 「夏バテ」という発表で、騒ぎになるのをへたくそにかわしたが、結局、そうではないということで高校総体には出席ということになったというのだ。この記事、先の「皇室関係者」の雅子の「重圧」は「本当にお気の毒です」という声で結ばれている。
 『週刊文春』の「宮内庁記者会が問い詰めた雅子妃『皇太后さま斂葬の儀』欠席の理由」(八月三日号)、「雅子妃『本当に夏バテ?』で記者奔走」(八月十日号)にはこういう「宮内庁関係者」の声が出てくる。
 「雅子妃は、医者はもちろん医療関係者の相談もお受けにならない。昨年のご懐妊騒動以後は、宮内庁はじめ、身近なお世話係にまで不信感を抱かれていて、……」
 精神的に深刻な状況、というわけだ。ここでも「関係者」の心配発言。次の記事は、「国民が納得できる説明を望みたい」との宮内庁担当記者の声で結ばれている。ノイローゼ説が基調である。
 『女性セブン』は「雅子さまの健康状態が気にかかるのだが……」という調子で、「夏バテ」で「ご懐妊」なしの宮内庁発表を紹介しつつ、「いまはただひたすら、雅子さまさまの体調が回復されることを祈りたい」と結ぶ記事(「雅子さま『斂葬の儀』を急きょご欠席の『波紋』」(八月十日号))。
 『週刊女性』の「独占真相『斂葬の儀』ご欠席は夏バテが原因ではない」(八月十五日)には、こういう「東宮関係者」の声が紹介されている。
 「雅子さまが、ある妃殿下とお話しされている時に、急にドアの外に人がいないかどうかを確かめに行かれたそうです。それだけナーバスになっていらっしゃるのだと思いますが……」/「雅子さまが、このごろふさぎがちなのは私たちおそばに仕える者が一様に気にしているところです。食事をとられないこともありますし……」。
 こちらも、ノイローゼ説のようだ。この記事の結びは、こうである。
 「幸い、雅子さまにも皇太子さま、美智子さまという理解者がいる。服喪中であるが、あえて“前例”を破り、ゆっくり静養され、早くあの微笑を取り戻されるよう祈りたい」。
 「夏バテ」発表の裏に、正確に何があったのかは、結局よくわからないが、こういう記事を読んでみると、雅子がさらに心理的に追いつめられており、「懐妊」騒ぎの時、内部から情報を流した身のまわりの人間への不信でかなりノイローゼ状態であることはわかる。記事は「雅子さまが心配」というトーンでは、みな同じであるが、「皇室関係者」なるものの「声」をたれ流している点もほぼ共通している。こういう記事をみたら雅子はますます不信を増大させるしかないだろう。マスコミは(それにリークしている「皇室関係者」なるものも)雅子を追いつめることをしながら、「心配」してみせているのだ。
 世襲の国家の象徴一家の皇太子の妻となれば、懐妊・出産はマスコミあげての大騒ぎになるにことは十分認識しながら、「皇太子妃」というウルトラ特権的な「身分」を手にした雅子は、裏でイライラしていても表で笑ってみせるしかない(高校総体への出発時は、つくられた笑いをふりまいている)。
 つくりものの「心配」とつくりものの「笑い」。マスコミも雅子も、いっていることとやっていることが正反対で、メチャクチャなのだ。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.8.8/37号)












戦死者の追悼と「平和」・「安全保障」・「反核」
沖縄「平和の礎」のクリントン発言と広島「平和記念公園」の森発言

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 沖縄で7月15日に「米兵によるわいせつ事件糾弾及び連続する事件・事故に抗議する緊急県民総決起大会」が持たれ(宜野湾)、7000人が結集。これをステップに7月 20日の「嘉手納基地包囲行動」に2万7100人の人々が参加し、人間の鎖で基地包囲を実現。
 沖縄サミットを混乱させないために、という様々な大衆行動へのブレーキをはねのけ、サミット直前に、反基地の運動は噴出し、そのエネルギーはサミット期間中の抗議行動へと連動していった。日々、サミットそれ自体を批判する声を拡大しつつ。
 「戦争協力を拒否し、米軍基地の沖縄内移設に反対する実行委員会(新しい反安保実W)」の多くのメンバーは、20日からの沖縄現地での闘いに合流した。私は「新しい反安保実W」と「『海の日』『皇太后』『全国戦没者追悼式』に反対する実行委員会」の共催の東京での「『海の日』『サミット』『皇太后大喪』に反対する7・20集会」に参加(私は2つの主催団体のメンバー)。沖縄サミットに抗議する行動を、自分の足もとでも、という気持ちが強かった(もちろん、反天皇制のテーマへのこだわり、という点もあったが)。集会後のデモの隊列へ右翼の宣伝カーが突入してくるという事態もあり(警察の右翼との“なれあい”がひどかった)、警察と右翼への抗議に声をからして、アセまみれの行動であった。
 つっかかってきた右翼の言葉がふるっていた。「テメーら、サミットにまで反対するのか」。「共産主義テロリストはサミットにまで反対するのか!」
 「皇太后大喪」とサミットに反対すると横断幕にもプラカードにも書いており、シュプレヒコールでも叫んでいるのに、「皇太后大喪」について右翼は、まったくふれなかった。どうなっているのか。デモの後は、しばらく、この点が話題になった。本当に右翼は、どうなっているのか。
 8月5日は、「8・6ヒロシマ平和へのつどい2000」主催の集会「21世紀へのヒロシマのメッセージ」に参加し、6日は早朝から例年通り「市民による平和宣言」を、平和記念公園のセレモニーに参加する大量の人々に配布。「神の国」発言の森首相が来て、平和の大切さを語るこのセレモニー。沖縄の「平和の礎」でアメリカ大統領クリントンが沖縄が軍事的に「死活的に重要な役割を果たしてきた」と語りつつ、軍隊による「アジアの平和」を力説してみせた(7月21日)ことを思い出させた。戦死者を追悼する関係者個々人にとってはまったく切実なセレモニー(場)を巧みに利用しつつ、国家の支配者たちが戦争(基地・軍隊)による平和をアピールする。こういう欺瞞が共通している。
 由井晶子は「真の『人間の安全保障』を再定義──韓・比・プエルトリコ・米の女性を沖縄につないで」(『労働情報』556〈2000年8月1日〉号)で、こう書いている。
 「またサミット参加国は、世界でも武器輸出に最も高い割合を示している国々。その武器が非武装の人々の生命を脅かすだけでなく、環境を破壊し、生活の安全を損ねている。そんな国の首脳たちが、ほんとうに『人間の安全保障』を話し合えるのか」。
 「平和」についても、「安全保障」についても、さらには「反核」についても、実はまったく対立的な思想と行動がそこにあるのだ。
 原爆を保有していながら(あるいは、その核の力の内側に入りこんでいながら)、原爆の恐ろしさを語り、「核のない平和な社会」を語ることも欺瞞である。核大国(あるいは、その核のシステムの内側の大国)のクラブが、核と軍隊(基地)によって人間の安全を保障し、「平和」をつくりだすと語り続けてきた。こういう、欺瞞的な「平和」「安全保障」「反核」を具体的に批判しぬく運動を通して、私たちの〈平和〉も〈安全〉も〈反核〉も、つくりだされるものであることは明らかだ。
 8月6日の『中国新聞』には、この1年間に亡くなったり、新たに死亡が確認された被爆者は5021人であり、名簿登録者数は21万7137人となったと、ある。
 こうした、大量の死者の存在について考える必要は確かにある。しかし、それは国(や行政)が、まとめて現在のそして未来の「平和のための死者」として、抽象的に一括して追悼してみせることとは、まったく別の事柄であるはずだ。
 「神の国」の政治的追悼のセレモニーは、いつも、そのようなものであったことをこそ、私たちは想起しなければなるまい。
 戦死者を、生き残った、あるいは新たに生まれた人間の勝手な都合で(死んだ人間は、その瞬間から、何も主張できないのだ)、とりまとめて政治的意味づけをすること、それ自体が欺瞞である。死者と自分との固有の関係をふまえ、いろいろ考えたり意味づけたりするのは、個人の勝手だ。しかし、個々の死者の死に至る歴史社会的な具体性をまったく無視し、抽象的で一般的なラベルで一括する方法を媒介に政治的操作が入りこむのだ。どういう戦争に、どのように動員され、あるいはされずに、何をして、何を思い、どのように死んでいったのかという具体性をふまえて、個々の死者の追悼は個々になされるべきである。
 「平和」も「安全(保障)」も「反核」も、どのように死者(たち)と向きあうのかで、その内実が正反対のものになってしまうということをこそ、沖縄の「平和の礎」のクリントン発言や広島「平和記念公園」での森発言は示しているのではないか。
(『派兵チェック』 第95号、2000年8月15日)


《言葉の重力・無重力》[6]

「ソ連論」で共感し、「日本論」で異論をもつ
内村剛介『わが身を吹き抜けたロシア革命』を読む

太田昌国●ラテンアメリカ研究者

 内村剛介の本が久しぶりに出版された。題して『わが身を吹き抜けたロシア革命』という(五月書房、2000年7月)。1920年生まれの内村は戦前ハルビン学院に学び、卒業後は関東軍に徴用された。敗戦時に「平壌」に進駐したソ連軍に逮捕され、シベリアに抑留された(内村の年来の主張に従えば、「ソ連国家捕虜」とされた、という表現になる)。11年間の捕虜生活を経て、1956年、最後の集団帰国者のひとりとして舞鶴に上陸した。まもなく松田道雄の推挽を得て文章を書き始めた。テーマは、主としてスターリン獄での経験や現代ソ連の思想・文学状況だった。トロツキー文献や詩人・エセーニン、ソルジェニツィンをはじめとする現代ロシア抵抗文学の翻訳・紹介でも際立った役割を果たした。
 「甘さ」が残る日本左翼や進歩派、戦後民主主義派のソ連論・社会主義論・ユートピア論を、独特の皮肉な口調で「揶揄」(必ずしも、後味の良くないことを意味しない)しながら展開されるラーゲリ論・ロシア革命論・現代日本社会論には、内村の複雑に屈折した心情が浮かび上がっていて、こころに響くものがあった。
 同時代の日本の思想・社会状況に対する批判も苛烈だった。それは、たとえば、「わだつみ」に対するそれに見ることができた。特権的に学問をさせてもらっておきながら、学徒動員され、戦場に行くに当たって抵抗を試みることもなく戦死したからといって、特別に哀悼されるいかなるいわれもない。「亡びるべくして亡びたのは、われわれ学生だけではなかったのだ。……いのち、死、それを他人事のように客観化しようとし、甚だしい場合には一般化さえしようとしたわれわれの同輩たちの、思い上がった、いい気な姿を、ぼくは、むしろ、ぼくら学生の罪業だとさえ思う。二十年後のこんにち、あとの世代に伝達すべきものは、わだつみの声などという繰り言であってはなるまい」(「情況にとってまことに残酷なこと」、『呪縛の構造』所収、現代思潮社、1966年)。
 60年代〜70年代のおよそ20年間、私は内村を大事な表現者として、上の「わだつみ」に対する文章も含めて共感をもって読んできた。しかし『ロシア無頼』(高木書房、1980年)では、ロシアへの(ある意味で当然の)警戒論が、「羽田に、成田に、見よ(ソ連の)落下傘」式の表現に見られるように、「ソ連の脅威」を前にした日本国家の危機をアジるにまで至っていて、あぜんとした。(日本)民族の自立は(ソ連の)武力による敗亡で失われるものではなく、精神まで武装解除されてはじめて完全に屈伏するのだが、屈伏しない精神の訓練はそれぞれの家族内のしつけの問題である、という類いの主張が、その本の後半では展開されていた。それ以来、内村の本を読むことを、私はやめた。もっとも内村自身も、その後は長い間、本をまとめることをやめてきた。
 かつて内村の本の編集者であった陶山幾朗の主宰で、98年から『VAV ばぶ』と題する不定期刊の雑誌が発行されている。そこに、陶山が聞き手となった「内村剛介インタビュー」の連載がある。『シベリアの思想家:内村剛介とソルジェニーツィン』(風琳堂、1994年)の著者である陶山に対する信頼もあって、このインタビューは読んできた。理由はもうひとつあって、内村が監修して、スターリン獄における内村の獄友というべきジャック・ロッシの『ラーゲリ強制収容所註解事典』がその間に出版されたのだが(恵雅堂出版、1996年)、それを読むと、『ロシア無頼』程度の著作の荒れ方を見て、内村のラーゲリ「体験」をそう簡単には忘れ去ることはできないと思い、内村を読むことをやめるというのは浅慮であったと思ったからだ。
 インタビューと新著で久しぶりに相対した内村の表現は、かつてのように面白く、刺激的だった。新著に収録されているソ連論は、主として1989年から94年にかけて書かれたもので、ペレストロイカ末期からソ連崩壊の直後までの時期に相当する。そこで多様な角度から展開されるレーニニズム、スターリニズム、総じてソ連社会主義批判には、「左」からの批判としての根源性があるように思える(内村自身は、「左」だなどと、通俗左翼と一緒にするなと言うかもしれないが、「根源性」という以上は、それなりの敬意をこめて私は言っている)。ジョレス・メドヴェージェフの「スターリンの原爆プロジェクト」(『世界』2000年8〜9月号)を読むにつけても、ソ連論は、機密文書の公開に助けられていっそうの深化が期待されるが、その際内村の立論を無視するわけにはいかないようだ。
 他方、インタビューは、「生い立ちの記」的な話から始まり、14歳の少年・内村が「少年大陸浪人」的な心情で満州へ向かう時代へと進む。インタビューなので、表現・言葉の厳密性にはおのずと限界があるかもしれないが、満州国への視点、「脱亜」や入欧ならぬ「入亜」などの問題をめぐっては、やはり私の捉え方との間には不可避的な対立点が残る。満州経験は「戦後デモクラシーの勝者たちの言うような、一方的な、全く不生産的な、罪だけの歴史ではなかった」という内村の考えは、「侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある」とした竹内好の考えに通じるものがある。最近でも、長春(旧新京)の街を見て、その都市計画の見事さに「日本人に対する信頼の念を新たにした」と福田和也は語った(『正論』97年5月号)。安彦良和は、建国大学を舞台とした興味津々たる劇画『虹色のトロツキー』(潮出版社、全8巻、1993年、現在中公文庫)を描いた。日清・日露戦争から満州国建国に至る近代日本のアジアとの歴史過程をふりかえり、内村は「帝国主義の時代に生きるために、日本に何か他の選択肢はあったか」と問う。この論点は、私たちも避けることのできない問題として対決し続けなければならないようだ。
(『派兵チェック』 第95号、2000年8月15日)







《「マサコ懐妊報道」を論議する》(5)


皇室の「公と私」と私たちの「公と私」

天野恵一
●反天皇制運動連絡会

 私の本紙での連載(「皇室情報の『誤よみなおし読』の第31回「天皇一族の公事と私事―雅子の『人権』と宮内庁の操作」)での発言も、大川由夫や北原恵の疑問提示や批判の対象になりながら論議が進んだ。私には大川や北原の主張の基本的なところについて、何の異論もないので、どうしようかと思ったが、答えないというのも失礼だから、最後に書かせていただくことにした。
 私が問題にしたのは、憲法の天皇条項やそれに付帯する皇室典範等の法制上の「公と私」の問題である(そうであることはキチンと書いている)。だから法理念上、一般的に私事とされている私たちの私生活が、実態として国家のコントロールを受けていることや、社会制度(社会関係の中で)の公的干渉なしの純粋の私事として存在していないことは、私にとっても前提である。
 私が「天皇一族の公事と私事」で主張したのは、天皇は「世襲」の「国家の象徴」で「国民統合の象徴」であるという憲法の規定に基づく皇室典範の理念(例えば「第九条 天皇及び皇族は、養子をすることができない」とか「第十条 立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する」を見よ)は、「国民」、一般庶民が自由であるとされていることに制約をもうけている。この制度(法)の違いを無視して、一般庶民の人権を論ずるのと同じ論法で、彼や彼女の人権を論ずるのはおかしいということである。いいかえれば、「国民」に「私事」とされていることが、皇族の人間には国家的な「公事」であるという象徴天皇制のシステムがないかのごとく論ずるのは、よくないということだ。
 私たちと皇室の人々は同じ次元を生きていない。同じ、横並びの人間としてあれこれ同情する気持ちをマス・メディアは組織するが、彼や彼女は同じレベルに存在しているわけではないのだ。ここを隠すことで組織される「おかわいそう」報道と、皇室の人権を私たち同様に「守れ」という主張は、隠蔽による倒錯の組織という点で共通していることをも問題にしたかったのである。
 この論議を読んでいて、組織されている「おかわいそう」感情には、二つの種類が存在しているであろうことに気づかされた。
 私はそれなりに「自由」だと感じている女性らの、自分と比較してひどく「不自由」で制約されていて「おかわいそう」という感情が一つ。もう一つは、わが身の「不自由」にひきよせて(例えば子供ができなくて、つれあいの男や親の非難のまなざしの下を生きている女性)、あなたも「不自由」なのねという同情(おかわいそう感情)だ。
 どちらにしろ、私たち(庶民)と皇族の人間が水平的関係であるという根拠のない幻想を前提に成立している感情である。
 私は、「皇族の私事」は「国家的公事」であるという制度的理念にねそべって、皇室の人間の「私事」を大変に重大なことのように大騒ぎしてつたえる、マス・メディアのもう一方の論理を肯定的に考えているわけではもちろんない。この理念(法制度)自体が、まったくくだらない差別的なものであるのだから。
 皇室の人間と庶民が水平的な関係であるかのような幻想を組織するマス・メディアの「おかわいそう」報道と、皇室の人々の存在は国家・公共的存在で、とびぬけて重大であるという報道の論理は、マス・メディアの皇室報道を相互補完的に貫徹している、矛盾した論理である。
 この矛盾は、皇室の人々は「特別」(に偉い、あるいは「おかわいそう」)という感情を共通の土俵にすることで、矛盾しながら、共存しているのである。
 同じレベルに存在していないものを、あたかも同じレベルで特別に注目(同情)すべき人々と思わせる、マス・メディアの操作の論理と、どう対抗していくのか。これが私たちの反天皇制運動の大きな課題であり続けていることは、いうまでもない。
 最後に一言。大川は婚外子の出産を理由に解雇されたA子の例を紹介し、「セックス・妊娠・出産がプライバシーであり、私事であることを前提にして論議している限り、私たちにはA子のような存在が見えなくなってしまう」と語っている。
 わからなくないが、私たちのプライバシー(「私事」の権利)という理念は大切である。セックス・妊娠・出産は徹底して「私事」(プライバシー)であるべきだという立場が、とりあえずの私たちの批判の根拠ではないのか。「ある」が「あるべきだ」も含意した「ある」であれば、「A子のような存在」を考えるためにも、それはプライバシー(私事)で「ある」という主張こそがもっとなされるべきだとはいえないか。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.8.8/37号)






《書評》

李小江『女に向かって 中国女性学をひらく』
(秋山洋子訳、インパクト出版会・二〇〇〇円+税)

坂元ひろ子●一橋大学教員

 中国でもたいていの新文化は北京か上海発だが、女性学に関しては違った。河南省の鄭州で、それこそなんの政治的後ろ盾も超エリートの学歴、留学経験もない外国文学研究者の李小江の奮闘の力が大きかった。本書は中国に「民間性と土着化を主流とした」女性運動を作り上げ、「政治・学術・イデオロギー」のタブーを突破した女性学の創設に挑戦した李小江の女性研究ドキュメンタリー(一九九五年公刊)の全訳。彼女は少女期には男に、文革中の「美もなく愛情の表現もできない青春」では社会にアイデンティファイしようとした自己の歴史から、根無しの苦しみを覚えた。結局、恋愛・結婚・出産経験からも、「中国の女」、その研究に根を見いだし、ヴァイタリティを発揮して一九八七年には鄭州大学に中国初の女性研究センターを創設、出版でもめざましい活躍ぶりだ。
 彼女の自己史は、今世紀後半には国家と社会主義による「男女平等」女性解放運動を経て、文革終焉期から「ポスト解放」の「新時期女性運動」が胎動したとういう中国女性史の流れに重ねられる。「男女平等」の権利闘争から「真の主体」としての女性アイデンティティの希求へと転換があり、八〇年代後半には女性の民間組織が女性主体で成立するなど高潮期に達した、と位置づける。国家主導の女性解放で性別を、女という自己の精神の故郷をも失った女性が、ついに自分の運命の真の主人公となりえたという点で画期的な運動なのだ、と。この運動は他の社会運動を頓挫させた八九年の天安門事件でも困難にひるむどころか、九三年段階まで底辺の女性をもまきこむ発展をとげた、と回顧する。
 なるほど中国は社会主義革命を経て、「恩恵的に」男女の法的平等と同一労働同一賃金を達成、革命に貢献のある政界の女性幹部「お姉さま」たちがトップに並ぶ中華全国婦女連合会(婦連)が中央にどっしり構えている。だが女性学に情熱を燃やした李の前にたちはだかった「二大」のひとつが「学界」であるというのは日本でならなおさら納得いくのだが、もうひとつの「大」はなんとその婦連を頂点にいただく「女性界」だったという。女性の現実を語ればとるに足らぬ小事だといい、学問に仕立てると、現実の女性の苦難生死には無縁のお飾り、ひいては階級闘争と離れた「ブルジョア的ですらある」と攻撃される。本書を通して、確かに資本主義諸国とは様相を異にする、文革終焉以降の中国の新たな女性学の誕生の過程が理解できる。そして期待をかけた九五年国際婦人会議NGOフォーラムでは上からの圧力で「女性の顔」が「中国の顔」に変質、「異なる声」は封じ込められ、「李小江はずし」開催に至った挫折の顛末をも、本書付録の会議参加拒否記で知りうる。
 さらに興味深いのは、李の「西方フェミニズム」への反感と彼女からすれば「西方的」な「わたしたち」との齟齬が本論および付録の訳者、秋山洋子らの研究会における日本でのやりとりから浮かび上がることだ。たとえば、「中国の母」として「生命と母性を象徴する大自然」のみを精神上の恋人とするという李に女性本質主義を評者もみるし、「平等」で女性性を抹殺したという李に「平等」対等と「同一化」の混同を見る。工業発達国にうまれ、西方規準のおしつけがましい文化帝国主義的「西方フェミニズム」(李は多様性を認めない)と非工業国中国の現実に根ざした女性学を対立視する李に、ナショナリスティックな東西二項対立図式を見る。フェミニズムは西方工業発達国由来だからと斥け、同じ出自のマルクス主義は「自分たちの伝統」だからと拠り所とする李に矛盾を見る。
 それに対して、「東西の歴史」が対話の出発点を不平等にしており、高見に立つ側からどん底にいると思われる側が欠点を指摘されると、たとえ事実でも抵抗を覚える、と李は率直に本音を吐露している。ここに「わたしたち」と彼女の女性学、あるいは彼女の依拠する「東方」をめぐる相互理解の困難があるのだろう。双方がそれを自覚したうえで新たな対話の地平を切り開くほかない。中国もどん底どころか超大国化に向かうからには、「第三世界」からの批評がフェミニズムを鍛えたことにともに学ぶことはやはり多いだろう。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』2000.8.8/37号)










メディア・チェック/

今だから、「国内が戦場になったとき」を考える

石原昌家著『沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕−−国内が戦場になったとき』〔集英社新書、2000年6月、700円+税〕

水垣奈津子●『派兵チェック』編集部

 アブチラガマ(糸数壕)と轟の壕は、おそらく、読谷のチビチリガマと並んで「本土」でもよく知られているガマであろう。前者は南風原陸軍病院糸数分室の壕として「ひめゆり」の手記の中で、後者は映画「GAMA」の舞台として。本書は、このよく知られている二つのガマを時間/空間/体験者の立場という軸で検証し直すことで、私たちが「知っている」と思っている事柄が事実のほんの一部に過ぎないことを、そして全体像を知ることの難しさ、しかしそこに迫っていくことの大切さを教えてくれる。またそれは「住民側の戦史」を記録する方法論の確立という意味でも大きな仕事である。
 さて、『虐殺の島』(1978年、晩声社)から22年経った今、本書を出版する意図についてはいくつか述べられているが、著者を動かした大きな要因は「日本が『戦争しない国』から『戦争できる国』に大変化を遂げた」ことにある。「『平和ボケ』と揶揄されてきた日本国民も、『国内が戦場になったとき』のことを現実に考えなければならないときがきた」のであり、その時「軍隊と国民(住民)がどのような関係になるかをつぶさに体験した」沖縄戦を追体験する手がかりとして、本書は編まれている。
 そして大城将保が本書の解説でもうひとつの契機について述べている。いうまでもなく、昨年夏に発覚した県立平和祈念資料館の展示改竄問題である。ガマのレプリカの中の「銃剣を取り外された日本兵」は改竄事件の象徴であった。それはまさに「国内が戦場になったとき」の軍隊と住民の関係を隠蔽するための改竄であり、新ガイドライン体制を補完するものであることをも、本書は暴露している。資料館の監修委員でもあった石原による、痛烈な反撃ともいえよう。
(『派兵チェック』 第95号、2000年8月15日)








ディア・チェック/

「沖縄の心を世界へ」……とかいわれてたっけ?

新崎盛暉編『《和英両文 100 Q&A》沖縄の素顔』〔テクノ、2000年3月、1429円+税〕

岡田剛士●『派兵チェック』編集部

 この本は、沖縄の歴史や文化、社会、そして基地問題と、ある意味では「まるごと沖縄」に関する多様な100の設問を用意し、それぞれに日本語と英語で各1ページで解説する、という形で作られている。
 いわゆる「対訳本」では、ない。このことは本書の「読者の皆さんへ」ということわり書きにも明記されている。日本語と英語での「沖縄の素顔」という、それぞれに独立した2冊が1冊にまとまったような本なのだ。
 すでに僕たちは、7月の九州・沖縄サミットにおける政府側のスローガンの一つが「世界の目を沖縄へ/沖縄の心を世界へ」というものだったことを知っている。一方で、この4月1日から一般公開が始まった沖縄県の新しい平和祈念資料館の展示のなかで、いくつかの英語による説明文──主要には米軍・民政府の占領下での人権弾圧などについて──が、意図的と思えるような形で欠落しており〔本紙92号を参照のこと〕、それが沖縄サミット直前の7月19日付の「沖縄タイムス」(朝刊)の記事でも、様々な批判にもかわらず未だ修正されていないことが確認されていることをも、すでに僕たちは知っている。
 今年3月に発行された本書は、あたかも、これらの事実/経過を予測していたかのような、明確な意図と幅広い内容をもって、僕たちの前に起立している。最後にある 100番目の問い「人々が願いめざす社会はどのようなものですか」への解説は明快だ。
 「この本でさまざまな角度から解説してきたように、沖縄は、単に日本の一地方とはいい切れない独自の歴史と、その歴史に培われた独特の文化(民衆意識を含む)をもっています。現代史をわずか数十年さかのぼっただけでも、日米両軍の戦場となり、30年近く米軍政下に置かれた歴史をもち、いまなお在日米軍基地の75%を押し付けられているという現実があります。そうした歴史を継承し、厳しい現実に直面している沖縄の民衆が、何よりも強く求めているものが、『基地のない平和な社会』であることは、あまりにも明らかです。」
(『派兵チェック』 第95号、2000年8月15日)