【議論と論考】
反天皇制運動と共和主義(伊藤晃)
在日外国人の参政権をどう考えるのか――排外的な「国家意識」をふりまく人々に反論し、私たちの原則をもつために(木元茂夫)
安保条約の秘密合意への〈怒り〉――「嘘つき」政府と私たち(天野恵一)
【言葉の重力・無重力】(9)
「革新疲労からの脱却」という選挙スローガンについて――高良倉吉ほか著『沖縄イニシアティブ――沖縄発・知的戦略』を読む
(太田昌国)
【反天運動月報】(1)
「日の丸」と明文改憲――運動の方向をめぐって(天野恵一)
【書評】
ダグラス・ラミス著『憲法と戦争』、『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(武藤一羊)
池田恵理子・大越愛子責任編集『加害の精神構造と戦後責任』(伊藤公雄)
共和主義について本紙で少し討論したいからいま考えていることを書け、ということである。本紙通巻第一九四号のテッサ・モリス=鈴木・天野恵一対談で問題が出されたのを受けてらしいが、私もこの問題の討論には賛成である。
本紙には以前、柴谷篤弘氏も共和主義について問題を提出したことがあった。柴谷氏は、日本では反天皇制運動が象徴天皇制への対案として共和制をかかげることがないのを疑問としたのである(本紙通巻一五九号)。これに対して「私たちの象徴天皇制批判は、近代日本の国民国家の具体的な存在様式としての象徴天皇制批判なのであり、共和制国家であれ何であれ、国家制度を要求する運動ではない」(天野恵一 同一六四号)という答があり、柴谷氏はさらに「反天連は共和制の問題をバイパスして、むしろ現状から国家廃絶に直接に移る方針をえらぶ」のかと問うた(同一六五号)が、答がないまま論議は中断した。
■天皇主義と現代国家主義
柴谷氏の問題提出がはぐらかされた感もあったのを、私は残念に思っていた。だが、いまふり返って思うのだが、共和主義の議論に国家そのものへの態度如何を持ち出すのは、一見的はずれにみえるが、実はある正しい面をもふくんでいたのである。
共和制をめざすとは、つまりは現行憲法第一条の廃止を主張することである(私は憲法の規定する国民主権をもって実質上の共和制だとする考えをとらない)。けれどもそれだけにとどまっていることはできない。近代天皇制は民衆の内面を規制する種々の意識形態を不可分に伴っており、その多くがこんにちも国家主義の諸相として生き延びている。たとえば、かつての大日本帝国憲法は天皇の神聖不可侵、つまり無答責を定めていた。法体系における国家無答責主義がそこから導かれた。現在でも国家がその行動についての責任を問われることを極度にきらうのは、国家無答責主義が内面に生き残っているからであろう。
また、一君万民ということばがあった。いまは使われないが、しかし数年前、例の「アジア女性基金」なるものが、国家の責任を国民の責任のなかに溶かしこみ、運動側にいたはずの人が国家に責任が及ばない範囲を権力に代って模索してやるのを見たとき、私たちはそこに明らかな国家・国民一体の思想を感じとった。反体制運動と国家とをつなぐひそかな思想的通路が、国家的な場で何らかの一致を見出すことへの期待感のなかにみえかくれしていた。
そして考えてみれば、戦後の民衆運動は、ともすれば、あれこれの政党や大きな大衆組織をつうじて自己の要求を実現する道に流れたのであるが、このときこれらの諸組織は、民衆運動を国家的な政治につなげていく役割を果たしてもいたのであった。民衆運動には国家を通じて自己を実現していく傾向がなかったとはいえないのである。
民衆運動は、一九四五年の敗戦時に、天皇の責任と国家の責任の追及を満足に行わなかったし、日本の植民地支配の処理に密接に関連して生じた朝鮮と台湾の血みどろの状況をよそに、一国的な範囲で解放と民主化の日々を過ごしていた。天皇制国家はその間に急いで衣替えをし、民主化の過程を自ら主導した。民主主義は本来、社会的政治的対立がその上で戦い抜かれる場なのであるが、国家は民主主義を、対立を含むはずのない、全国民が一致するに違いない規範価値として国民に与えることに専念した。戦後社会には、自生的な運動のなかから多様な価値意識、共同意識が発生していたのだが、国家は自分が設定する法規範にこれらを吸収することを、民衆運動に対する系統的闘争として、遠慮ない実力を行使しながら遂行したのである。天皇の超越性のイデオロギーは、こうした敗戦後の状況のなかで引きつがれ、国家の超越性のイデオロギーとして生き残ったのである。
■「国民的主権意識」の現実
つまり、新しく主権者になった国民は、外から作られた国民的共同性を疑わず、自分たちの社会的共同性の構築をなにか大なるものに、究極的には国家に預ける国民であった。たとえば相互扶助、共済ということは、どこの国でも(日本でも)自主的労働運動が生まれるときの重要な動機の一つであったが、こんにち日本にある大小の共済組合はいったいだれがどのように運営しているのであろうか。これに関心をもつ組合員は少ない。また、かつて民衆の大多数が高等教育に無縁だったころ、労働組合というものは労働者の自己教育の場としての働きをもっていたのである。現在までに教育の機会均等は格段に進んだが、その過程は同時に、民衆が自己の教育を学校に預け、学校のなかでは受動的な存在に化していく過程でもあった。
この主権者たちにとって、自分の頭の上に頼みもしないのに天皇が存在していることもまた不思議ではないのである。テッサ・モリス=鈴木氏は、国家体制を自分たちで決める権利という意識の欠如を現在の日本に見ているが、これはそのとおりであろう。共和主義の社会的基礎は、自分たちのことを自分たちの共同で決定し執行する権利の意識である。この点で民衆意識に欠落があるということである。戦後、国民が天皇から説明されるのでなく、逆に天皇が国民から説明されるのが憲法上のたてまえになった。これに国民は満足した。この点、社会主義諸派も同様であって、どの党派も自分たちが戦後天皇制と共存できるかを根本的に疑ったことはないのであろう。
■共和主義の政治的社会的内容
さて、共和制を打ち立てるとは天皇という国家制度上の地位を廃止することである。しかし、国家が「天皇制国家」であってそれ以外の国家でなかった近代日本(現代日本もその一部である)では、天皇制批判に国民国家のあれこれの側面への批判がついて来なければならない。天皇制反対には広い政治的社会的内容がある。
ヨーロッパ国家では、ごく単純化していえば、国から国王を消去すればあとに国民だけからなる国家、共和制が残ったのであろう。国王は貴族・豪族の最大なるもの、人民の外から来て人民を支配するものという、多分に「私」性を帯びた起源をもつのだからである。ところが近代日本の天皇は、もともとはやはり民衆の外の存在であった天皇が、「公」なるものを国民に対して独占する機能をはじめから帯びさせられて、国家の機構のなかに一個の機関として据えられたものである。その国家の「公」、国家に独占された規範価値によって、民衆は国民に「向上」させられた。
この国家から天皇を引きはがすとしよう。天皇は単なるかさぶたではなくて生身に食い込んでいるのだから、これをはがせば国家が傷だらけになるだろう。だから共和主義運動は単なる「別の国民国家」を求める運動ではない。共和制は、こんにち私たちを規制している国家の多くの働きと民衆内面の国家主義の崩壊を伴わずには実現しないであろう。逆に日本国民国家批判は共和主義を内面に欠くばあい不完全なものになろう。共和主義はただちに国家の否定ではないが、国家の廃絶を現在の社会生活のなかで提起したいと思う人がいるなら、その人はかならず共和主義を経由しなければならないであろう。
だから私は、私たちの人権と主権(政治的社会的決定権)を現実に侵害するもの(たとえば昨年来の有事立法体制模索への多くの企て、国民総背番号やら盗聴法やら日の丸君が代やら数知れぬ企ての一つ一つ、私たちの社会的共同をそこなう差別政策の一つ一つ)への鋭い反撃が、反天皇制運動の政治的社会的内容として含まれなければならないと思う。それらの運動は、いま国家体制が自分たちの頭ごしに決められることを当然と思う民衆の内面への批判と結びついたとき、共和主義運動の構成部分になる。この民衆内面の批判については、かつて中野重治がつぎのように述べたことがある。「自分で自分を処理すること、そこへ踏みこむことにためらいを感じること。無法な権威を『いただく』ことにかえって安心を覚えること。その権威が絶対的であるほどいっそう安心が大きいこと。自分で自分を処理する自由に逆に枷を感じること。一人の人間となること、完全な自己となること、一般に慣性と惰性とから自己を解放することを極度に恐れること。この日本人の日本人らしさにおける最大のかなしさ……」(「文学者の国民としての立場」一九四六年)。中野が見たものはいまも残っている。
共和主義運動は国家と国民意識の全局面にわたって課題をもつ重層的なものであらざるをえないのである。
(『反天皇制運動PUNCH!』1号、2000.11.14)
在日外国人の参政権をどう考えるのか
排外的な「国家意識」をふりまく人々に反論し、私たちの原則をもつために
木元茂夫●指紋カードをなくせ!一九九〇年協議会
■臨時国会で、審議はじまるか
今臨時国会に提出されている、永住外国人選挙権付与法案をめぐる動きがあわただしい。「今国会は見送りか」という観測記事が出たかと思えば、数日後には「審議開始か」という見出しが新聞に踊る。自民党では奥野誠亮がまたぞろ蠢いて「外国人参政権の慎重な取扱を要求する国会議員の会」なるものを発足させ、一〇月五日には「我々は、同法案については、憲法違反の可能性、在日外国人が有する祖国の兵役・参政権等、国益に関する数多くの義務や疑義があると考え」るから、「党選挙制度調査会において定期的、かつ継続的に議論、検討を行うこと、党内意見の集約の前に三党調整及び国会審議を行わないこと」との申入れを古賀誠自民党国会対策委員長に提出している。
参政権法案は昨年の臨時国会にも提出されたが、審議未了で廃案となった。この法案は「外国人登録原票の国籍の記載が国名によりされている者に限る」という条項を入れて、朝鮮籍者を参政権の対象から排除するというとんでもない法案であった。いま、国会に上程されている法案はこの条項を削除したものであるが、地方選挙権に限って、選挙権つまり投票の権利だけを認めるもので、被選挙権つまり立候補の権利は認めないという、限定的な参政権だけを認めようという法案でしかない。
それでも、右派メディアには、「参政権法案反対」の主張が目白押しである。
■在日外国人の現状
こうした人々の意見に反論する前に、在日外国人の現状を簡単に紹介しておきたい。一九九九年末の外国人登録人口は、一五五万六一一三人で過去最高を更新した。日本の人口の一・二三パーセントを占め、一〇〇人に一人以上が外国人というのが現状である。指紋押捺拒否闘争が燃え盛った一九八五年当時の八四万人から実に二倍近い増加ぶりである。しかし、今回の法案で選挙権付与の対象となっている永住者の数は、一九八四年の約六〇万三〇〇〇人(協定永住三五万人、一般永住二三万七〇〇〇人、法律一二六号関係一万六〇〇〇人)から、一九九九年の六三万五七一五人とさしたる増加を見せていない。外国人が増えれば、当然のこととして日本への永住を望む人々の数も増えていくのが自然であるが、そうはなっていない。何故か。ここに、今回の選挙権付与法案を考えるための、最大の問題が潜んでいるのである。
日本社会の国際化が叫ばれるようになってから一四年ぐらいが経過しただろうか。しかし、表面上の改善は数多くありながらも、日本は依然として外国人の永住を認めない、認めたくない国家のままであり続けている。かつての「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと自由」という露骨な差別発言こそ、公然と法務官僚の口からは聞かれなくなった。しかし、日本に長く在住している外国人なら誰でも申請できるはずの一般永住であるが、日本政府は容易に認めようとはしない。
一般永住の許可件数は、九三年には三八四八人であったが九七年にようやく一万一五八三人と一万人の大台にのった。一方、帰化許可の方は九三年に早くも一万四五二人となり、昨年には一万六一二〇人となった。この二つの数字の落差は何を意味するか。「日本に永住したいなら、外国人の立場を捨てて、日本国籍をとりなさい、日本国家に忠誠を誓いなさい」、日本政府は明言こそしないが、実際の法律の運用においてそう言っているのだ。法務省入国管理局の、いや、日本の入管行政の本質は、依然としてここにあるのだ。もっとも、日本人と外国人の違いを「一朝有事の時に鉄砲をもつかどうかだ」という確信的な発言は、法務官僚の口からは聞かれなくなった。外国人の増加と指紋押捺拒否闘争をはじめ在日外国人の人権の確立を求める運動は、彼らの確信を揺さぶっていることは確かである。
一九九九年末現在、永住者の数は六三万五七一五人、うち在日朝鮮人(韓国籍を含む)五四万六五五三人、中国人四万二二一二人、その他の外国人四万六九五〇人というのが現状である。
■在日外国人の参政権をどう考えるか
一五五万人を数えるにいたった在日外国人、これらの人々に参政権をあたえるのは、あまりにも当然のことではないだろうか。私はそう考える。永住者に限定せず、一〇年とか一定の期間を日本で過ごした人々には参政権をあたえるべきではないだろうか。
確かに、在日朝鮮人の中でも参政権となるといまでも意見は別れている。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)は参政権付与に反対の立場をとり続けている。それでも、日本社会の構成員であるこれらの人々に参政権をあたえ、その行使は個々の判断にゆだねるのが、日本のとるべき道であると私は考える。
おそらく、この問題でもっとも積極的な反対論を振りまいている櫻井よしこは「他国に例のない特別永住者制度という特典によって彼らは例えば、日本と韓国間をビザなしで自由に往来できる」と、繰返し主張している。しかし、これはとんでもない事実誤認である。特別永住者であろうと日本からの出国に際しては入管法の「再入国許可」を受けなければ、実際には出国できない。これを受けずに一度出国してしまえば、日本に再びもどって来る時は、新規入国の外国人として扱われるのである。指紋押捺拒否闘争がはじまって間もない八二年、法務省は「指紋拒否者には再入国を許可しない」という制裁措置を打ち出し、これによって多くの在日外国人が祖国への往来も含め、出入国の権利を奪われたことを、私は決して忘れない。九一年成立の入管特例法によって特別永住者という制度が設けられ、戦前から日本に在住する朝鮮人、中国人の在留の安定化がようやく図られたが、それでも、再入国許可を受けなければ出国できず、いざという時は退去強制の対象であるという法的地位はそのままである。
櫻井は言う。「約六四万人の永住外国人に基本的に国籍を付与する道を開いてはどうか。たとえば、一年ほどの期間中に、各々の在日の人々が日本の国籍を選択するか否かを決めればよい。日本国籍を選ばない人は、韓国籍なり北朝鮮籍のまま残ることも可能にする。その場合はしかし、「特別永住」という世界にも例のない特典はなくしていくのがフェアであると思う」(『諸君!』一一月号)。
「国籍付与の道を開け」という一方で、「特別永住をなくせ」というのは、私の知る限りはじめて登場した論法である。帰化許可の申請が年々増加しているのを見透かした上での論理であろう。かつての排除・追放一本槍の主張とは異なることに注目しておく必要がある。しかし、繰返しになるが、「特別永住」は世界に例のない特典などでは断じてないのである。それすらもなくせ、というのは在日外国人に日本への同化を迫るものである。櫻井の主張は、国民であれば優遇、外国人であれば権利は制限されて当たり前、という主張に他ならず、私たちがこの十数年をかけて切り開いてきた地平を、根底から否定しようとするものである。日本国籍をもっていようといまいと、日本社会で生活するものに、基本的な人権を保障するのは当たり前ではないか。特別永住者の置かれている現実をしってか、誤解しての発言なのか、彼女の真意は不明であるが、特別永住は決して「特典」ではなく、入管法上のひとつの「資格」でしかない。だから、私たちは昨年、外国人登録法の改定案が国会に上程された時、”「資格」から権利へ“というスローガンを掲げて、国会内外での活動に取り組んだのである。
「同時にこの参政権問題は日本という国家にとっては重大な意味をもつ。彼らが選挙権を持つことは、究極的には他国の政治家が日本の選挙権を有することにつながる。となると日本の国家の根幹が揺るがされる。人間の最後のよりどころが家族や愛する人の存在なのは自明である。しかし、それらを守る枠組みは国家である。そして国家はまぎれもなく国民のものであろう。外国人に参政権を与えようと主張する人々には国家観が欠落していないか」と櫻井は主張する。しかし、「究極的には他国の政治家が日本の選挙権を有することにつながる」というのは、どう読んでも論理の飛躍であろう。日本にいる外国人が選挙権をもったとしても、日本での自分たちの生活を改善したい、日本と自分たちの祖国との関係が良好であって欲しい、そう願って参政権を行使するのであって、そのどこがいけないのであろうか。いや、そうした人々が具体的に政治に参加することによって、日本は偏狭なナショナリズムから脱却していくための手がかりをつかめるのではないか。在日外国人=他国の政治家という論法は、あまりにも偏狭なナショナリズムと言うしかない。
戦後五五年を振り返ると、日本の在日外国人政策は「差別と迫害、同化か追放か」を基本としてきた。指紋押捺拒否闘争はそのありようを激しく揺さぶり、その根幹を揺るがしてきた。しかし、在日朝鮮人も三世から四世、五世が誕生する時代となり、日本社会に対する思いもさまざまになってきた。そういう時代だからこそ、私たち日本人が、在日外国人とどう向き合うのか、その議論に真摯に取り組み、原則を打ちたてることが、いままさに問われているのではないだろうか。在日外国人地方参政権付与法案をめぐる論議は、その重要な指標である。
(『反天皇制運動PUNCH!』1号、2000.11.14)
安保条約の秘密合意への〈怒り〉
「嘘つき」政府と私たち
天野恵一●反天皇制運動連絡会
那覇市長選の革新候補である堀川美智子の応援とカンパの呼びかけが一坪反戦地主会関東ブロックから発せられ、公示の日である11月5日に、私たち派兵チェックも参加している「沖縄の反基地闘争に連帯し、『有事立法』に反対する実行委員会」(新しい反安保実X)は、沖縄の運動に連帯する活動を持続している様々なグループとともに、銀座の数寄屋橋交差点前で、カンパの活動を、にぎやかにくりひろげた(残念ながら12日投票の選挙はギリギリのところで勝てなかった)。
『かけはし』(11月13日号)は、この日の活動について、「メディアの報道が急速に沖縄から遠ざかる中で多くの人びとは無関心だが、チラシを熱心に読む人や、踊りや歌やスピーチに注目する人びとも決して少なくはない」、とレポートしている。
確かに、沖縄の基地問題への一般的注目度は後退してしまっているといえるだろう。
「一坪反戦」の上原成信は、集約の時に、「私は街頭のビラまきは、自分たちが圧倒的少数派であることを知らされるので、どうも好きになれない」と正直に語っていた。
私も、ビラやリーフレットを受け取ってくれる人より、無視して通り過ぎる人の方がはるかに多い街頭行動に、いつも消耗感を持ち、嫌な気分を押さえ込むのに苦労している。それでも、機会があれば、街頭での情宣活動をつくりだすべく動き回っているのは、この日もそうであったが、突然に、カンパ箱の前に走りよって、お金(それも千円札やそれ以上の札)を投げ込んでくれる人が何人かは確実にいるからである。沖縄の人の場合が多いが、そうでない人も、もちろんいる。
あれこれ話しかけてくるわけではなく、その無造作な身ぶりが、思いがこもっていることを実感させるのである。そういう人との出会いは、私たちの集会(とデモ)だけでは、なかなか生まれないのだ。
しかし、それにしても、基地・安保条約体制の問題を、自分の日常の暮らしの内側に引き寄せて考える人が、本当に少なくなっていることを、街頭のビラまき活動の時は、しみじみ実感させられる。現実に進行している事態と、多くの人々の意識(感覚)とのギャップは、どうしたら、少しは埋められるのだろう。
吉川勇一は「最大の嘘つき、最高の恥知らずは雪印乳業か、三菱自動車か、はたまた誰なのか?」(『市民の意見30の会・東京ニュース』、10月1日号)で、『朝日新聞』(8月30日)の一面トップの「日米安保密約の全容解明」「核寄港は事前協議せず」「朝鮮有事での出撃も」「米国務省文書に明記」の見出しで、60年安保条約の時の日米政府の密約合意について、断定的に報じた記事についてふれつつ、以下のように論じている。
「日本の『国是』だとされてきた『持たず、つくらず、持ち込ませず』という非核三原則なるお題目も、まったく有名無実であったことも明らかである。(ついでに言っておけば、故佐藤栄作首相は、この非核三原則などの『功績』でノーベル平和賞を授与されたのだった)」。
これまで密約は存在しないと否定してきた政府や外務省の姿勢は、それでも変わらない。吉川は、「これは、嘘が暴露された時、ひたすら頭を机に擦り付けて謝る大企業幹部や警察幹部よりももっと破廉恥ではないか」と怒っている。さらに、彼は、このように語る。
「ついでに指摘すれば、マスコミの反応も正常ではない。今回の「朝日」の密約報道に応じたのは共産党の「赤旗新聞」だけで、それ以外の商業紙も朝日系列以外のテレビも、一切触れなかった。これが国内大企業の破廉恥な商行為事件だったら、仮にどこか一紙が特種で他紙に先んじて報じたにしても、他紙は決して無視せず、後追い記事を載せていたことだろう。だが、こと安保条約や核疑惑にかかわる事実のことになると、そういうことをしない。これは不思議なことだ。いや、当の「朝日」の姿勢だっておかしいといわねばならない。あれだけ大々的に日本の歴代政府が嘘をついていたのだと断定しておきながら、政府側がそれを否定したことに一向に反応を示さない」。
何百万という人々の命がかかった大問題への、政府の大嘘を、具体的に批判し続けたマス・メディアは確かに、なかった。核安保問題については、マス・メディアには、ある種のタブーが支配しているといえるだろう。
私はこの吉川の文章を読みながら、私たち自身の運動について、反省させられた。こうした大問題に、キチンと運動的に抗議することが、私たちにもできていない。政府は安保問題には、常に嘘をつき続けてきた、その嘘に馴れすぎてしまって、「ヤッパリ、そうなんだなー」という受け流しになってしまっているのだ。
正面からキチンと問題にし続ける姿勢こそ必要なはずである。無力感、それは、多くの人々をも支配している感情であろう。どのように抗議し、批判しようとも、いかんともしがたい、国家の権力者たちには、私たちの手は届かないのだ。アパシーだけでなく、少なからぬ人々は、こうした無力感から、私たちの街頭での呼びかけも、政府のつき続けている大きな嘘に対しても、背を向け続けているのだろう。そして、この無力感を組織しぬくことによって、あれだけインチキな政権も維持され続けているのだ。
そうだとすれば、運動までが、無力感にのみこまれてよいわけがない。まっとうに怒り、その怒りを運動化する姿勢を取りもどさなければならない。それが、とりあえず、どれだけ少数派の試みにすぎなくとも。
(『派兵チェック』 第98号、2000年11月15日)
【言葉の重力・無重力】(9)
「革新疲労からの脱却」という選挙スローガンについて――高良倉吉ほか著『沖縄イニシアティブ――沖縄発・知的戦略』を読む
太田昌国●ラテンアメリカ研究者
11月12日の那覇市長選挙の結果を知ったうえで、この文章を書き始めている。オーストリア・アルプスのケーブルカー火災事故報道の陰に追いやられて、マスメディアでの報道はまだ少なく、私が見たかぎりでは選挙結果を伝えるに留まっているものが多い。沖縄現地の声も分析の角度も知らないままに、現時点で多くを語ることのおこがましさは自覚している。でも敢えて最小限のことは言ってみる。周知のように、米国統治下の1968年以来8期32年間続いた那覇「革新」市政はこれで終わった。私の関心をひくのは、この選挙運動の際に、当選した保守系の翁長派が、「革新疲労からの脱却」というキャッチフレーズを掲げて、長期に及んだ革新市政を批判したというエピソードだ。「言い得て妙」とでも言うか、数年前の知事選に続けてまたしても電通あたりの知恵者が選挙運動の背後に控えていたのだろうか。
ソ連邦が崩壊した後、ロシア社会の中にあっては、旧共産党的なあり方にしがみつく者が「保守派」と名づけられ、「守旧派」とも呼ばれてきている(それが、的外れな表現だとは言えないところが、本来的に言えば【「本来的に言えば」には傍点が付く】、物悲しい)。日本でも例外ではない。誰もが気づいているように、たとえば従来の歴史教科書に異を唱える者たち(とりわけ学校教師)は、揺るぎないものとして制度化してきた(と、彼らが考えている)日教組主導の戦後教育体制に対する挑戦者として、自らを位置づけている。内容を問えば、そうでないことは明らかであるにもかかわらず、あたかも彼らは「正史」に対して「野史」を対置しているかのようにふるまうのだ。大声をあげ、背後の財力もちらつかせながらの、自信をもったその立ち居振舞いによって、彼らはいまや不動の秩序に対する叛逆者としての社会的な認知を受けてさえいるかのようだ[「ディープな沖縄が見えるマガジン〈エッジ〉」の異名を持つ沖縄の雑誌『EDGE』11号に掲載されている小熊英二の講演録「起源と歴史――
55年と社会の変動」は、その事情をわかりやすく語っている。特に現在の韓国において、「日本統治時代は暗黒で、独立後自国の力だけで近代化した」という、旧来の正統的な歴史観に対すると、日本による植民地統治時代に近代化は進んだとする若手の研究者の主張が「革新的」に見えてしまう点に触れている。世界中でこのような、歴史認識上の「逆転現象」が起こっているのであろう]。
今回の那覇市長選挙に当っては、11月14日付けの共産党機関紙『しんぶん赤旗』が言うように、企業ぐるみの大量の不在者投票も行なわれたかもしれない、創価学会も懸命な活動を展開しただろう、「謀略」ビラも確かに撒かれたのだろう。だが、革新派候補敗北の原因をそこにしか求めないのは、ちがうだろう。「革新疲労からの脱却」というキャッチフレーズが、那覇市民に対して持ち得たらしいアピール力を侮るべきではないと思う。そのような言葉遣いが、人びとのこころに新鮮に響いてしまう点にこそ、2000年段階における、沖縄の、ヤマトの、広くは世界の社会的・政治的・文化的な状況の本質を見るべきだと思う。
先の講演で小熊も触れているが、今春「沖縄イニシアティブ」論を発表した琉球大学三人組のなかで沖縄の歴史の捉え方に関してもっとも積極的な発言を行なっているのは高良倉吉だが、そのふるまい方、自己の位置づけ方にも、同じことが言えるように思える。彼は、戦後の沖縄革新派が展開してきた「沖縄のこころ」「命どぅ宝」「非武の文化」「非戦の誓い」「イチャリバチョーデー(出会う者はすべて兄弟)」などの言葉に基づく絶対平和論・沖縄精神文化論が、仮に学校現場の歴史教育のなかで教師によって実践された場合に、「教え込まれる」対象としての子ども・生徒・学生には、唯一無二の「正しい答」しか残されてこなかった点を衝く。正統的な歴史観のなかでは否定的にのみ語られてきた「基地被害」「異民族統治」などに関しても、「地域感情」にのみ依拠しない普遍性の場での再検討を呼びかけたり、必ずしも暗黒面ばかりではなかったとして相対化しようとする。この立場は、制度化された「絶対平和論」や「精神的な沖縄アイデンティティ論」に、他の選択肢が許されない息苦しさを感じていたかもしれない新しい世代に受容されていく根拠を、時代状況の変化のなかで確保するに至ったように思える。私が高良らの歴史観とは相容れない立場にあることは自明にしても、「革新派」の歴史認識の方法のなかに、彼らの居直りを許す一面があったことを否定することはむずかしい。「革新疲労からの脱却」という選挙キャッチフレーズがもち得たかもしれない「威力」に私がこだわるのは、その捉え方からきている。
高良らは最近、『沖縄イニシアティブ――沖縄発・知的戦略』と題する本をまとめた(ひるぎ社、那覇、2000年9月刊)。今年3月の「沖縄イニシアティブ」発表後、彼らは一方的な批判・中傷・個人攻撃にさらされてきたので、「開かれた議論の場を提供するために」反批判を行なうことを意図したという。「イニシアティブ」論は総決起大会や人間の鎖による基地包囲などと同等の、基地問題の解決のための一方法であるとする強弁や、安保条約と沖縄基地の存在を前提として疑わないまま「共産」中国と北朝鮮の軍事的脅威を言いつのるなどの、自らを顧みることなく現行秩序に安住する姿勢はいっそう目立つ。これらに対する徹底的な批判が必要だという私の思いは変わらない。しかし、私が敢えてこの本を読むのは、その彼らの言動からでさえ、私たち自身が、「疲労した」革新思想・平和思想を糺すべき場所に気づくことがあるからである。
(『派兵チェック』 第98号、2000年11月15日)
【反天運動月報】(1)
「日の丸」と明文改憲
――運動の方向をめぐって
天野恵一●反天皇制運動連絡会
一〇月二八日は、私たち「反天連」のメンバーも事務局を担っている「『日の丸・君が代』強制反対の意思表示の会」の集会。この集まりは、私の希望もあって、T部にドキュメンタリー映画「ゆんたんざ沖縄」(一九八七年・シグロ作品・西山正啓監督)の上映と知花昌一の講演というプログラム(U部は、自分の準備してきた文章を読み、短くコメントする「リード・イン スピーク・アウト」)。この日の主催者発言でもふれたが、「日の丸・君が代」の国旗・国歌化をテコにさらに強制が拡大してくるこのプロセスで、私は「日の丸」を掲げた右翼暴力団に二人の演出家が殺された(撮影スタートの時点〈佐藤満夫〉と、バトンタッチして映画を完成させた直後〈山岡強一〉)ドキュメンタリー「山谷―やられたらやりかえせ」と「ゆんたんざ沖縄」を見なおしてみたいと、しきりに考えた。
天皇の世を永遠に、などという「君が代」反対は当然だが、「日の丸」はいろいろなスポーツ大会などを通して定着してしまっているから……、という声が、強制反対の運動の中ですら少なくない状況に、私はいらだち、「日の丸」の暴力性をこそ、あらためて確認し直したかったからである。
「山谷」は、すでに上映した。今度は「ゆんたんざ沖縄」の番だ。この映画は、一九八七年の海邦国体のソフトボール会場になった読谷で、「日の丸」掲揚強制に抗議し、引き下ろして焼きすてた知花昌一の裁判支援のために私たちが動きだした時、私も見ている。そもそもこの映画を製作したシグロの人々が救援活動のスタートの時点で、かなり運動を支えてくれたのであり、この日、知花自身も語っていたが、この映画が、彼がそういう抗議行動にいたる背景を、なによりも雄弁に語っているドキュメンタリーであったので、救援の動きとともに上映活動も展開されたのである。
映画を見なおして、東京の私たちの救援会の名称が「『チビチリガマ世代を結ぶ平和の像』破壊に抗議し考える会」であったことをあらためて思い出した。
右翼の、知花の経営するスーパーマーケットへの襲撃、そして、チビチリガマの入口に、「集団自決」を強制された人々の遺族の人々がともにつくった「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」の破壊の直後に、私たちは、この会をつくったのである。忘れようとして忘れられない悲惨の記憶にやっと立ち向かい、個々の遺族の人々にとっては墓という気持ちでつくられた「平和の像」。フィルムには、涙を流しながら像づくりに参加する遺族の人たちが映し出されていた。
彼らは像を破壊し、大きな鋭いモリをそこにつきたてたのである。そして、そのモリには「日の丸」の旗がまきつけられていたのだ。ビラに残された文章は「日の丸燃ヤス村ニ、平和ハ早イ。天誅下ス」であった。
あんな思いでつくった像が、破壊されたんだなあ、ということをあらためて思い出した。
チビチリガマの調査を知花昌一や遺族の人々とともに実現した下嶋哲朗(彼とも、救援活動のスタートの時に私は、はじめて出会った)は、このように書いている。
「『なんてひどいことを……』/遺族たちは絶句した。『チビチリガマ、世代を結ぶ平和の像』が、何者かによって木端みじんに打ち砕かれた。/除幕式(一九八七年四月二日)からわずか七カ月後のことだった。がれきの山と化した像の無惨な姿を見て、遺族の一人比嘉平信さんは、/『死者は、二度殺された』/とうめいた」(『生き残る―沖縄・チビチリガマの戦争』昌文社・一九九一年)。
追いつめられた肉親らによって「自殺」を強いられて死んだ人々を、もう一度殺した旗こそが、「日の丸」であったのだ。
一一月九日は、「反天連」も参加している「沖縄の反基地闘争に連帯し、『有事立法』に反対する実行委員会」(新しい反安保実行委X)の本格的スタートの集まり。「STOP! 改憲・市民ネットワーク」の高田健が問題提起。明文改憲の動きと、どのように闘う反戦運動が目指されるべきかを討論。司会役でもあった私は、反天皇制運動の主体として、もっぱら発言。九条(平和主義)の明文改憲をねらう政府の改憲に反対するという共通の土俵の上で、象徴天皇制(憲法第一章)を自由に批判し続ける運動であれば、よいのではと主張。政府の「改憲」にわれわれの「改憲」を、などというスタイルは運動を混乱させるだけであるから取るべきでないと思うが、私たちが象徴天皇制(憲法第一章)の批判をダウンさせるようなことがあってはならないことも、また明らかであると思ったからである。この場では、まったく対立的な討論にはならなかったが、「許すな!憲法改悪・市民連絡会」発行の「憲法調査会のねらうもの」という「QアンドA」のパンフの「天皇制をめぐって」のところには、こうある。
「ただ、各種世論調査を見ましても、今、天皇制廃止論者の割合は非常に少ないことはまちがいありません。日本は共和国になるべきだと考えている人も、残念ながら、自分の目の黒いうちにそれが実現することはないと思っているのではないでしょうか」。「天皇制の廃止という議論が通る客観的な条件は絶望的に少ないのが現実です」。「今はともかく、これ以上、天皇制を強化させないように全力を注ぐことです」。
かなり、ガックリくる主張である。強化させないためにも象徴天皇制拒否の主張と運動が常に持続させられなければならないのではないのか。いったい「護憲」というスタイルで、結果的にであれ象徴天皇制を肯定してしまうかのような戦後革新の運動が、天皇制をめぐる今日のような状況をつくりだしてしまったことに対する歴史的反省はないのであろうか。
植民地支配・侵略戦争の最高責任者(制度)を延命させたままの腐った「平和主義」と私たちの非武装国家を目指す平和主義(九条をそう読む)とが同じであっていいのか。
「日の丸」を掲げた戦争国家への道が、あらためてつくりだされつつある今、天皇・「日の丸・君が代」と戦争を拒否する、平和という内実を持った、政府による明文改憲に反対する運動をこそ、私たちは力強くつくりだしていかなければなるまい。支配者のつくりだした最大のタブーに挑むことを避け、奴らの明文改憲の阻止などできようはずがないではないか。
(『反天皇制運動PUNCH!』1号、2000.11.14)
【書評】
ダグラス・ラミス著
『憲法と戦争』(晶文社)
『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(平凡社)
武藤一羊●ピープルズ・プラン研究所
大学教師をやめて沖縄に移り住み、フリー・ライターになったダグラス・ラミスが立て続けに二冊、本を出した。『憲法と戦争』(晶文社)と『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(平凡社)である。二冊とも寄贈を受けたが、極端に筆無精の私が、今回はお礼状を出して、いま本当に必要な本だと思う、だれかれなく薦めるつもり、と書いた。この通信の読者もこの二冊を読んだら、書棚に戻さずに、だれか(とくに学生の年代の人たちに)にさりげなく回して欲しいと思う。
『憲法と戦争』はラミスがこれまでよく論じてきた憲法九条問題、新ガイドラインなど戦争と平和に関わる問題を扱っているので、ラミスの話をきいたことのある人々にはなじみのある議論でできている。だがもう一冊の方は『経済成長……』というタイトルだ。これはちょっと意外かもしれない。ラミスは「では、なぜこのタイトルか?」で、自答している。「この本は経済発展だけではなく、戦争と平和、安全保障、日本国憲法、環境危機、民主主義などさまざまなテーマを取り上げている。……そうであるなら『経済成長……』というタイトルは狭すぎるようにも思える。しかし、『経済は発展しなければならない』という考え方……の歴史を振り返ってみると、それこそが、私たちの目を本当の現実からそらせた『現実離れ現実主義』の張本人であることが分かる」。
二冊の本を通してラミスが訴えようとしているのは、この「現実離れ現実主義」、あるいは「非常識の常識主義」の呪文を無力にすることである。冷戦が終わったのに、戦争参加がすさまじい勢いで準備されている。「ところがそれに対して何か徹底的な解決を探そうとすることは、なぜか非常識、非現実主義とされる」。「プラスティックごみと燃えるごみ、ビンやカンを分けるという程度のことは定着して、みんな、それを熱心にやっているけれども、この競争的で破壊的な消費文化を根本的に変えようではないかという話になると、それは非常識であると言われる」。ラミスはこの状況を「タイタニック」の比喩で、描き出す。(この比喩はちょっと陳腐すぎると思うけれど)。船上ではみな日常業務を忙しくこなして、それをやり続ける人が「現実主義者」である。誰かが「エンジンを止めろ」と言い出したらそれは、非常識、非現実主義的になる。前に進むようにできているタイタニックで、「エンジンを止める」と言われたら、どうすればいいかわからなくなる。ラミスはそれを「タイタニック現実主義」と呼ぶ。
『憲法と戦争』の方で、珍しく天皇制を論じる章があるが、その中でラミスは、政治思想史の意味は「政治的に考えること、また政治的に考える能力を教えること」だと言う。自国の「政治環境が、普遍的な、永遠に続くものではなくて……人間が活動していろいろな選択をしてこれをつくった」こと、「人間の力で変えようと思えば変えられるものだという意識が重要」だと言う。
「経済発展=成長」の論理は宿命的に見えるけれど、そうではなくて、「対抗発展」の方向へ政治的に解決できると言う。しかしそのためには、「タイタニック」的常識・現実主義をひっくり返すことが必要だ。自由市場や経済のグローバル化が鉄の規則みたいに自己貫徹していくなかで、それが「常識」となり、「オルタナティヴはない」(TINA)という敗北感が広がった。一年前シアトルのWTO閣僚会議が、デモの力で流会させられたとき、バンダナ・シヴァは「グローバル化とはどんな犠牲を払っても受け入れるほかない不可避的現象などではなくて、政治的企てにほかならない、だからそれには政治的に対抗できる」ことをこの闘いは示したと総括した。ラミスの「政治的解決」は現実に対応物を持っているのだ。そしてラミスは、経済から環境、また戦争と平和の課題の解決を、ラディカル・デモクラシーの展望の中に統合する。
ともかくこの二冊は近年のラミスの論の集大成と言える。限界を言い出せばきりがないが、必要なときに出された必要な本、運動圏を越えた広い範囲で議論を刺激するのに役に立つ本である、とはっきり言える。『経済成長……』の本は「しゃべり下ろし」で作ったという。つまりラミスの日本語での語りを整理、編集したものだ。それもあって、読みやすく、とっつきやすい。それでいて程度を下げていない。ラミスのものに続いて、そういう本が続々書かれ、出されることが必要なことを痛感する。
(『反天皇制運動PUNCH!』1号、2000.11.14)
「現実主義」の非現実主義を暴く現実主義の大逆襲
C・ダグラス・ラミス著『憲法と戦争』〔晶文社/2000年/1800円+税〕
舟越耿一●長崎ピース・バス
私は『ラディカルな日本国憲法』以来のラミスファン。憲法の主語が、We, Japanese
people であり、前文に people が10個あり、九条の主語も the Japanese people であること、そしてその対立語が
nation, government, state であり、この構図の中に民主主義の基本があり、ここに日本国憲法の卓抜さがあることを学んだ。このたび『憲法と戦争』が出て、1カ月後に『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』が出た。前者は既発表論文を集めたものであり、後者は「しゃべり下ろし」。本稿は前者の書評。以下収録論文はゴチック体で示す。[以下、【】で囲む]
ガイドライン関連法が成立する前、ラミスは言っていた。「交戦権を持っている自衛隊が、一回実現すれば、第九条の最後の砦がなくなったことを意味する。第九条の死文化が完全に完成する。私がこれまでしつこく繰り返してきた、誇りをもっていいという第九条の話がこれでできなくなる。」【人を殺せる自衛隊】。そして関連法が成立した今、ラミスはどう考えているのか。
二つの観点が示されている。一つは【憲法第九条は死んだか】という発問への回答。「たいへん滑稽なジョーク」である「二つの九条」すなわち憲法第九条(旧九条)と周辺事態法第九条(新九条)のせめぎあいが焦点だと言う。旧九条は政府に対する国民の命令であり、新九条は政府から国民に対する命令。これからの運動は新九条の命令に従うか否かが中心テーマになる。それは抵抗運動だ。「そしてかなり逆説的に、新九条による戦争動員の可能性は、憲法を、戦争直後の世代によっての憲法、つまり、国民の決断としての憲法、と同じ形に復活させるきっかけを与えてくれたのだ。」つまり、政府の政策としての憲法第九条は完全に死んだが、国民の決心としてのそれも死んでいるとは限らない。「そこでも憲法九条は死んでいるかどうかは『新九条』によって試されるだろう。」と言う。
もう一つは、「憲法改正」が政治の焦点になりつつあるが、それは「なんとなく平和」から「なんとなく戦争」への過渡期であり、ホントに軍隊を公認して戦争をするのかということを議論する「戦争・平和論から考えればとても興味深い時期」だという認識。軍隊は持たないという条文を軍隊を持つという条文に変える訳だから、「これからの日本の議論、もしちゃんとした議論になれば、軍隊の本質を明確にする歴史的なチャンスなのではないか」とラミスは考えている。【憲法改正はタブーだったか】。
ラミスの議論の強みはどこにあるのか。本稿の限りで言えば、軍隊経験があることと戦争国家アメリカとの対比だと思う。本書でも海兵隊の基礎訓練のようすが語られているが、「殺せる人間をつくるための訓練」をいろいろ工夫する。ひとつは女性の権威を否定する。「お母さんのところへ帰るか」とか、「どうした、お前は女か」とか言ってバカにする。戦争と女性に対する暴力が深いところで繋がっていることが示される。あるいは、木の枝を引っぱって、これを持っていろと3、4時間放っておく、また二つのことを同時にしろと不可能な命令を出す。要するに、自分の理性を殺し、「考えないで言われたとおりにする人間」をつくろうとする。ラミスはこれらの経験に基づいて語るのだからすこぶる説得力があってわかりやすい。「なんとなく平和」の中で生きてきた人間にはできない話。
【自衛隊はカンボジアに何をしに行ったか】では、「日本国憲法をひそかに葬ろうという国連の戦略」を語っている。怖いホントの話。【誰が監視を監視するか】では、旧ユーゴスラヴィア国際刑事法廷や国際刑事裁判所の機能に根本的な疑問を提起する。それは「貧乏人の戦争犯罪の正当性を否定して、富める人の戦争犯罪を再肯定する運動」なのだ。超大国は裁かず小国のみを裁くアンフェア。政治思想史研究者としての硬派の論文である【暴力国家】では、社会契約にもとづく近代国家という「政治的現実主義」の実際の帰結、すなわち自国民を殺す国家の現実を明らかにして、「国家の邪悪な契約」を見えなくさせた近代国家論の再編を提起する。【正戦論】では、正戦論に説得力を持たせている功利主義と現実主義に疑問があることを示し、その根本的問い直しを提案する。【イラクで考えたこと】も【意見書「天皇制・君が代について」】もおもしろい。空中戦ではなく現実主義に徹する思考の明解さがある。
この夏、ピースウィークの講演で長崎に来てもらった。チラッと見たら講演のレジュメは英語だった。英語を見ながら日本語で話をする。ここにもラミスの講演のキレの良さ、日本語の卓抜さ、明晰さの秘密があると思った。女性達に囲まれてプライバシーを聞き出されるラミスが少しかわいそうだった。
(『派兵チェック』 第98号、2000年11月15日)
天皇制とジェンダーの視点から日本の加害性をあばく――しかし、「正義」がうまくつたわるか……
池田恵理子・大越愛子責任編集『加害の精神構造と戦後責任』〔緑風出版/2000年/2800円+税〕
伊藤公雄●男性学
こんな読み方をしたのははじめてだ。ぼくは、本書を、逆から読んだ。最終章の大越論文から、最初の藤原論文へと、本の構成と逆に読み進めたのだ。たぶん、本書を読むにあたっての僕の関心が、ジェンダー問題から天皇制へ、さらに、加害責任の問題へと、順を追う形で強かったためだろうと思う。
結果的には、この読み方が、ぼくにはピッタリきた。というのも、たぶん藤原論文から読み始めたら、最初から息継ぎをしたくなっただろうから。藤原氏の論文は、確かに要領よく、近代日本の天皇の軍隊の特色をまとめている。しかし、その方向性が「(日本の)軍隊が著しく人権感覚を欠如していたこと、その中でアジアの諸民族にたいする差別意識が意図的に養われたこと」という視点で提示されてしまうと、ちょっとうんざりしてしまうのだ。
藤原氏の主張は、それはまったくその通りであるし、何度でも繰り返し明らかにされなければならないテーマであるのははっきりしている。しかし、正直いって、すでにこうした本を何冊か読んできた読者は(特に若い読者であればあるほど)入口のところで、身を引いてしまうのではないか。そして、こうした教科書的な物言いに、身を引いてしまう若者たちを、小林よしのり氏たちは、巧みに組織していることも、考えておく必要があるだろう。保守派による「戦争」「国家」をめぐる反動(というより新たなナショナリズム形成)に対抗するためには、おそらく、何を、どう語るかが、大きくかかわってくると思う。
こう書くと、本書が、ゴーマニズムのいうところの「純粋真っすぐ正義君」タイプの本(繰り返しになるかもしれないが、「真っすぐ正義」が悪いといっているわけではない。「正義」をどう伝えるかということを問題にしたいのだ)かといえば、そんなことはないのだ。実は藤原論文(確かに、藤原氏は、この領域のもっとも優れた研究者の一人であるのは誰の目にも明らかである。また、この論文が全体を概括するために必要不可欠なものであるのも理解できる。でも、しつこくなるが、冒頭ではなく、もう少しうまく配置できなかっただろうか)も含めて、本書は、戦争責任、特に、加害者としての日本・日本人をめぐって、これまでにない、新たな、しかも本質をついた視点をクリアに提起している刺激的な論文集なのである。
本書の共通したテーマは、「なぜ、日本軍は残虐行為に走ったのか」である。そして、本書は、この問題を、将兵の内側からえぐり出すことで、「あの戦争」における日本・日本人の加害者性を、徹底的に、またさまざまな角度から描き出すことに成功している。そこには、はっきりした共有された(政治的といっていい)視点が存在しているのだ。ひとつは、現在の日本社会の「戦争論」が、意識的・無意識的に「黙過」してきた天皇・天皇制を真っ正面から問題にしている点。そして、もうひとつは、これまでの男性主導の歴史・社会観において、明らかにネグレクトされてきた(あるいは「自明のこと」として問題にされてこなかった)ジェンダーの視点から、〈男らしさ〉の呪縛と、それによって生み出された男性たちの性支配・性暴力という問題を、はっきりと突き出している点である。本書を貫いているこうした視座は、これまでの「戦争論」を、あきらかにひとつ越えた、しかも、説得力のある議論になっている。
と同時に、この問題を、「客観性」を装って、「ひとごと」のように語るという書き方を、はっきりと拒否しているのも本書の特徴だろう。被害者の体験や思いを、内部から共有しようとし、ときには加害者の体験・思いに迫りつつ、戦時の残虐行為の何がどう問題だったのか、さらに、戦後の責任がなぜ問題視されなかったのかが、迫力をもって議論されているのだ。
最後にいわずもがなの一言。本書で、多くの論者が、上野千鶴子氏に批判的に言及している。確かに、「鋭い切り口」を意識し、ある意味で、理論的な「新奇さ」(面白さ)を追求することで多くの読者をつかんできた上野氏の議論が、ともすれば、「図式的」な問題提示の「鮮やかさ」ゆえに、逆に、「それならあなたはどうするんだ」という、現場で活動している人々の声が届かないというもどかしさが生じる思いも理解できる。特に、「戦時性奴隷」として人間性を奪われ、戦後もまた、重いトラウマのなかを生きた女性たちの声、思いが、生身の体験から距離を感じさせる「図式」や「言葉」でまとめられてしまうという印象へのいらだちも、(本書を読んだからこそ、さらにいっそう)、感得できる。
それにしても、上野氏を、「ダメ」として頭から拒否してしまっている印象が本書にはある。むしろ、上野氏の議論(の仕方を含めて)を、内側から批判的に解剖して対話するという作業も必要ではないか。それは、「正義」をどう伝えるかということと重なる課題のように思うからだ。
(『派兵チェック』 第98号、2000年11月15日)