2001.1.20  No.36

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目 次




【「共和主義」論議】(2)

帽子のとり方をめぐる考察(杉村昌昭)

【言葉の重力・無重力】(11)

いまなお大国の「ミーイズム」に自足する映像表現−−ロジャー・ドナルドソン監督、ケビン・コスナー主演『13デイズ』を観る (太田昌国)

【議論と論考】

日本の運動に可能性と課題を提示した女性国際戦犯法廷
(鈴木裕子)―インタビュアー:桜井大子

責任を問うこととはなにか?
―加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣『天皇の戦争責任』を読んで(彦坂諦)

沖縄で、また米兵「わいせつ」事件−「海兵隊を含む兵力の削減」県議会決議へ (天野恵一)

【反天運動月報】(3)

「女性国際戦犯法廷」と「右翼」の脅迫―「民衆法廷」の「権威」をめぐって(天野恵一)

【書評】

太田昌国著『「ゲバラを脱神話化する」』/『日本ナショナリズム解体新書 発言1996-2000』(田浪亜央江)

J.F.フォルジュ著『21世紀の子供たちに、アウシュヴィッツをいかに教えるか?』(高橋優子)





















【「共和主義」論議】(2)

帽子のとり方をめぐる考察
杉村昌昭●龍谷大学教員

 日本にかぎっていうと君主制と共和制は反対語ではない。げんにいまの日本は君主制でありながら共和制でもあるといった両者共存の趣を呈している。権力が唯一者の手に握られていなくて、国民によって選ばれた国家の首長が世襲制ではない国家体制、というのが共和制の定義である。そうすると、天皇という存在を制度上(肉体的に抹殺しなくても)抹消しさえすれば、いまの日本はほぼ共和制ということになるだろう。憲法的にいうと、一条から八条までを抹消して、かわりに「日本は主権在民にもとづく共和国である」とでもしたら、それですむはずの話である。
 しかし、誰もそんなことをいいださない。とうの昔から天皇制を容認している議会野党はむろんのこと、一般市民や天皇制反対運動をしている者のなかからもそんな提言はなされたことがない。これはひとつには、日本の左翼政党や市民運動が「護憲」を旗印にしてきたために、「改憲論」が一貫して権力の座にある右派の手に握られていたからである。現状を踏まえて制度論としていうなら、「改憲論」を右派の手から奪回して、天皇制廃絶運動を独自の「改憲運動」として展開すること、これがとりあえず日本をあたりまえの共和制に変えていくための必須の条件ではないだろうか。
 しかし、ことは単に制度の問題ではない。戦前天皇制は国家機構から国民生活のすみずみにいたるまで、いわば日本人の足の爪先にまで浸透した全身体的な帝政であった。それに対して、戦後天皇制はいってみれば頭にかぶる帽子に似た機能を果たしているにすぎない。しかし、この帽子は、国家の頭のみならず、全国民の頭にも例外なくのっかっている。そこがくせものである。しかも、それは国家機構の機能のなかに深く食い込んだ帽子であるばかりでなく、国民ひとりひとりの頭の中にも深く食い込んだ帽子である。したがって、意識もこの帽子によって深くからめとられている。生理―物理学的にほとんど身体の一部と化したこの帽子のために、日本人は自分の頭でものを考えることができない。何を考えるときにも帽子まかせなのである。いまだかつてこの帽子を脱いだこともないので、頭のなかは風通しの悪いことこのうえなく、おできや湿疹だらけで完全に機能不全に陥っている。しかも、大半は帽子と自分の頭を取り違えていて、帽子をかぶっているとすら気づいていない。帽子を自分の頭だと思っている。戦後天皇制のもつ隠微な「国民制圧力」はここに由来する。
 では、どうやって、みんなで帽子をぬぐための「国民運動」を開始するのか。これは私にもよくわからないが、とりあえずは、ひとりひとりが好むと好まざるとにかかわらず帽子をかぶっているという現実を認識することが肝要であろう。なぜなら、天皇制なるものが日本人ひとりひとりに押し被せた帽子の作用は、人によってその現れ方が千差万別だからである。まずは、自分がどんな帽子をかぶっているか、また他人がどういう帽子をかぶっているか、ということを相互に認識しあっていくなかから、自力では除去がなかなかむずかしいこの帽子を協同的に取り払っていく方法を模索していかねばならないだろう。その方法をさがすのに、分厚いコートを脱がせるための北風と太陽の寓話を想起してみてもいいかもしれない。ただし、互いが互いにとって北風であったり太陽であったりしながらも、めいめいが分厚いコートよりも深く身体に食い込んだ「宮内庁御用達」の帽子をかぶっているのだという認識を決して手放さないことが大切であろう。

(『反天皇制運動PUNCH!』3号、2001.1.16)














【言葉の重力・無重力】(11)

いまなお大国の「ミーイズム」に自足する映像表現
ロジャー・ドナルドソン監督、ケビン・コスナー主演『13デイズ』を観る

太田昌国●ラテンアメリカ研究者

 「今世紀最悪・最大の危機に立ち向かう3人の男達の姿を圧倒的スケールと緊迫感で描いた大型サスペンス・ドラマ」「総製作費8000万ドル」「ハリウッドが初めて迫るキューバ危機の真実とは?」など、おどろおどろしい宣伝文句が踊るハリウッド映画『13デイズ』を観た。ボリビア・ウカマウ映画集団の友人たちの低予算での映画作りを知っている身からすれば、ことを経費の多寡の問題だけに絞って言えば8000万ドルあればいったい何十本、否、何百本の作品を作れるものか、と思ったりする。そして両者の作品を観て、結局かけることのできる金高によって作品の質が決まるわけではないんだよな、という至極当たり前の結論に至る。
 さて、ここで問うべきは『13デイズ』である。テーマは1962年10月の「キューバ危機」。他に「核ミサイル危機」とか、(キューバでは)「10月危機」という呼称もある。同月16日、米国はソ連がキューバに核ミサイルを持ち込んだことを空中偵察機の査察で察知した。時は東西冷戦の真っ只中、首都ワシントンをも射程範囲におく兵器である。米国からすれば、キューバ空爆か、侵攻か、ソ連船のキューバ接近を阻止する海上封鎖かとの議論が高まる。一触即発、核戦争の脅威であることは誰にでもわかる。これが、米ソ首脳の駆け引きによって、ソ連がキューバから核ミサイルを撤去し、(水面下の密約で)米国もトルコからNATO軍のミサイルを撤去するという合意に達し、13日目にして辛うじて核戦争の危機が避けられたという実話に基づく物語である。したがって、本来ならば物語の当事者は少なく見ても、三者いる。米国、ソ連、キューバである。核戦争の脅威にさらされたことを思えば、世界全体が当事者であった、と言えないこともない。だが映画は、米国の3人の若い政治的指導者たちの動向に焦点を当てる。ケネディ大統領、弟のロバート・ケネディ司法長官、ケネス・オドネル大統領特別補佐官である。複数の当事者の一部のみを主人公にして物語構成を行なうことが、すぐれた作品を作り上げるうえで絶対的にマイナスだ、とはアプリオリには言えない。その少数の主人公たちが、複数の視線、すなわち他者存在にさらされて描かれているならば、事態の全体像に迫ることが絶対不可能だとは言えないからだ。
 だが、『13デイズ』は、いかにもハリウッド映画らしく、その方法をあらかじめ放棄した。彼らにとっては常に世界の中心に位置しなければならない米国が、過去の任意の時代にあって、政治的・軍事的な観点から見て、いかに正しい諸決定を下したか、しかも「キューバ危機」の場合には、あの「栄光の、かつ悲劇の」ケネディ兄弟と影の補佐官から成るトロイカ体制が、打開策の模索に苦悩しつつもいかに沈着冷静に事態を判断し、強硬な好戦派軍部を抑えて和平に達したかを描いておけば、よかった。他者も確かに登場する。それは、国連総会で米国代表スチーブンソンと渡り合うソ連代表ゾーリンであり、ロバートと秘密裏に接触する駐米ソ連大使ドブルイニンであり、フルシチョフの密使として米国ジャーナリストに近づくソ連スパイである。それらは、米国の3人の主役+αを引き立てる範囲においてしか描かれていないことは言うまでもない。
 目立つのは、キューバの徹底した不在である。確かに、フィリピンの広大なオープンセットに再築されたというソ連のミサイル基地は写る。基地建設に従事するキューバ人とソ連人の姿も写る。キューバ偵察飛行を行なう米国U2型機を撃墜するソ連軍のミサイルも写る。8000万ドルの経費のかなりの部分が消費されたシーンなのだろう。だが、それ以上ではない。キューバは「人格」としては描かれておらず、3人の男たちが苦悩し決断するための点景であればよい。このスタイルは、時代的前後の諸条件からも同時代の客観的な諸条件からも切り離して、しかも虚構の人物を作り出してまで東条英機の「孤独なたたかい」を描いた伊藤俊也の映画『プライド』の方法に酷似している。
 1959年1月のキューバ革命の勝利から1962年10月の核ミサイル危機に至る前史を知る者は、ケビン・コスナーらが演じる米国の最高指導者たちが深刻な顔つきをして演技すればするほど、荘重さを演出したいらしい映画音楽がその音を高めれば高めるほど、わらいがこみあげてくるのを抑えることはできない。前大統領アイゼンハワーが退任し、ケネディが大統領に就任したのは1961年1月だった。アイゼンハワーは退任直前にキューバとの外交関係を断絶している。そしてケネディが就任後2日目にして政府として公式にカストロ体制打倒の計画に没頭していることは、その後開示された米国政府文書が明らかにしている。U2機による偵察飛行の継続、米国が支援するキューバ侵攻計画の軍事的再検討、前政権時代に開始されたCIAによるいくつもの作戦の続行などである(そのなかには、マフィアを使ってのカストロ毒殺計画もあった)。きわめつきは1961年4月のキューバ侵攻作戦だった。キューバ空軍の標識をつけた CIA機がキューバ各地の飛行場を空襲し、同時に反革命軍の侵攻作戦(ヒロン作戦)も展開された。これらと切り離して「核ミサイル危機」をふりかえることはできない。
 映画が描くのは唯一、ヒロン作戦の惨めな失敗の復讐を誓う軍部が、一年半後のミサイル危機で強硬路線を主張するという文脈においてである。鳴り物入りの超大作は、結局、40年前のキューバでの経験はもとより、その後のベトナム、イラク、ユーゴなどにおける政府・軍部一体となった米国のふるまいを内省的に捉えることもなく、偏狭な大国の自己満足的な「ミーイズム」に終始して、帝国内の観客の郷愁を呼ぶだけの作品に終わった。外部の他者の視線を感じることのない超大国のこの鈍感さは、いつまで続くのか。(『派兵チェック』 第100号、2001年1月15日号)
























日本の運動に可能性と課題を提示した女性国際戦犯法廷
鈴木裕子●女性史研究/インタビュアー:桜井大子

桜井●一九九八年にソウルで開かれた第五回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議で、この法廷の開催を提案されたということですが、そこには鈴木さんもいらっしゃっている。この法廷が準備される過程など私はほとんど知らないわけですが、鈴木さんがこれまでかかわってこられた運動やその問題のたて方との、連続性と同時に違いなどあるかと思います。また、最終的にこの法廷が実現されるにあたって、これまで蓄積されたさまざまな力がむすばれて結実していくという過程があったとも思うのですが、いかがでしょう。
鈴木●私の中でもまだ整理されていない部分があるんですが、大きな目で見ればそういうことになるでしょう。
 一九九七年一〇月に「戦争と女性への暴力」国際会議というのが東京で開かれて、「戦争と女性への暴力ネットワーク」(VAWW―NET)ができたでしょう。現代の女性に対する暴力について、いろんなところの方が見えて証言なさいました。松井やよりさんのネットワークでこの問題のいわば裾野が拡がった。松井さんはオープンマインドな人で、変な人間関係に固執されてませんでしょう。それがよかった。我々はこの六〜七年間やっぱりいろいろあるわけですよ。思いもあるし、引きずってるし、かつ、運動の中でのもつれた人間関係も。それとは関係なく動ける松井さんがいた。そしてあのパワー。拡げる力があるし、外と内を結ぶ力もある。日本側の「慰安婦」問題にかかわっているグループや人々の中には、そういう要素が少なかったんですね。
 だから大きな目で見れば、この法廷運動の中で、私たちの地を這うようなシコシコとしたカメさんのような歩みが、そこで結びついたというふうにはいえると思います。
 だけど、なんといっても被害各国の当事者と当事者を支える人々の存在が一番大きい。とりわけ長い間日本の植民地支配下にあった朝鮮半島の被害者たちの、朝鮮語でいうところの「ハン」(恨)が表現化され、人々をつき動かしていったと思います。
 その「ハン」の象徴的存在とも言うべきものが天皇、「日の丸」、「君が代」です。徹底的な皇民化教育、奴隷化教育。その政策の中で性の奴隷にさせられたわけです。そういう事実を日本側は運動も含めて長い間共有できなかったんです。つまり、基調は「気の毒なおばあさんたち」。だから、日本政府に対して謝罪と賠償は要求する。しかし日本の政府、わけても当時の大元帥であり、大権保持者であった天皇裕仁をはじめとする戦争犯罪者の法的裁きというのは、日本側の頭の中にはなかったんですよ。
 そのことを突きつけられたのが、一九九三年の第二回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議なんです。その時も、一部を除いて日本側は深刻には考えなかった。いわゆる責任者処罰の提起です。日本側は、あまり理解せぬままに、「責任者処罰」は第二回連帯会議の決議文にももられ、当然のことながらその決議を受けて韓国挺対協は行動しました。その年の一二月、尹貞玉先生や李美卿さんたちが見えて、東京検察庁に対して責任者を処罰するための訴状をもって行こうとしたんです。そのことで挺対協は日本側にも共同行動を呼びかけたんですが、一〜二のグループを除いてみんな消極的。つまり、謝罪・賠償の域を出なかったんです。本来ならば、謝罪や賠償をするためには責任をはっきりさせなければできないわけですが、そこが転倒しているんですよ。
 翌年の一月にもまた、東京検察庁への訴状提出のために尹先生たちが見えました。ところが日本側はなかなかまとまれず、これ以上共同行動を求めることは日本側の運動を困難にさせるという挺対協側の配慮から、単独でやりますということになったのです。その時われわれはごく一部の人たちと共に共同行動しました。結局、訴状は受理されませんでしたが、その日、早稲田奉仕園で集会をやり、日本側の人がどのくらい来てくれるか非常に不安だったけど、思いのほか満杯になりました。そこらから少しずつ責任者処罰のことが日本の運動のなかで意識され、雰囲気が醸成されてきた。でもまだ、責任者処罰論の持っている積極的な意味ははっきりしてなかったと思いますよ。

■仲裁裁判と「国民基金」問題
 この処罰論を語るにはもう少し大事なことがあります。たくさんの裁判が九一年の暮れから九三年にかけて提訴されたました。でも、審理は思わしくないし、裁判は長引く。残念ながら勝訴の見込みもほとんどないし、当該者は高齢である。ということで、九四年、韓国の挺対協と亡くなった姜徳景さんなど被害者の有志が国際仲裁裁判に持ち込もうとしました。ここならばある程度短い期間に法的な審判を下してもらえるだろうということだったんです。ハーグの常設仲裁裁判所に持ち込むんですが、ある意味ではこれは、今回の法廷の先駆けかもしれません。その時私たちも「国際仲裁裁判を成功させる会」というのをつくりました。しかし問題は、仲裁裁判を受けるためには被害者と日本政府の合意が必要なのです。日本政府はそれを蹴ったんですよ。敵前逃亡です。被害者側には弁護団までできていたのですが、要件が満たされず、つまり日本政府の合意(コンプロミー)が得られず、裁判に持ち込めませんでした。
 そうこうしているうちに「民間基金」構想が発覚したんです。この「民間基金」構想というのは、責任者処罰論が出てくるのと軌を一つにして出てきてるんです。自・社・さきがけ連立政権として村山内閣ができるときには、この問題は民間から集めた「見舞金」(後の「償い金」)で解決するしかないと、話は出来ていたんだと思います。
 九四年六月に村山内閣が成立する頃、八人の女性から出された「民間基金」のアイデアがあって、その頃それが発覚する。このアイデアに村山内閣は多分、発案を得てこの年の八月三一日に村山談話を出すのですが、それがこの「見舞金」構想です。それが九四年一二月、与党内に作られた五〇年プロジェクトチームによって「国民基金」として政策化されていくわけです。九五年を目標にしていたのです。
 彼らは金で「解決」できると思っていた。この構想は女性達のアイデアがもとにあったといいましたが、そのディテールを描いたのはおそらく外政審議室、外務官僚達です。典型的な欧米崇拝・アジア蔑視の彼らは、非常に露骨な言い方をすれば「アジアの女たちには金を与えればいいんだ」と差別的な見方しかしていないんです。そして、それで解決できると思ったんです。女性たちの発案は、社会党が与党として立ち振る舞う中で政策化されていく。八人の女性の一人でイニシアティブを握っていた上野千鶴子さん流にいえば、「横領」されたということになるのでしょう。しかし本来、「国民基金」とはそういう政治の産物であり、アジア女性蔑視の産物なんです。
 そして「国民基金」は日本の戦争責任・戦争犯罪に蓋をするものとしてあった。突き詰めて考えれば、戦争責任の最大責任を負うのは天皇裕仁でしょう。だから逆説的な言い方をすれば、この「国民基金」とは、その天皇裕仁一人を助けるためにアジアの「慰安婦」犠牲者を全部犠牲にするということでしょう。そして、市民運動を分裂させ、被害者と各国の支援者との間に亀裂を生じさせた。官僚たちには、これが必要だったんですね。随分と運動は撹乱させられたと思います。そのなかで、日本側では、私たちが「つぶせ!国民基金実行委員会」をつくり、反対運動をいたしましたが、この九五年から九七年にかけての「国民基金」を巡る混乱は、被害国では本当に悲惨なものとしてありました。本当にカネの問題だけで片づけようとするのは犯罪的でやっかいなんです。
 「国民基金」が韓国、台湾、フィリピンでどんなことをやっているのかの報告を受け、それを糾弾する集会を、九七年七月に各国の個人呼びかけで行いました。そこで、とりわけ台湾へのひどい攻撃ともいえる犯罪的行為が暴露されました。最初の「凌辱」に加えて第二、第三の「凌辱」ではないかということで、その時のスローガンは「許すな国民基金、再びの凌辱を許すな」だったんです。植民地支配の反省もしないうちに、日本政府は「国民基金」として再び土足で入り込み、被害者と支援団体をズタズタに切り裂くようなことをやっている。強い怒りがあったと思います。この汚いやり方に対し台湾の運動は結束したんです。台湾の猛烈な支援運動の結果、台湾政府が被害者に生活支援金二〇〇万円をおくることを決定します。フィリピンの運動にも胸が痛くなるような大きな混乱を作り出しました。
 韓国も折悪しくIMFで不景気になった。日本政府は「受け取れ」と工作にやってくるわけです。本来これはカネの問題ではないのですけど、挺対協も金大中政権に生活支援金を出させる運動をやり、九八年四月から支給されました。いろいろ問題はありますけど、これは一つの転換点でしたね。

■やることで変わる可能性を見いだした
 冒頭でふれた九七年のVAWW―NET発足につながる「戦争と女性への暴力」国際会議は「東京宣言」を出すんですが、ここでは「国民基金」反対の明確な意志表示をおこなっていません。それに対して、「おかしいのではないか」という韓国側などからの声はありました。この会議の実行委員会の中には「民間基金」→「国民基金」側に近い人も加わっていたわけです。私にも、実行委員会への呼びかけをいただきましたが、その時は「国民基金」に明確に反対を打ち出せない実行委員会には加われません、との意志表示したんです。私にしてみれば、これは譲れない原則です。その辺のことを思い起こせば、今回の法廷は大きな進歩だと思います。
 九八年四月の第五回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議で今回の法廷が提案され決まったわけですが、そうすると韓国側はやっと日本で責任者処罰の問題を取り扱うようになってくれたと思うわけですよ。もちろんいきさつも含めいろいろあります。だけど韓国側にとってはそんなこと関係ないでしょ。実は私も、その六月のVAWW―NETジャパン発足記念シンポジウムでパネリストになる予定だったんです。その時は前からの約束と重なって参加できず大越愛子さんが来てくれました。大局的に見れば、これはどんないきさつがあったって私も賛成せざるをえませんよ。それはやることには意義があるんですから。
 やると決まってからは二年と八カ月で法廷を迎えるわけですから、フル回転しなければ間に合わないでしょうし、やるからには成功させなければいけない。松井さんはともかく日本にいられないくらいあちこちをかけ回り大変でしたでしょう。七五歳の尹先生も国際実行委員会の会合をはじめ、全部行ってるんですから大変でした。実行委に参加しなかった我々はせめて、我々のできる範囲で協力したいと、私の所属する「女性・戦争・人権学会」なども総力を挙げました。いろんなことはあっても、法廷まではともかく成功させるように頑張る。やることによって変わる可能性を見出したわけですから。闘う相手は巨大な敵で、そこで一緒にやることになったわけです。いろいろなことがあっても、この法廷を成功させたということは、大きな意味を持っていると思います。法廷の後尹先生にハルモニたちが、「長い間苦しい日々、死んでしまいたくなるような辛い日々を送ってきたけれども、これでここまで生きてきた甲斐があった」と言っていると、みなさんによく伝えて下さいといわれました。
 日本側の運動はこれを一つの契機に、もう一度きちんとこの問題に向き合っていかなければいけないでしょう。

■ウーマン・ピープルズパワーが国家を越えた
桜井●この法廷の準備過程で、日本のいわゆる「高名」というか、「著名なフェミニスト」はどれくらい積極的だったんでしょうか。また、この法廷は日本のフェミニズム運動を変えていく契機としてあったと思われますか。
鈴木●概して「著名なフェミニスト」といわれるみなさんは、積極的にはかかわってこられなかったと思いますよ。理解はできるが自分は参加できないというような声も聞きました。国家を相手にし、日本社会でタブーとされている天皇の戦争責任を追及するのは恐い、というところではないでしょうか。もっとも日本の多くのフェミニストは最初からこの問題からは逃げているんですよ。いろいろ批評はするけれど、運動には加わってこなかった。性差別だけの問題でしたら入ってくるでしょうけど、やっぱり日本国家が相手でしょ。これにかかわると日本ではマイノリティになるということです。今回の法廷運動は、女性の民衆のパワーによって戦時における女性への暴力が戦争犯罪であるということを、国際社会にアピールできたということであり、日本の女性ピープルが、日本の「フェミニズム」を越えたということです。お題目としてなら「フェミニズム」が国家を越えるというのは簡単ですよ。今回は世界の女性市民パワーが「国家」を実際的に越えたんです。その意味の問い返しをこれからやっていかなきゃならない。日本のフェミニズムは看板だけのものと実体をもっているものに分化しつつありますね。ただし、こっちが大切だと思うと「看板」のほうもまた変わってくるかもしれませんね。
 そういったピープルズパワーで、マスメディア上でも天皇の戦争責任や責任者処罰論がともかく報道される事態がつくりだされた。今度はこれを我々がどのように豊富化していくか、ということです。これだけで終わらせないでここから可能性を引き出していく必要があります。これが始まりなんです。そして、それぞれに日本側でかかわったウーマン・ピープルズパワーの人々が、自分の中でもう一回これを反芻してみることです。開催まではともかくやるしかなかったんですね。今回みなさん頑張ったと思いますよ。特に若い人たち、本当に私は感心しました。もちろん、若い人たちだけではないですが。でもね、自分たちがどれだけ凄いことをやったかというのはこれから気がつくんだと思うんですよ。それでいいと思う。それを後退させちゃいけない。
 歴史というのは、ある時ポーンと飛躍するときがあるんですね。その飛躍を今度はしっかりしたものにしないと。大げさに言えば全世界の力で成功させた法廷を、内実化させていくということです。女性の立場から天皇制を問題にし続けるということは、まだまだ不十分だと思いますよ。私たちは私たちの領域でこれをみのりあるものにするためにどうしていくか、考えなければいけない。反天連でもやってください。
(『反天皇制運動PUNCH!』3号、2001.1.16)






責任を問うこととはなにか?
『天皇の戦争責任』(加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣、径書房)を読んで

彦坂諦●作家

 市村さん、この本をさいごまで読む機会をつくってくださってありがとう。書評しなきゃいけないっていう義務感がなかったら、きっと、途中で投げ出していたでしょうよ、退屈で。なぜ退屈なのかなって考えてみました。スリルがなかったんですね。思想的発展が感じられなかった。でも、やっぱり、さいごまで読まなきゃいけないんですよね、こういう本は、失望を確認するためにも。で、読み終ったけど、書評ってかたちで書く気にはなれなかった。だから、あなたあての手紙のかたちをとることにしたってわけです。
 仕事そのものでは独創的な物理学者がその仕事について語りはじめると平凡なことしか言わないとか、すぐれた作品を生みだしている小説家がエッセーでは馬脚をあらわしたとか、舌鋒鋭いことで定評のある批評家の座談がなんとも締まらないとか、そういったことってよくあるでしょう? なにか、そんな感じがしたんですよね、この本、読んでいて。
 加藤さんのお仕事をぼくは高く評価しています。このひととならまともに議論できそうだっていう意味でです。だって、批判する気にもなれないひとたちばっかりじゃないですか、このところこの国に跋扈しているのは。竹田さんのお仕事にも注目してきました。橋爪さんのお仕事にも。加藤秀一さんなどを媒介に、間接的にではあったけれども。この三人が集って話しあうっていうのですから、期待を持っても不思議じゃないでしょう?
 じっさい、期待を持たせるようなことを、この加藤VS橋爪「対決バトル討論」の「行司役」竹田さんは「まえがき」にお書きになっていたのです。このお二人の「討論なら、これまで延々とくりひろげられてきた『天皇』と『戦争責任』に関する論議とはまったく違った、新しい本質的な議論になるはずだ」なんて(005頁)。
 その竹田さんによると、「天皇制」と「戦争責任」の問題はこれまでずっと「二項対立的、二者択一的問題として」しか議論されてこなかったんだそうです。つまり「それは、論者にとっては、彼が『革新派』に属するか『保守派』に属するかによって、その答えがほぼ自動的に決定されるような問題」でしかなかった(007頁)、だから、このような「スコラ的」「二項対立的」問題提起を「投げ捨てて、それまで誰も問わなかったような問題設定」を新しく創りだしていく(013頁)、そこにこそこの「対決討論」の目的がある、そこでは、「与えられた問題を追いつめて、はじめに存在した問題のかたちを変貌させながら、これをより本質的な問題へと鍛えていく」真の討論がなされるであろう。ざっとこんなふうに、竹田さんは誇らかに予告なさっておいでなのです(007頁)。
 なるほど、これじゃ期待しないほうがおかしい。では、この期待は充たされたか? 竹田さんご自身はじゅうぶん充たされておいでのようです。この「対決討論」において、戦後はじめて、「革新/保守」という「スコラ哲学的枠組みをなんとかパラダイムチェンジしようとする考え方がでてきた」のだ、戦後思想全体を長く覆ってきた「二項対立的発想」に明確に「抗する思想的感度、問題提起がこれほどはっきりした自覚をもってなされたことは、欧米の現代思想にはまだないのではないか」(482頁)とまで絶賛しておられるのですから。そうかなあ? じゃ、ぼく自身はどうだったのか? ありていに言っちゃうと、期待は裏切られた、それも、かなり手ひどく。
 「いつもおんなじことしか言わないひとと、どうやってお話したらいいの?」って「不思議の国」のアリスが言うでしょ? そんな感じなんだなあ、この本の全体が。論客二人に名行司までそろえたっていうのに、提起された問題を「より本質的な問題へと鍛えていく」どころか、議論がさいごまでかみあわず、もたついて、堂々巡り、竜頭蛇尾に終ってしまった。「循環カノン」ってのも音楽の世界でならわるくないんだけど、これじゃ、羊頭狗肉だよ。これって、だれの「責任」なんだろう?
 もちろん、三人三様、ちがいがあります。加藤さんは、むしろ、橋爪さんとの対決を止揚しようと大いに奮闘なさっておられる。竹田さんは、お二人の議論の交通整理に、けなげなまでに努力しておられる。いちばん「責任」の重いのが橋爪さんでしょう。このひとは、とうとう、しまいまで、一本調子におなじことしか言わなかった。
 このひとって、生まれた場所がちがってたら優秀なスターリニスト官僚になってたんじゃないかなあ、なんて、つい、想像しちゃいました。それくらいみごとに形式論理を貫いておられるのです。いや、あれは「作業仮説」なんだ、「思考実験」じゃないか、とおっしゃるのでしょうか? なら、もっと、論理の内的発展があってもよさそうなのに。加藤さんがどこからどう突っこんでも、このひとは、はじめからしまいまで、あらかじめ用意された単純な主張をくりかえすだけだ。これじゃまるでモノローグだ、ディアローグは成立しえない。真のディアローグを成立させるのに不可欠な条件は自己に逆らって考えることだ、と思うんですがねえ。
 このひとの史料の読みかたや使いかたにも疑問が残る。「橋爪氏の調査、確認作業の要請の激しさの程度は、なまなかのものでな」かったと加藤さんは感嘆しておられるのですが(484頁)、それにしてはその読みが浅すぎるようだし使いかたも恣意的すぎるのではないか? 史料批 判 を、はたして、きちんとおやりになっているのだろうか? そこにそう書いてあるからそうなのだってもし本気で思っておられる(戦術的に主張してるのでなく)のだとしたら、あまりに幼稚すぎはしませんか? むりに行間を読めとまでは申しませんがね。それに、たとえば「杉山メモ」をお使いになるのなら、児島なんてたぶんにいいかげんなところもあるひとの本からのマゴビキなんかじゃなしに、原文にあたっていただきたいですね(たとえば、235頁)。
 橋爪さんは「戦後の日本人が天皇に責任があるとしか言えないのは、自分に責任があると言えないからです」とおっしゃいます(377頁)。「天皇に責任をかぶせれば、そのぶん、誰かの戦争責任が軽くなるという考え方」なんだとも。「第X期・反天皇制運動連絡会」に加わっておられるみなさん、おこころあたりはおありでしょうか?ひょっとするとぼくが知らないだけで「左翼」の一部にはそんなのがまだ残ってるのか? そこまでお粗末な議論しかできないひとは、しかし、もういないはずだと思いますがねえ。それより、このぼくをこんな「日本人」のなかにかってに組み入れないでほしい。
 橋爪さんは「天皇に責任などないほうが、よほど話がすっきりする」とも言っておられます。なぜか?「そんならこの前の戦争は、『公民の義務』を果たそうとした一人ひとりの日本人の責任になる」からだそうです(503頁)。
 大いにけっこう! その「責任」をはっきりさせようじゃありませんか。ひとりひとりの責任をはっきりさせるってのは、きわめてたいせつなことなんですから。責任をはっきりさせるってのは、まず、だれが、いつ、どこで、どういう状況のもとで、どんな点について、どんな性質の責任を、どのていどまで負っているのか、といったことをはっきりさせるってことでしょう? そのためには、それぞれの具体的状況のもとでの具体的できごとに対する具体的な責任のありようを具体的に追求していかなければなりません。
 もう十四年も前に書いたことなのですが(「そらもう、かってにせ! と言うわな」、「辺境」第三次四号)、つぎのようなばあいの個人の責任もあくまで追及すべきなのだとぼくは考えています。たとえば、ある中隊の人事係の准尉さんがある兵隊を「死の戦場」にとばしその兵隊がそこで死んだとする。この准尉さんは、一定の人員を前線行の部隊に転属させるという、彼の日常的業務の一つを実行しただけです。たとえそうであっても、しかし、その准尉さんがこの兵隊を自分の手で前線にとばして死なせたという事実
は消えはしない。この兵隊を死にいたらしめたのは、たしかに、戦争という大状況であり軍という抽象的存在です。しかしまた、顔も名もある特定の個人でもあった。その特定の個人が、この社会の階層秩序のなかで占める特定の位置に応じて分ち持つささやかな権力を日常のなんでもない仕事として行使することによって、この兵隊を死にいたらしめたのです。そのことに対する個人としての責任は、本人が自覚しているといないとにかかわらず、やはり、消えることはないでしょう。
 このような、具体的な状況のもとでの個人の具体的な責任を、ぼくは、個人の氏名を名指して追及する。そうすれば、必然的に、その追及はぼく自身にはねかえってくる。そういうおまえはなんの資格があって他人の責任を追及しうるのか? 資格がないからこそ追及しなければならない、そうするなかでこそ資格は獲得されるのだ、と、ぼくは答えるでしょう。天皇についても、例外ではない。ぼくはつぎのようにも書いたことがある(「私たちに資格がないからこそ」、「破防法研究」六五号、八九年)。

 私たちにその責任を追及する資格がはじめからそなわっているのではけっしてない。私たちは、天皇の責任を追及しうる資格を、その追及の過程でみずから獲得していかなければならず、そのためにもその追及はなされねばならない。そういう関係に、この両者は立つ。なぜなら、私たちがいまだにその資格を欠いているということそれ自体が、じつは、私たちの戦後のもっとも根源的な問題であるからだ。
 私たちはなぜこの資格を欠いているのか。私たちが、一九四五年八月一五日から今日にいたるまで、私たちにとって肝心かなめであったはずのことをアイマイウヤムヤにしてきているからだ。あの戦争のとき、私たちは、大小さまざまの権力に誘導されあるいは脅迫されて、心からにせよ心ならずもにせよ、〈殺し・殺される者〉になった。そして、この戦争が敗北に終ったとき、この私たちの責任を私たち自身の手でハッキリさせることができなかった。したがって、当然、私たちを〈殺し・殺される者〉たらしめた者たち――その頂点に、たとえ象徴としてであれ、天皇はいた――の責任をハッキリさせることもできなかった。(中略)まことに、私たちが昭和天皇の責任を明らかにしえなかったこと、しないままで今日にいたったことが、どれほどの頽廃を私たちの精神生活にもたらしているか。(中略)かくして、昭和天皇は、いまあらためて、このような日本人の象徴となったのである。(中略)戦後、象徴となって以来の天皇がついに責任をとることなくすべてをアイマイウヤムヤにしてきたということは、この私たちがいまそうしているということにほかならない(後略)。

 天皇に責任を押しつけることによって解除されてしまっていると橋爪さんがおっしゃる日本国民の責任――宮中・政府・軍の中枢部にあって大日本帝国を支配していたひとたちから下々の庶民にいたるまでの、そしてまた、橋爪さんや加藤さんやも含めた「戦後の日本人」(377頁)の――を、それぞれに具体的にあきらかにする、そのことが必要なんじゃないでしょうか? 文字通り「一人ひとり」(503頁)についてです。天皇についてだけそれをしないですますわけにはいかない。天皇が人間であるかぎり。
 「もう天皇に依存する思考法はヤメにしよう」と加藤さんがおっしゃる(493頁)のには賛成です。もっとも、ぼく自身は、はじめっから、いちどだって、そんな思考法などとったことはなかったですけどね。そういえば、だいたい、この「対決バトル」の前提となってる認識それ自体に、ぼくなど違和を感じます。これまでの「天皇の戦争責任追及」はすべて二項対立的スコラ的議論でしかなかったって言われるけれど、このぼくがこれまでなにをどのようにやってきたのか、はたして、ごぞんじなんでしょうかねぇ?
 もうとうに定量オーバーですよね。ごめんなさい。ここらへんで止めときます。では、市村さん、今年も、めげずに、生きぬきましょう!
(『反天皇制運動PUNCH!』3号、2001.1.16)












沖縄で、また米兵「わいせつ」事件
「海兵隊を含む兵力の削減」県議会決議へ

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 12月16日に、私たちは「〈沖縄サミット〉対抗運動の総検証――次のステップへ」という集会をつくりだした。「沖縄の反基地闘争に連帯し、『有事立法』に反対する実行委員会」、「ピープルズ・プラン研究所」、NCC[日本キリスト教協議会]が「本土(ヤマト)」側の団体で、沖縄側は「沖縄から基地をなくし、世界の平和を求める市民連絡会」「新沖縄フォーラム(『けーし風』編集運営委員会)」「『満月まつり』実行委員会」「基地軍隊を許さない行動する女たちの会」「沖縄環境ネットワーク」の共催集会。
 この集まりについて私は「戦争協力を拒否し、有事立法に反対する全国Fax通信」の第3〈12月3日〉号で、以下のように論じた。
 ――しかし、沖縄現地の人々(そこへ行った人々も)、この期間に渦まいた多様な活動のすべてに参加することは不可能であった。そうした諸活動に思いをよせながらも、直接に沖縄にまで行くことはできなかった「本土(ヤマト)」の人たちも少なくなかったはずである。/そこで、私たちは、いろいろな国際的集まりを主催した人々が総結集して、サミット対抗の諸活動を総検証・相互検証をする場所をつくりだそうということになった。――
 沖縄のグループの人々と共に自分たちの活動を報告し、どのように「次のステップへ」踏み出せるかを相互に討論するという、それはおそらく初めての試みであった。やはり、多くの報告の後の討論は、最初はそれほどうまくかみあわず、それなりにはずみだすと司会をしていた私は、時間の不足に、気をもまなければいけないはめになった。
 この時の沖縄側の最初の問題提起者であった新崎盛暉が、那覇市長選の敗けに象徴されるように、95年から始まった沖縄の新たな反基地運動は、この5年間で、最も「停滞」した状況にあるという報告をした点が印象に残った。そして彼は、アメリカの支配者のブレーンたちの21世紀国家安全保障委員会のレポート(「国家戦略の探究」)が、日本が「集団的自衛権」を容認することが望ましい、沖縄の基地は過重負担だから兵力・基地・演習の沖縄からの分散化をはかるべきだ、そう主張していると紹介した。さらに、民主党の鳩山由起夫が「集団的自衛権」の容認を積極的にうちだしているのは、こういう動きに対応しているのではないかとも語ったのだ。
 運動の「停滞」が実感されている、その沖縄で、また米兵による「わいせつ行為」事件が発生した。
 「九日午後七時半ごろ、沖縄本島で、米海兵隊二等兵(二一)が、路上を歩いていた女子高生のスカートをめくり、写真を撮るなどして県警が同日午後八時すぎ、強制わいせつ容疑で逮捕した」。
 「昨年七月には、深夜、自宅で家族と一緒に寝ていた女子中学生に、わいせつな行為をしたとして準強制わいせつ容疑などで普天間基地所属の米海兵隊上等兵=当時(一九)=が逮捕され、在沖米軍四軍調整官と米国総領事が稲嶺恵一知事を通じて、関係者や県民に異例の謝罪をしたばかり」(『沖縄タイムス』1月10日)。
 被害者の出た地域である金武町の町長はすぐ動き、「またか」という怒りの声は拡がり、沖縄メディアは、連日、この問題を大きくとりあげた。
 12日の県議会では、「@海兵隊を含む兵力の削減、A綱紀粛正、B兵員に対する教育の徹底、C再発防止について万全を期すこと」という内容の決議へ向けて与野党が一致して動きだした。その動きをつたえる13日の『沖縄タイムス』1面には、1996年から2年間、キャンプ・ハンセンの司令官だった、退役したゲーリー・アンダーソンの「米兵事件は米軍批判の宣伝」にすぎないとの「ワシントン・ポスト」での発言が紹介されている。「良き隣人政策」を打ち出し、「お互いに友好関係を築こう」とアピールしていた当の本人だというのだ。
 米軍の姿勢はその場しのぎ、基地があり軍隊がいるかぎり、何度でもくりかえされざるをえない悲劇であることは、沖縄の人々こそ、体験的によく理解しているのだ。
 「海兵隊を含む兵力の削減」の内容を含む決議は、19日の本会議で可決される見通しであると語る『沖縄タイムス』(14日の社説)は、さらにこう論じている。
 「フォーリー米駐日大使は、昨年十二月、米国でのシンポジュウムで『安保問題はたぶん、沖縄の海兵隊のプレゼンス(駐留)を一気に削減するべきだろう』と語ったという。/米国務省のロス次官補は十一日、ワシントンで演説し、韓国や日本のアジア太平洋地域に駐留する米軍の在り方を見直すことがブッシュ次期政権の大きな課題となるとの見方を示した。/この変化が意味するものは大きい。過重な基地負担にあえぐ沖縄や韓国の声が米国政府の中枢に届き、米国政府を動かし始めたとも言える。/もちろん、この種の発言は二国間同盟の強化を前提にしたものである。過剰な期待を寄せるのは禁物だが、海兵隊の削減を含む沖縄の負担軽減が大河の流れにあることは否定できない」。
 この後、日本政府の兵力削減への消極的態度を批判し、こう、この文章は結ばれている。
 「兵力見直しが不可能なら、在沖米軍兵力の本土分散を検討すべきなのに、それも言わない、やらない。こういう日本政府の姿勢がどれほど県民に不信感を与えてきたことか。/基地問題の抜本的解決へ向けて、日本政府は、変わらなければならない」。
 安保軍事同盟の強化に向けた、沖縄海兵隊削減ではなく、日米安保体制をなくし、基地・軍隊を削減し、なくしていく方向。この方向へ日本政府を突き動かす運動が、「本土(ヤマト)」で力強くつくりだされなければ、沖縄の反基地運動と、私たちの運動は、根本的なところで同じステップを踏めない。やはり、そういう構造になっている。
 私たちは、当面、この断絶の構造に十分自覚的に、沖縄の反基地運動を担っている人々との具体的協力関係づくりを、さらに持続するしかあるまい。(『派兵チェック』 第100号、2001年1月15日号)










【反天運動月報】(3)

「女性国際戦犯法廷」と「右翼」の脅迫
―「民衆法廷」の「権威」をめぐって

天野恵一
●反天皇制運動連絡会

 一二月八日から開催された「女性国際戦犯法廷」は、一二日に英文の「事実認定概要」(仮判決)を公表して幕を降ろすまで、連日会場を埋めつくす人々の熱気であふれる状況が続いた。「最終判決」は二〇〇一年三月八日の国際女性デーに出されることになっているこの「民衆法廷」のとりあえずの「判決」について、青山薫は、以下のように報告している。
 「……『仮判決』は、天皇の、戦時性暴力ひいては戦争そのものに対する主体的関与(責任と罪)を明記し、日本国憲法の現在まで続く歴史の隠蔽と責任逃れ、性差別と民族差別が分ちがたく結びついていることを指摘し、当時の連合国がみずからの都合によって日本と天皇に対する責任追及をしなかったことの問題を記している」。
 まさに画期的な、判決内容である。さらに青山は、国際社会で高名な権威ある人々が裁判官の席に座ったとはいえ、国内法はもちろん、国際法のレベルでの法的拘束力を持たない、「サヴァイヴァー(生存者)と呼ばれる、日本軍によって『慰安婦』にされた組織的強姦の被害にあった女性たちのうち、証言者として出廷した人が75人」のこの「民衆法廷」の「権威」について、このように論じている。
 「その『権威』は、一般的な法廷と同様のいわゆる権威と『正式さ』をも確かに纏っていた、この法廷の裁判官と検事の態度や法衣や法律用語や開廷前の『起立着席』にあったのではない。それはたとえば、裁判官の、サヴァイヴァーに対して『ここに来られて証言をなさったことに感謝し、勇気に敬意を表します』とねぎらう言葉が表面的なものではなく、私たち参加者の証言者に対する敬意を代表する真摯なものであることに現われていた。数十人のサヴァイヴァーのおばあさんたちが、それまで『法廷』であった舞台の中心に上がり、泣いたり笑ったり踊るようにして、手に手に白い布を振り私たちにアピールした姿にも現われていた。主役は明らかにあのおばあさんたちだった。息を呑むようなみごとな弁舌の国際的な法律家たちも、法廷の中をのぞく間もなく寒空で右翼と対峙していた警備陣も、徹夜で遠来の証言者を迎える準備をしたスタッフも、この主役を支える結果になったということが、女性法廷の『権威』のひとつだったと私は思う」(「戦争協力を拒否し、有事立法に反対する全国FAX通信」二〇〇〇年一二月一七日 第四号)。
 脅迫(時には暴行も伴う)といやがらせを連日、執拗にくりかえし続けた人々との対応におわれ、会場の中に、ほとんど参加できなかった私(たち)にも、この青山が報告している「法廷」のムードは、つたわってきていた。
 私(たち)は、ある意味では、つまらない、この役割を積極的に引き受けたのである。初日から右翼の介入があったため、「警備」のメンバーをも気づかって、その「つまらない」役割に参加する人々は、予想を超えて、増大した(特に土・日は)。私は、直接自分が日常的に交流している反天皇制運動や反戦運動のメンバー以外とは、「なぜ」そうするのか、という問題について話す機会は持てなかった。しかし、真剣に、この「つまらない」しかし、大切な任務を担った人々には、共通した思いがあったはずである。
 〈主催者の女性たちのガードの必要はもちろんであるが、証言者の人々に、この局面で、何かあるようなことだけは、なんとしても、避けなければならない〉。
 ところで、まったく反対の立場からこの法廷をのぞいた人物もいたのだ。
 「はっきり言おう。『女性国際戦犯法廷』は人類に対する犯罪である」。
 こういう、最大級の非難の言葉を、この「法廷」に浴びせている文章を「産経新聞」の記者を自称する人間が『正論』(二月号)に書いている(桑原聡「女性国際戦犯法廷の愚かしさ」)。
 国策(日本軍)によって、「慰安所」がつくられ、「慰安婦」とされる人々がつれていかれたことは、おびただしい証言(と資料)によって、この「法廷」でも、より具体的に示されている今、「当時の日本の官憲や軍部が、アジアの女性を強制的に慰安婦とした事実はない」、「基本的に商行為であった」という、ひたすら日本国家(日本軍)の責任をなかったことにするという政治目的のために、事実を、自分に都合のよい方向へねじまげて論評しているだけの文章に、直接対応する必要はない。こういう発言は、以下のような、かつての日本軍(国家)の政策を、現在もなぞっているものであることを確認しておけばたりる。
 「日本帝国主義の中枢ともいえる内務省・軍隊・警察はあたかも民間業者が自発的にカネ儲けのために女性集めをしているかのように細工しているが、帝国との関わりを隠蔽するのはすでに前節で見てきたように常套手段である。一八七三年に公娼路線が確立したときにも、ボアソナードの忠告通り政府が前面に出ず、地方官に委ね、なおかつ三業(貸座敷・娼妓・引手茶屋)が自主的に公娼統制に乗り出したかのように根回ししている。『韓国併合』に先駆けて統監府が朝鮮人『売春婦』の統制に乗り出したときも、あたかも朝鮮人業者の請願を受け入れ、許可したかのように仕組んでいる。ケシ粒のようなアンボン島(インドネシア)に一九四四年の終わりに『慰安所』を再開する時も、強制的に連行した現地の女性に一定期間ごちそうを与え、自由意志で集まったかのようにして、日本軍に直接反感が向けられないように策を弄している」(宋連玉「公娼制度から『慰安婦』制度への歴史的展開」『「慰安婦」戦時性暴力の実態[T]』〈「日本軍性奴隷制を裁く二〇〇〇年女性国際戦犯法廷の記録」vol.3〉所収)。
 「××を出せ!」「××を死刑にせよ!」などと脅迫的にガナリたてつづけ、なんどももぐりこもうとした右翼の、その時の発言とまったく同じ、証言にきた人々をあらためて誹謗する恥ずかしい発言をしているこの「記者」は、「法廷」が、出席者や傍聴者の権利を侵害する妨害者は入れず、趣旨に賛同すると誓約する人のみに傍聴券を発行したことにふれ、これは「暗黒裁判」だ、などと主張している。
 通常の出入口から人々が出入できない状態、サヴァイヴァーの人々がおびえるような事態が、一時的にであれ現出してしまったのは、右翼の脅迫行為と、それを背後からバックアップしているとしか思えなかった警察の対応の結果である(〈ホンマモンの暴力右翼が、さらに来るといっている〉などという怪情報を公安警察はふりまきつつ、会場〈九段会館〉の責任者たちなどをおどし続けるだけで、右翼はやりたいほうだいであった)。
 こういう「暗黒」社会の中に、私たちは生きているのである。「法廷」の主催者たちの配慮は、あたりまえのことだ。
 私たちは今、例年通り、「紀元節」に反対する2・11集会の実行委員会づくりに向かっている。そして、「天皇制の戦争責任を追及し、『日の丸・君が代』に反対する2・11反『紀元節』集会」を「女性戦犯法廷」の「権威ある」(青山のいう意味での)内容を、運動的に共有できるものにすべく動き出しているのである。
(『反天皇制運動PUNCH!』3号、2001.1.16)

















【書評】

体制派イデオローグ批判と自己検証の継続

太田昌国著
 
『「ゲバラを脱神話化する」』
  〔現代企画室/2000年/1500円+税〕
 『日本ナショナリズム解体新書 発言1996-2000』
  〔現代企画室/2000年/2500円+税〕

田浪亜央江●『インパクション』編集委員

 書評として取り上げるのにはやや遅くなってしまった感があるが、『派兵チェック』ではお馴染みの太田昌国さんの著作が、昨年ほぼ同じ時期に二冊刊行された。一見違う性質の書物に見えようが、太田さんの問題意識としては通底するものがあるのではないかと思われるので、ご本人の希望とは関係なく、二冊を一緒に書評させてもらう。
 日本社会をより良く知り、この社会を被いつくしているナショナリズムを批判するためにこそ、さまざまな「第三世界」における文学・映像等の実践から学び、ある種の限界を反面教師とすることも含めて自らの糧とする、というスタイルで評論活動を続けて来た太田さんだが、ここ数年は特に右派・保守派といった、体制派イデオローグの「読むに耐えない」文章をあえて読み、批判する機会が増えているようだ。『日本ナショナリズム解体新書』はその傾向を反映して、先行する評論集よりもさらに、「敵」の言説への目配りが充実したものになっている。かつてなら「トンデモ本」として無視し得たようなウルトラ右翼の言説が、社会の一定の支持を獲得している現在、それらとの正面からの対決は避けられない。太田さんは自ら進んで(?)この「汚れ役」を買って出た。そして太田さんの持っている、対象と向き合う際の方法論と言うのか、原則の確かさゆえに、批判する対象の「品の悪さ」なり「劣悪さ」に見合ったレベルでの文章表現に堕してしまうこと、がない。
 どんなにひどい発言に対しても、直対応でその場限りの反応は、出来るだけ行わない。なぜそんな発言が出てくるのか、その人物の変節の課程を出来るだけ追ったり、他の場面での言動を検証することで、その人物の幅や全体性を見ようとする。確信犯的御用学者、機を見るに敏な「出たがり」、無責任な放言好き、クロをシロと言い包めるに巧みなヌエ的論者。「敵」の側にもそれぞれの個性と幅があり、それを読み抜かない限り、まともな批判など出来はしない。
 それだけではない。右派イデオローグの活躍を許してしまった責任の一端は、私たちの運動の敗北もある、という事実に自覚的な太田さんは、自らの思想形成にも大きく関わった、丸山真男、石母田正、竹内好ら、進歩派の思想家たちにも巣食っていたナショナリズムを鋭く抉り取っている。
 ゲバラの死後30年に当たる97年以降、太田さんがゲバラについて行った発言や文章をまとめた『「ゲバラを脱神話化する」』のモチーフは、この問題意識をさらに先鋭化させたものだ。「ゲバラ」とは、ここでは太田さん(たち)が糧とし武器として来た思想の体現者であって、その自己検証こそが必要なのだ。この本から学んだことは多く、太田さんのスタンスにも基本的に全く大賛成なのだが、ここでは紙面の都合上、若干の疑問点についてのみ触れておきたい。
 まず、日本を含めた先進国の人間が、「第三世界」の革命をあまりにもロマン化したことが、具体的にどのような問題を現出させたのか、当時を知らない読者には分かりにくいのではないか、という点。革命後の社会が、官僚の汚職や独裁体制を生んでいることに、先進国の人間が「失望」させられた、ということだけでは心情的なレベルでの問題に限定されてしまい、運動のありようとしての問題は見えて来ない。対象をロマン化してしまったことで、軍隊(この場合「革命軍」という名称を持っていたにせよ)が本来、非民主的なシステムである、ということへの警戒心を欠如させたことが、日本(人)の、運動なり第三世界革命への参与なりに、具体的にどのような否定的結果をもたらしたのだったか。
 この本の目的は、太田さんが自らまとめているように、ゲバラを「英雄的なゲリラ戦士」ではなく、等身大の姿の中で解釈し直すことで、60年代の「第三世界主義」のプラスとマイナスの側面を見極めること、である。そうであるならばこそ、心情レベルに限定されない、具体的な実践活動に即した検証こそがいずれ必要になるのではないか。
 次に、『国境を超える革命』の、あまりにも有名な「二つ、三つ……数多くのベトナムをつくれ、これが合言葉だ」という論文について。私には、初めて読んだ時以来、今なお心から共感出来ないひっかかりがある。自らが、アメリカ帝国主義に苦しめられ、それと戦い抜く覚悟を持ったベトナム人でない身が、ベトナムと同じ状況を世界中に作って、帝国主義の力を分散させよう、などとどうして言えるのだろうか? 一歩譲って、同じく帝国主義によって踏み付けられた貧しい国の中で生きているゲバラがそれをスローガンとすることに、「先進国」の人間が口を挟む資格はないにしても、これは「私たち」に向けられたメッセージではないはずだ。そういう印象があったがために、この呼び掛けに対して、当時「世界各地の人びと」が同じ思いを共有した、と太田さんが述べているくだりを、すんなりと読むことが出来なかった。同じ思いを共有していると確信できたことに、この言葉を同時代のメッセージとして受け取った時代の空気が象徴されている、ということはともかくとして、現在から見た時に、違う思いが付け加わることはないのだろうか。否応なく先進国の恩恵に関わりながら生きていかざるを得ない時、その中での反戦運動はたとえ「革命的」ではなくとも、ベトナム人民との連帯の指向を持っていたはずではないのか。反戦運動を切り捨てているとも読める、ゲバラのこの文章を読んだ当時の太田さんにとって、「ベ平連」の主張はどう映っていたのだろうか。
 ゲバラの思想の受容を、日本の戦後運動史の中に位置付ける作業が必要なのだろうと思う。そしてそれは本書の射程からは外れるのかも知れないが、個人的には、いずれ太田さんが右派イデオローグとの闘争から解放されて、そのような仕事をしてくれる日を望んでしまうのである。
(『派兵チェック』 第100号、2001年1月15日号)







J.F.フォルジュ著
『21世紀の子供たちに、アウシュヴィッツをいかに教えるか?』
(高橋武智訳・高橋哲哉解説・作品社)

高橋優子●アジア民衆法廷準備会

 アウシュヴィッツは、その前後の時間を徹底的に引き裂いた。この途方もない出来事の後では、人間の活動に関わるあらゆるものが、「以後」という不可視の刻印を受けている。すべての思想が、信仰が、芸術が、そして倫理が……。そして、私たちがいまを生きるとは、「以後」にもかかわらず生きることに他ならない。そこには何かしら、猥褻さが潜んでいるように感じる。

 アウシュヴィッツの後に、なお教育は可能か? 「以後」に生を受けたひとりの教育者がこの問いを自らに引き寄せ、日々の思索と実践の内から紡ぎ出した答。それが本書である。原題の『歴史と記憶』は、本書全体を貫くキーワードにもなっている。
 以下、著者の主張を、簡単に整理してみたい。
 第一に、歴史における厳密さの重要性。これは、「以後」を生きる人間の所作――〈記憶する義務〉――にかかわる、すぐれて倫理的な要請である。この観点から告発を受けるのは、歴史修正主義者らの言説にとどまらない。犠牲者の座を詐取し、脱ユダヤ化(共産主義化、キリスト教化)する企て。犠牲者の数を誇張したがるメンタリティ。事実と神話を峻別しないプロパガンダ。……〈収容所の記憶が次の世紀まで生き延びられるかどうかは、いつにもまして、今日それについて書かれる歴史の厳密さにかかっている〉という著者の言葉は、記憶をめぐる倫理の退廃ぶりを映していて悲痛だ。彼の地においてもまた、情況は危機的なのである。
 第二に、獲得した知識を〈深い意識のなかに組み入れ〉、〈心情の知性〉を通じて歴史の犠牲者への〈共感共苦〉を育むことの大切さ。ここから、歴史教育はすべからく倫理・道徳教育たるべしという、本書の核心をなすテーゼが導かれることとなる。
 第三に、〈記憶する義務〉を〈警戒する義務〉へとつなぐ回路の提示。著者は、ショアーの唯一無比性を認めつつ、その記憶を別の時代、別の場所へと普遍化してゆく。これは、〈ささやかな兆候〉のなかに〈アウシュヴィッツへと至る道へのとば口をできるかぎり早く見抜〉き、その再来を〈できるだけ遠い将来にまで押しやろうと〉努める行為である。ショアーの普遍化が陳腐化を招くという批判には、逆に日常的な暴力こそ非陳腐化されなければならない、と切り返している。
 こうして、冒頭の問いに、著者はOuiと応じる。〈アウシュヴィッツの後に教えるとは、アウシュヴィッツに抗して教えることである〉、と。だがこれは、予定調和の解ではない。現在と未来に向かって開かれているOui、絶えず試練にさらされ更新を迫られる、アンガジュマンとしてのOuiなのだ。
 むろん、楽観的すぎるという批判もあろう。巻末の高橋哲哉氏の解説に紹介されている、エンマ・シュニュールの著者に対する批判――古典的倫理思想の崩壊を示したショアーの後に、その単純な復活を唱えても無効だ――には説得力がある。また、各論では首を傾げたくなる記述も少なくない。〈警戒する義務〉の視点からボスニアへの軍事介入を肯定するくだりでは、なぜ多国籍軍の暴力には無警戒なのか疑問だし、自国フランスの植民地支配について触れた箇所も、植民地兵の〈犠牲〉と植民地住民の〈虐殺〉の記述に終始しており、不充分といわざるをえない。言葉の端々に滲むヨーロッパ啓蒙思想への愛着にも、違和感がつきまとう。
 それでもなお、本書を魅力的なものにしているのは、「以後」に倫理的価値を取り戻すことに賭ける、著者の静かな情熱である。目指されるのは、倫理の〈単純な復活〉ではないはずだ。「以後」の猥褻さを自覚的に含み持つ、倫理ならぬ倫理といえるかもしれない。
 アウシュヴィッツという劇物はまた、遅効性の毒を併せ持つ。歴史と記憶をめぐる闘いには、果てがない。だが、「以後」を生きる者が手持ちの倫理や思想を鍛え直し、よりよく用いることで、いかに豊かな抵抗が築けるかを、本書は示してくれる。
(『反天皇制運動PUNCH!』3号、2001.1.16)