alternative autonomous lane No.4
1998.5.20

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目 次

【議論と論考】

「日本人の貧弱な身体」とプライド回復―貝原イラストの掲載拒否問題をめぐって(北原恵)

天皇・皇后のポルトガル・イギリス・デンマーク訪問(国富建治)

【コラム・表現のBattlefield】

断念させられた女たちの「記憶」を伝える
―「1000本の記憶」と「沈黙の行進」(桜井大子)

【運動情報】

「北のガザ回廊」=南部レバノンからの撤退を模索するイスラエル(岡田剛士)

フランスの新たな移民法とサン・パピエたちコリン・コバヤシ)









「日本人の貧弱な身体」とプライド回復

貝原イラストの掲載拒否問題をめぐって

北原恵●表象文化論

 貝原浩氏が『週刊金曜日』から掲載拒否されたイラストは、舞台となった長野オリンピックが終わった今、あらためて眺めてみると、ある真実を突いている。件のイラストは、オリンピックの始まる三ヶ月前、これが「象徴天皇のあらためての元首宣言の政治舞台として準備されている」ことに警鐘を鳴らす天野氏の文章を踏まえて描かれたという。それは、奇しくも三ヶ月後のオリンピック開会式を予言していたかのようである。
 長野オリンピック演出の総指揮を取った浅利慶太氏は、開会式当夜、NHKテレビの番組に生出演して、演出の意図などを興奮覚めやらぬ様子で語っていた。それによると、相撲の土俵入りを採り入れたのは、「日本人の体格がこんなに立派だということを世界に知らしめたかった」とのこと。これを聞いて思い浮かぶのはもちろん、昭和天皇がマッカーサーと会見したときのあの写真だ。「貧弱に見える」この写真に、おそらく浅利慶太氏は戦後ずっとトラウマを感じ続けてきたのだろう。その雪辱が冬のオリンピックでの土俵入りというのは、ちょっと安易で単純すぎはしないかと思うが、事実、世界に誇る演出家浅利慶太氏は、巨漢の「日本人」を土俵という真正日本の舞台に載せることによって、貧弱でない立派な身体をもった「日本」を表象できると考えたのだ。その意味において、予定されていた貴乃花の身体は、マッカーサーと並んで立つ昭和天皇であり、その「貧弱な」身体のトラウマに苛まされ続けてきた浅利慶太氏であり、トラウマを共有する主には日本人男性の心性である。
 今となってみれば、貝原氏のイラストは、そこを突いているようにも読めて面白いのだが、逆に、それだからこそ、わたしには笑えない。このイラストはそのまんま過ぎて面白くない!のだ。なぜか?
 なぜなら、天皇=日本が「貧弱な身体」でありそれを恥だと感じることを暗黙の前提とする身体観ゆえである。貝原氏は、天皇をハダカにし、文字どおり土俵に乗せることによって、天皇の「貧弱な」身体が天皇の威信を損なうと考えた。これは、読者も天皇の身体を「貧弱」だと考えているという前提によって、成り立つ「パロディ」である。ヒットラーと天皇二人の表象を見てみれば、「貧弱さ」がどちらの特質として描かれているかは明らかであろう。(たとえば汗だらで皺の多い両天皇とヒットラーのつるんとした身体表象。)この意味において、「パロディ」となるか「侮辱」となるかは、同じトラウマをもった人たちの裏表の反応である。だからこそ、本多氏は「侮辱」と考え、危険を招くだけの冒険に値しないと判断したのだ。
 貝原氏のイラストに描かれたアキヒトの身体は、私には本多氏の言うように当の本人よりも「貧弱な体つき」に描かれたとは思われない。「貧弱」に見えるとすれば、第一にハダカにされることによって生じる権力の失墜のためであり、第二に相撲という設定のゆえであり、第三にそもそも天皇が貧弱だとの認識を万人が共有しているという思い込みのせいである。普段の大相撲中継を見なれた私たちの目には、たとえば幕下の相撲や、力士志願の恒例のテスト風景を見ても、彼らの身体は貧弱に映る。かなりふくよかな男性が土俵に上らなければ、他はすべて「貧弱」に見えるだろう。だが、仮に、貧弱に見えたとしても、それがどうして侮辱になるのだろうか? 痩せて背の低い小さな男の身体が、なぜ「貧相」なのか? 「貧相に描かれた顔が、貧相なハダカに乗っていてはブジョクになりましょう」という本多氏の身体観そのものが、むしろわたしにはあのトラウマに呪縛された日本人男性の吐露に聞こえてくるのだ。(戦後日本男性に刻印されたあのトラウマを日本の文化がどのように癒し乗り越えようとしたかに、わたしは興味がある。)
 ところで浅利氏の「プライド」回復はこれだけにおさまらない。取ってつけたような第九の合唱も、「日本人は、第九など誰でも歌える」と言いたかったそうな。そして、伊藤みどりが聖火を点火する瞬間、流れ出した音楽を聞いたときには、「出たな、妖怪!」と、思わずのけぞってしまった。それはかの蝶々夫人の最も有名なアリア「ある晴れた日に」だったからだ。(よく右翼は怒らなかったものだ。)アメリカ人将校に捨てられ自害するマダム・バタフライと、米国出身の裸の巨漢力士の土俵入り、そして閉会式での演出に見られた日本回帰――。あまりにも「出来すぎた」(完全に失敗の)日本のプライド回復の演出ではないか。
 だが、この雪辱は、「日本人の力士」であってこそ、果せる仕掛けであった。それが「日本を負かした」アメリカ出身の力士曙になってしまったところに、浅利氏の演出の最大の誤算があった。これこそが、今回の長野オリンピック開会式での最大のパロディではなかろうか?
オリンピックにおける皇室の役割と報道の分析は、「正面からの天皇制批判でなく、オリンピック批判の中の一コマにすぎ」ないどころではなく、すぐれて重要な一シーンであるとわたしは思う。それだけに、対抗する表象は、真にその批判の思想を問われている。

(『反天皇制運動じゃ〜なる』10号、1998.5.12)













天皇・皇后のポルトガル・イギリス・デンマーク訪問
―グローバリゼーションの時代の「皇室外交」を批判する声を拡大しよう―

国富建治●新時代社

●「皇室外交」の新展開

 五月二十三日から天皇・皇后はポルトガル、イギリス、デンマーク訪問に旅立つ。明仁の代になってから、一九九一年の東南アジア三国(タイ、マレーシア、インドネシア)を皮切りに、九二年の中国、九三年のイタリア、ベルギー、ドイツ、九四年のアメリカそしてフランス、スペイン、九七年のブラジル、アルゼンチンと、「戦後五十年」の九五年と翌九六年を除いて天皇・皇后はきわめて精力的な「皇室外交」を展開してきた。
 言うまでもなく天皇の「皇室外交」なるものは、憲法で厳密に規定されている「国事行為」には含まれない、それ自体違憲の政治的行動である。しかし「皇室外交」は「象徴としての地位」に基づく「公的行為」であると解釈され、事実上の「元首」としてふるまう「日本国」を代表した外交活動となってきた。
 その典型は一九九四年の訪米で示された。この時ワシントンでの歓迎式典における明仁の発言は「貴国が半世紀にわたり、我が国の安全と世界の平和を確保するためにかけがえのない役割を果たしてきたことを忘れません」というものであり、従来にはなく踏み込んだ形で「世界の憲兵」としてのアメリカの軍事的役割と日米安保を称賛したのである。それが、一九九六年の日米安保新宣言と九七年の新ガイドラインにつながる現在の日米両国の政策を「象徴」として担保する行為であったことは、あらためて想起される必要がある。
 右翼言論は、訪中に代表される「皇室外交」を「謝罪外交」として批判してきた。訪米に際しても真珠湾のアリゾナ記念館訪問計画を「代理謝罪」だとして糾弾していた。しかし、昨年のブラジル、アルゼンチン訪問については、「日本会議」が日系人による天皇・皇后の歓迎ぶりなどを記録したビデオの上映会を企画していることに見られるように、そのトーンは変わりつつある。訪米時での安保礼賛のような露骨な政治色を帯びた発言も、相対的に後景に退くようになる可能性が高い。
 しかしそうだからこそ、私たちは連続する「皇室外交」の持つ政治性=天皇の「国家元首」としての外交活動の蓄積を通じて進展する、グローバリゼーションの時代における「象徴天皇制」を通じた国民統合の意味をえぐりだし、批判していく作業をいっそう深化していくことが求められているのである。

●イギリス訪問と「戦後補償」

 今回のヨーロッパ三国訪問で、まず注目されるのはイギリスだろう。英王室を「模範」としてきた天皇家との歴史的関係、ダイアナ問題をめぐって揺れ動いた王室の危機、「女帝」問題への対応、そしていまだ「解決」されない第二次大戦中の英軍捕虜虐待への戦後補償問題等々である。
 今年の一月橋本首相がブレア英首相の来日を契機に、英紙にこの捕虜虐待問題をめぐって「謝罪文」を寄稿したことは記憶に新しい。一九八八年、死の床にあった裕仁の戦争犯罪人としての本質をイギリスの大衆紙「サン」などがセンセーショナルに批判したことに示されるように、天皇家の英王室に対する一方的思い込みとはうらはらに、イギリスの一般民衆、とりわけ戦争体験者の天皇家に対する感情はきわめて厳しいのである。そのことは、例えば一九四二年から開始された泰緬(タイ―ビルマ)鉄道建設に五万五千人の捕虜(主要に英軍)が動員され、「枕木三本に死者一人」という過酷な強制労働によって、うち一万二千人が死んだという記録によっても確認される(丸山静雄編『昭和の戦争9 アジアの反乱』講談社)。
 橋本の「謝罪」が、天皇の訪問にとっての摩擦要因を軽減・解消するためになされたことは明白であるが、元戦争捕虜団体の天皇訪英を機にした謝罪と補償要求の運動は活発に進められている。これをなだめるために、天皇訪英時の晩さん会に「捕虜の心をやわらげた」とされる日本人女性が招待されたり(「朝日」4月25日)、日英両政府が公費二十万ポンドを支出して泰緬鉄道工事関係者を現地に招いて共同の慰霊祭を行う、などの企画があるようである。
 いずれにせよ天皇制の戦争責任と「戦後補償」問題は、今後も「皇室外交」を進めていくにあたって、「代替わり」の後も日本政府にとって「喉に刺さった骨」であり続けているのであり、金大中政権の下で準備されている天皇訪韓を焦点として、今後もクローズアップされることになる。戦争責任の追及をさらに強めていかなければならない私たちは、その観点からも天皇・皇后の訪英時における発言等に注目していく必要がある。

●「リスボン万博」――「ヴァスコ・ダ・ガマ五〇〇年」とは?

 ポルトガル訪問については、なによりもリスボン万博との関係について注意すべきだろう。天皇の日本出発の前日の五月二十二日に開幕するリスボン万博は、「ヴァスコ・ダ・ガマのインド到達五〇〇年」を記念し、「大洋・未来への遺産」をテーマにしている。同万博での日本館は、敷地面積において参加国中最大とされており、開始からさして日がたたない時点での天皇の訪問は万博を大いに「盛り上げる」役目を担っているのである。
 しかもこの万博には、前天皇裕仁が相模湾で採取した新種の貝の標本十四種が初めて海外で展示されることになっている。また日本のナショナルデーのイベントが挙行されるのは、明治天皇が北海道巡幸から横浜に船で帰還した日である天皇制賛美の「祝日」=七月二十日の「海の日」なのである。私たちは、このリスボン万博と「皇室外交」の濃密な関わりの中に、現在の日本国家の対外的押し出し方(それは当然対内的でもあるのだが)の一つの象徴を見ることもできる。
 同時に私たちは、「ヴァスコ・ダ・ガマのインド到達五〇〇年」という歴史認識の問題点をもはっきりと批判しなければならない。ポルトガル投資・観光・貿易振興庁が発行した日本文の「EXPO98」紹介パンフレットは、「かつて『大洋』は、世界の新天地を発見し、人々の交流に欠くことのできないものでした。それが今では人類が共有し、発展するための新しい領域なのです」と書かれている。
 しかし私たちが、六年前の「コロンブス五〇〇年」で問いなおしたように、「ヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰回りインド航路発見」の航海に象徴される「大航海時代」とは、「世界の新天地の発見」とか「人々の交流」という歴史的文脈で語られるべきものではない。何よりも、一五世紀以来のポルトガルによるアフリカ西岸南下の航海は、「黒人奴隷狩り」の歴史そのものであった。そして「大航海時代」とは、先住民族を大量に虐殺し、資源を略奪し、過酷な支配を強制していった近代植民地主義の幕開けだったのである。
 今年二月、インドのニューデリーで「ヴァスコ・ダ・ガマ五〇〇年」を問う国際会議が開かれたが、そこでは「植民地化の開始」であったヴァスコ・ダ・ガマの「インド到達」と重ねて、植民地主義の現代的形態としてのグローバリゼーション、新自由主義が鋭く告発された。リスボン万博とは、徹底して西欧の近代植民地主義を正当化する視点から構成されている。私たちは、こうした歴史認識の犯罪性をも、今回の天皇訪欧にあたって批判していくべきなのである。
 さらに五月五日の新聞に掲載されたリスボン万博紹介の二面広告の中で、「日本館プロデューサー」の澤近十九一は「貿易量の九九・八%を担う海上輸送を安全に維持することは、日本の生命線なのである。それは『海洋国日本』ということばを実感させる数字でもあるのだ」などと述べ、海上輸送の「安全保障」と「海洋」をテーマにした万博の意味をつなげている。これも今日の「グローバル安保」を支える主張であり、リスボン万博は実に多くの側面から、私たちが立ち向かうべき今日の時代状況を体現したものなのだ。

●デンマーク――「王制福祉国家」のゆらぎ

 デンマークについては簡単にふれることしかできない。一九七一年、裕仁が天皇として歴史上初めて外国訪問した時、最初に訪問した国がこのデンマークだった。
 今回のデンマーク訪問も王室間の関係を深めていく一環であるが、王室をいただいた「福祉国家」として知られるデンマークも、外国人排斥を主張する極右勢力の台頭など、新たな社会的危機が生み出されている。四月二十八日から始まった労組のゼネストは、五月七日現在なお継続しており、階級間の対立が深まっている。そして天皇・皇后が訪問する直前の五月二十八日には、EU統合を推進するアムステルダム条約批准のための国民投票が予定されており、世論調査では反対が賛成を上回っているという。
 「王制福祉国家」のゆらぎと排外主義的ナショナリズムの高まりの中で、デンマーク王室はどういう機能を果たそうとするのか――私たちは、このあたりにも注目する必要があるだろう。                 (五月八日)

(『反天皇制運動じゃ〜なる』10号、1998.5.12)




















断念させられた女たちの
「記憶」を伝える

 ―「1000本の記憶」と「沈黙の行進」―

 

 2回目の行進を始める際、先頭を歩く主催者の女性が語った。「26年前の今日も、今日のような雨でした。しかし、どんなに雨が降っても洗い流せないこともありました」「あれから26年、何が変わって何が変わらなかったのか、考えながら歩きたいと思います」。
 そして、訴える主がもはやこの世には存在しない、あるいは語ることを断念してしまった、しかし誰かが訴えないことにはすまされないこと(事件)が、「1000本の記憶」となって自己主張を始めた。それら、「1000本」すなわち「たくさん」の「記憶」たちは、台湾の女性がデザインしたという手製の旗一本一本にしるされ、そして、基地に向かって静かに掲げられた。
 「26年前の今日」とは、1972年5月15日。「沖縄返還」あるいは「本土復帰」と呼ばれる、アメリカ占領下の沖縄が、沖縄県となって日本の一部に組み込まれた日のことだ。
 「1000本の記憶」とは、実際に確認できている件数だけでも1000を数える、米軍基地があることによって女性が受けた被害の、一つ一つの具体的な記録だ。
 この26回目の5月15日、沖縄では様々な行動が準備されていた。その中の一つが、「基地・軍隊をゆるさない行動する女たちの会」が主催する、15-6日の嘉手納基地第5ゲートでの抗議行動、「『女性たちの痛みの記憶』沈黙の行進」であった。
 準備されていた幅4〜50センチ、長さ6〜70センチの旗は、蝶がさなぎからふ化する瞬間がモノクロでプリントされたもので、その下の方に黄色の枠で「1000本の記憶」と染め抜かれている。そして、そこには被害の具体的な記述が、客観記事のように淡々と短くまとめられて、それぞれ貼り付けられていた。旗竿の長さは、旗の幅に手で握れるほどの棒がはみ出しているだけで、子どもでも持てるような大きさと軽さである。参加者たちは、一人の女性の「記憶」が張り付いているその旗をにぎり、基地の方へ向けて掲げ、静かに、ゆっくりと沈黙の行進を行うのだ。
 私も友人たちとともにこの行動に参加した。そして、沖縄ならでは、女性ならではの、ともいえる表現活動の力強さを知ることとなった。
 蝶がデザインされた旗は、文字どおり1000本ほどつくられたらしい。もちろん、その一本一本には、それぞれ「記憶」が貼り付けてある。たとえば、私が基地ゲート前で基地に向かって掲げた「記憶」はこのようなものだった。
 「軽度の知的障害をもつ26才の女性。米兵に拉致されて数日間独身兵士棟に監禁され、強姦される。その後、基地の外に放り出される」(沖縄市)・訴えず・1988
 このほか、14才の少女や9カ月の赤ん坊が暴行された事件。メイドとして働いていた女性が、雇い主アメリカ人女性教師に殺された事件など、強姦された、殺された、ひき逃げされた、等々が、一本一本の旗にこれでもかと言わんばかりに記録されている。そして、それらはどれも、胸が痛くなるような痛ましい事件だ。
 女性が受けた被害のほとんどが性暴力であり、その多くは訴えること自体が断念されている。レイプ事件の被害者であること自体が地域での生活を困難にする。差別的なこのレイプ事件特有の厄介な問題も大きいのだ。また、訴えられた事件もまともな補償があった例は無しに等しい状況だ。「1000本の記憶」となって表現されたこれらの事件は、主催者である「行動する女たちの会」が、95年の少女レイプ事件以降、3年にわたって調査した結果明らかになったものであるという。そして、これらは氷山の一角でしかないとのコメントがつけられ、この「痛みの記憶」・無念の声を基地に向かって、あるいはこの事実を知らない人々に訴えていくことが呼びかけられた。
 ゲート近くに張られた主催者のテントから、ゲート前までの行進を行い、ゲート前の小さな芝生の三角地帯では、その「記憶」をそれぞれ手にした人が読み上げるというパフォーマンスが行われた。そのとき、その「記憶」を読み上げる際のルールが伝えられた。それは、読み上げる文章の最初に「私は」という主語をつけて読むということだ。ここで私は、一つの「違和感」を感じることになった。
 私は、「私は」としてこれを読み上げることは、とてもじゃないけどできない。彼女のつもりになって訴えることはできない。「私は」として語るほど、彼女たちの痛みを共有し得るはずもなく、その語り方はうそっぽくて、いやらしいようにも思えた。どうしたって私は「私は」の主体にはなれないのだ。私は「読めない」の理由をいくつも頭の中で反芻していた。幸い私はマイクを向けられずにすんだ。このルールにいささか違和を感じつつ、しかし、マイクを向けられたら、私はおそらく拒むことはできなかったはずである。なぜなら、私の違和感を超えてその場に一つの力を感じていたし、拒むにはそれ相応の理由を提示しなければならない何かも感じていたからだ。
 この行動に集まった沖縄の人々は、みんな「私は」を主語に、痛ましい記憶を淡々と読み上げていった。そして読み上げる人々の声を聞きながら、私は私の違和感を含め、全体がようやく見えてきたのであった。
 沖縄に生きる限り、基地の周辺に生きる限り、この「記憶」を強いられた「私」に誰もがなりうるという現実があるのだった。沖縄に生きるすべての女たちは、潜在的にこれらの「記憶」の「私」として有り続けることを強要されている。沖縄では、私はこの「私」ではないが、違う「私」としてこの「1000本の記憶」に登場するかもしれないという現実が、強固なものとしてあるのだった。そして、その現実をゆるがさないものとする根拠として、眼前に広がる広大な基地が存在しているのだ。基地と隣り合わせに生きている人々が、怒りを込めて一つ一つの「記憶」を、「私は」と読み上げるのはいってみればあたりまえなのだった。そしてそれらは、少なくとも「本土」からきた私たちには、すぐには繋がらない現実であり、基地被害が自分のことでないがゆえの違和感でもあったのだ。
 無念の女たちの存在を、声を、基地に向かって訴えるという行動をとおして、過去から現在を貫く基地・軍隊による犯罪の実態を白日の下に明らかにし、いま目の当たりにしている基地がその暴力を必然のものとしていることを実感させたのだ。そして、「本土」の私(たち)からは違和感を引っぱり出し、それがいかなる違和感なのか考えざるを得ない場をつくりだしたのだ。
 彼女たちの行動は、このほか、ハンストならず「パンスト」と名づけなれたパフォーマンス(使い古しのパンティストッキングを使って、基地を囲む鉄条網に文字や絵を描く行動)や、米軍が沖縄市民に発している「ここより先、関係者以外許可なく立ち入るべからず」というような、ふざけた基地ゲート前の「警告」に対して、それをもじった看板を基地に向かって立てるなど、様々な行動が展開された(残念ながら、私は参加できなかった)。テントでは「沈黙の行進」の時間が来るまで、そこに集まった人々の発言や歌、意見交換など交流の場となっていた。
 行動に参加する人以外、人っ子一人いないといってもいいようなだだっ広い基地のゲート前である。ハデなパフォーマンスも、少しくらいの大きな気勢も、あまり効果はあがらない。そんななかでの彼女たちの行動はキワ立っていた。工夫するとは、ほんと、こういうことをいうんだなぁと、久しぶりに感じ入ったのだった。














「北のガザ回廊」=南部レバノンからの撤退を模索するイスラエル

 去る4月1日、イスラエル政府が主要閣僚会議を開き、レバノン政府と国境地帯の安全保障措置で合意することを条件に、レバノンからの撤退を求めた国連安保理決議425号(1978年3月19日採択)の受け入れを決定した。「レバノンにとって20年来の悲願であるイスラエル軍撤退受け入れ」(カイロ発、毎日新聞ニュース速報、4月2日付)であり、そこだけを取り出してみれば、それなりの「インパクト」のあるニュースと言えなくもない。
 しかし、この「条件」の中には、イスラーム・シーア派を基盤とするレバノン国内の政治/軍事組織「ヒズブッラー(アラビア語で「神の党」の意)」の武装解除、そしてイスラエルの傀儡である南レバノン軍(SLA)兵士のレバノン政府軍編入も盛られていると報じられている。また別の見方からすれば、この国連決議「受け入れ」決定はシリアとイスラエルの間での懸案となっているゴラン高原占領・併合問題を脇に置いた形での、いわば「レバノン先行」型の「和平」を目指すものだ。シリアの大きな影響下にある現レバノン政権が、こうした条件を直ちに受け入れる可能性は非常に小さいだろう。
 さらに、この決定に関連して合州国のオルブライト国務長官は同1日「記者団に対し『我々はイスラエルの決定を歓迎する』と述べ、イスラエル北部へのゲリラ攻撃などを防ぐため同国とレバノンが話し合う必要性を強調。この直接交渉実現に向けて米政府が仲介を行う可能性を示唆」(ワシントン発、毎日新聞ニュース速報、4月2日付)した。先の「イラク/湾岸危機」でミソをつけた合州国がイスラエルと連携しながら、何とかして現在瀕死の中東和平プロセスで再び主導権を握るために「ダメもとで投げた変化球」という見方すら可能だと考える。
 こうした動きに関連する報道として、4月2日付の毎日新聞は「実った母の反戦の声」という何ともクサい見出し付きで、「(イスラエル)政府が『占領』から『撤兵』へと方針転換した背景には、イスラエル兵の死傷者増に『殺し合いはもうたくさん』と声を上げた母親たちの活動がある」という形で、イスラエル国内の反戦グループの一つ「4人の母親運動」(The Four Mothers Movement;毎日新聞の記事中では「母親4人運動」と表記)を紹介し、このグループのホームページ・アドレスさえ掲載した(このテキストの最後の【付記1】を参照のこと)。
 一応、このグループに実際に取材した上での記事のようだが、現在の中東和平プロセスと被占領パレスチナの状況をみるならば、「母親たちの反戦の声」など何も実ってはいないのだと言う他ないはずだ。
 こうしたレバノンとイスラエルの状況に関連して、一つ翻訳を紹介したい。昨年末に発行されたイスラエル国内の反シオニスト左派グループの一つが隔月で発行している英語雑誌『CHALLENGE』の「エディトリアル(論説)」だ。(岡田 剛士)

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〔出典:CHALLENGE 第46号 1997年11・12月号〕

   北のガザ回廊

 イスラエル軍の兵士たちは通常、その軍務の最後の一ヶ月は特典としての休暇で任務を離れることができる。最近、レバノンでの軍務を終えることになっていた一つの部隊員たちが、送別のための夕食会をとり行うということで「安全保障地帯」【訳注1】の中にある基地に招集を受けた。兵士たちは、そのような儀礼はまっぴらだとして、こう語ったという。「なぜ俺たちがもう一度レバノンになぞ戻らなければならないというんだ? 俺たちの大隊は、もう十分な犠牲者を出してきたんだ。送別の夕食会に参加するために命の危険を犯す必要なんて、どこにもない。」(イェディヨト・アハロノト紙、1997年10月31日付)
 この逸話は、レバノンに駐留する兵士たちの間に蔓延する今現在の気分を証拠立てている。また、「4人の母親運動(The Four Mothers Movement)」という新しいキャンペーン−−レバノンから直ちに立ち去るよう、イスラエル政府に求めている−−への賛同も大きくなってきている。そのうえ〔レバノン南部での〕軍事作戦の失敗が相次いでいる。これによって、ここ数ヶ月においても多くの兵士たちの命が失われ、軍は面目を失い続けてきたのだ。
 イスラエル軍側の状況は絶望的だ。ヒズブッラー(神の党)として知られるレバノン人たちのゲリラ運動が徹底的な検討に基づく改善によって、イスラエル国防軍(IDF)【訳注2】と対等の力で対決することが可能になってきていると、イスラエル軍は今年になって認めている。「12年間の戦いの中でヒズブッラーは、待ち伏せのための場所の全てを、また給水のための場所の全てを熟知してきました。彼らはIDFの戦術や行動体系について完璧に理解しています。・・・今や彼らは、昼となく夜となく対戦車ミサイルを発射することができる、そのような段階にまで到達したのです。彼らは、ほぼ完璧な正確さでIDF側の先制攻撃と応戦について判断することができます。」(ロン・ベニ・イシャイ、イェディヨト・アハロノト紙、1997年10月31日付)
 またヒズブッラーは軍事情報という面、そして地元の人々からの支援という面でも優位を確保している。「イスラエル軍参謀長によれば、ヒズブッラーの情報を得ることはIDFにとって非常に困難であり、その一方でヒズブッラーの情報機関は着実に改善されつつあります。」(エイタン・ラビン、ハ=アレツ紙、 1997年10月27日付)
 さらに、アントワーヌ・ラハド将軍に引き入られたIDFの頼りない同盟者、南レバノン軍(SLA)の問題がある。イスラエルの国内世論は、SLAの兵士には全く関心を失ってしまった。多くのSLA兵士たちは、自らの将来を守るために公然とヒズブッラーに投降している。また他の兵士たちはSLAの内部に留まって、ヒズブッラーのためのスパイ、あるいは情報提供者となっている。
 この空前のどん底状況ゆえにイスラエル北部方面隊司令部は、高級将校たちの同席のもとで10月26日に戦略と戦術を再検討する会議を行なった。そこに参加したのは防衛大臣イツハク・モルデハイ、そして空軍司令官エイタン・ベン・エリヤーフ、参謀長アムノン・シャハク、北部戦線司令官アミラム・レヴィンなどだった。戦略レベルでは、彼らは一方的な撤退には反対することを決定した。続いて彼らは、戦術問題に直面することとなった。その焦点は、「怒りのブドウ」と呼ばれた軍事作戦(1996年4月)の後に〔イスラエルが〕ヒズブッラーとの間で合意した「申し合わせ」【訳注3】だった。多くのニュース解説者たちは、将軍たちが「申し合わせ」破棄を追求するだろうと考えている。この「申し合わせ」によって、攻撃は軍事目標に対してのみに限定されているからだ。将軍たちは、かつてのように空軍力−−今もイスラエル側が圧倒的優位だ−−を、たとえそれが〔レバノンの〕市民に命中することを意味しようとも駆使したいのだ。
 しかしながら、これまでの軍事作戦においては、空爆は全く逆効果であったことが証明されている。空爆ではゲリラたちを効果的に傷つけることができないのだ。イスラエル側の期待とは裏腹に、空爆は地元の住民たち〔=南部レバノンの人々〕のイスラエルへの怒りを煽り、ゲリラへの大衆的な支持を強めるばかりだった。ゲリラたちはイスラエル北部の諸都市へのロケット砲攻撃で応酬し、結局イスラエル政府には、アメリカとシリアに新しい「申し合わせ」のための調停を求める以外の道はない。このようにして、消耗戦がいつまでも続いている。ヒズブッラーは一層強くなり、イスラエル国内での反対の声は一層高まりつつある。我々は、これと同じ光景を以前にも目にしている。
 アラビア語紙「アル=ハイヤート」10月16日付のインタビューでヒズブッラーの指導者ハサン・ナスラッラーは、状況について次のように説明した。つまりイスラエルは、ようやくレバノンが運動場ではないことを理解した、と。しかし彼は、イスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤーフが一発勝負に出て、全面戦争を開始するかもしれないという可能性もゼロではないとした。その目標は、「この地域における支配的な強国」という地位を再び獲得することであり、それを基盤とすることによってイスラエルは「オスロ合意式」の条約への合意をシリアに強いることができる、ということなのだ。
 こうした条約こそが、中東における支配力を求めるイスラエルの戦略にあっての、まさしく「ミッシング・リンク」なのだ。イスラエルは公式には、レバノンから撤退する用意があると明言してきた−−ただし、シリアとの合意という枠組みにおいてのみという条件付きだ。だからこそイスラエルは、レバノン人たちの血が流れることの責任はアサド大統領にこそあると非難することができるという訳だ。しかしアサドは、オスロ合意がパレスチナ人とヨルダンに何をもたらしてきたかを十二分に知っている。だからアサドが、どうしてその後追いなどするだろうか?
 つまるところの現実とは、つまり1997年のレバノンにあってイスラエルは、自らが一種の「ガザ回廊」に居ることを発見した、ということだ。湾岸戦争の後のイスラエルは、ガザ回廊をその手から引き離して無料で引き受けてくれるカモを探していた−−このことを思い出すべきだ。そしてイスラエルは、ヤーセル・アラファートという人物の中に、それを見い出した。そしてアラファートは−−彼の民衆の利益とは全く矛盾する動機から−−占領の下請け人としての地位を得ることと引き換えに、イスラエルを泥のぬかるみから引っ張り出した。一方、アサドを形作っているのは別の素材である。彼は、自らの地域的な利益拡大を追求する1つの独立国を統治しているからだ。イスラエルが耐えに耐えた後に「新しい中東世界」での支配的な強国となることを諦める日が来るまでは、軍事作戦が相次ぎ、戦争また戦争という事態が続くだろう。

【訳注】

1)安全保障地帯:英語のテキストでは「security zone」。もちろん南部レバノンのイスラエル軍事占領地域のことだが、イスラエルでは絶対に占領地とは表現しないのだ。ちなみにガザ回廊とヨルダン川西岸地区についても、ずっと「管理地域」という表現が使われてきた。

2)IDF:Israeli Defense Forces−−イスラエル防衛軍あるいはイスラエル国防軍というのが、他国の首都にまで爆撃を仕掛けて住民を殺戮しても「自国の安全保障のため」と語ってはばからないイスラエル軍の正式名称である。3)申し合わせ:1996年4月26日に合意された「CEASE-FIRE UNDERSTANDING」(停戦の申し合わせ)のこと。イスラエル外務省のホームページ[http://www.israel.org/peace/basicref.html]に掲載されている。ちなみに、このホームページには歴史的な中東紛争に関する国連安保理決議や、合意文書、条約などがある程度まとまって掲載されている。

【付記1】

 ここに名前の出てくる「4人の母親運動」のURLアドレスは http://www.angelfire.com/il/FourMothers/ となっている。「北部イスラエルに住み、イスラエル国防軍に息子たちが従軍している4人の母親たちが設立した、イスラエル政府に対してレバノンから平和的に去ることを求めるイスラエル人たちの運動体」と書いてある。自らのホームページに平気でイスラエル国旗を貼り付けておくあたりは、分類すれば「シオニスト左派」だが、「良心派」ということも可能ではあろう。インターネット経由の電子メールでレバノンの人々との意見交換も行なっているということで、これ自体としては興味深い取り組みだ。

【付記2】

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フランスの新たな移民法とサン・パピエたち

コリン・コバヤシ●美術家

 現内務大臣シュヴェンヌマンによる移民法が5月12日に公布され、即実施される。パスクア・ドブレ法という保守政権に作られた排他的な移民法が今回の改正法で、どこまで民主化されたかが問われることになった。この新法によっても、なお滞在許可申請者の42%が拒否に遭うという。ということはほぼ8万人近い移民たちが国外退去に処せられることになる。サン・パピエ(サン・パピエ : 証明書を持っていないという意味で、滞在許可を持たぬ移民)問題は大きな試練に立っている。5/30日ですべての申請期限が切れるからである。確かに前法に比べ、外国人を滞在させるための滞在証明が簡潔化されたり、ヴィザの拒否は理由が明確でないかぎり、行政による拒否は不可能になった。国際結婚者には即国籍を与えたり、家族の集合、学生、研究者に対する滞在許可の取得は、容易になった。だが、国が「国益」という概念を前提にして、移民を拒否したり、しなかったりする基本的な方法は何ら変わっていないのだ。国民国家という名の国家が、国家にとって不利益だと判断する(一体誰が!)人間を、排除する、追放する。根本的なところでは、極右のフロン・ナショナルや社会党が主張するところと大差はない。つまり、国家を形成し、国家に利益をもたらす集団と、そうでない集団とに暗黙のうちに分断されているのだ。そしてそれを判断するのはやはり国家権力にほかならない。多く受け入れるか、いないかは、寛容と慈悲の度合いによるというわけだ。これは、明らかに、地上におけるあらゆる人間の平等を説いた「自由・平等・友愛」の人権宣言と合致しない。移民問題が、本当の意味で、労働問題、社会・福祉の問題、また経済の問題としては捉えられていないことは、管轄機関が、労働省や社会福祉連帯省ではなく、内務省であることからも察せられる。移民は国家の安全保障に関わる問題として捉えられているかぎり、人権宣言の精神は実現できそうもないし、この形だと、常に「不法」移民を産出することになる。

 演出家で映画監督のパトリス・シェロー、演出家で俳優のスタニスラス・ノルディー、映画監督ジャン・リュック・ゴダール、アンヌ・マリ・ミエヴィルの4名は、「サン・パピエ/まだ間に合ううちに」という痛切なアピール記事をル・モンド紙に寄せた。それは、西欧が行使してきた黒人奴隷制度を自己批判したうえで、多くのアフリカ人、マグレブ人、あるいはまた東南アジア人が、フランスに移住してきたのは、止むに止まれぬ理由があるからだと主張し、言い方を変えれば、戸口に立った人間を受け入れろ、と主張しているのだ。改正法の中にもある独身者や同性愛主義者たちに対する差別を糾弾し、「自由・平等・友愛」の理念にのっとった共和制の政治を究極まで推し進めることを主張する。彼らは8万人追放されるものがいるなら、8万人のフランス人が保証人になって、「共和的親代わり」を達成しようとアピールした。
 16日土曜には、数万人規模の大きなデモが組織され、5/16から5/18日まで、パリの北郊外サン・ドニ市のジェラール・フィリップ劇場では、サン・ドニ市長の仲介で、サン・パピエの人達とフランス人の「共和的親代わり」の儀式が次から次へと休むことなく行なわれた。この三日間で、親代わりを申し出たフランス人は、二千名近い。