alternative autonomous lane No.5 1998.6.20 |
目 次
【議論と論考】
天皇訪欧問題から九月金大中来日・天皇会談に向けて更なる討論を!(桜井大子)
国策に奉仕する「知の技法」―山内昌之の発言に触れて(太田昌国)
【コラム・表現のBattlefield】
「食べる・飲む・語る・出会う」を通して文化=存在を伝える―「風の家」――レラ・チセ(桜井大子)
【書評】
デイブ・デリンジャー著『アメリカが知らないアメリカ』(ダグラス・ラミス)
【反天論議】
「君が代」を歌って「大人」になろう!―渡る世間の自己規制の仕組み考(青山薫)
天皇訪欧問題から九月金大中来日・天皇会談に向けて更なる討論を!
桜井大子●反天皇制運動連絡会
●沖縄米軍基地と安保・有事法制問題
一九九七年二月二一日から、まる一年をかけて行なわれた、米軍用地強制使用手続きに関する沖縄県収用委員会は、当初目標に掲げられていた「実質審理」を文字どおりやりきり、そしてこの五月一九日、地籍不明地一三筆を却下した。「一三筆」を地主の数で勘定し直すと三〇〇〇人近いといわれる(一坪反戦地主を含む)。これはかなりの却下率だ。少なくともこの収用委員会と公開審理を支えてきた沖縄の人々にとっては勝利、と呼べるものであるにちがいない。
しかし、この却下採決を経た現在も、昨年に改悪された特措法により強制使用が可能なものとなっている。相変わらず米軍は好きなだけ土地を強制使用できるのだ。そして、つい先日の六月五日、PKO法の改悪案が参院本会議を通過、成立した。特措法改悪も、このPKO法改悪も、アッという間の成立であった。このような沖縄の粘り強い闘いを無にしてしまうような議会を、日本政府を、いつまでも許しておけはしない。これらこそ、「本土」とりわけ首都圏における反基地・反戦・反安保運動に問われている課題でもあろう。今秋の国会がヤマだろうといわれる自衛隊法の改悪、周辺事態法、組対法、住民基本台帳法等、一連の有事法制化の動きに対して、何としても、これまでにない大きな反撃の声と行動をつくり出していかねばならない。これらについては、「沖縄の反基地闘争に連帯し、新ガイドライン・有事立法に反対する実行委員会」(新しい反安保実・。)や、関係諸団体・グループ、個人が連携を保ちながら、行動や署名活動など、既に具体的な模索を始めている。反天連も、これらの行動に可能な限り合流し、ともに活動を担うつもりである。詳細は、本紙を含め様々な運動メディアで伝えられるはずだ。より多くの方の協力、参加を要請したい。
国会での審議とその内容報道、それらに対する様々な視点からの分析・評価の紹介、平等な情報量で人々が判断できる環境を保証させることなど、民主主義を標榜するのであれば当たり前のことであるように思うが、少なくともメディア上では実現されていない。そして「これが世論なのだから」という奴らは、世論が作られる際の大きな要素に、この不自由な情報環境を数えてはいないのだ。もっとも奴らとは、情報操作をやっている部分とほぼ同一であることを思えば当たり前の話かもしれないが。 このせっぱ詰まった状況下で、このような話はまどろっこしくていけない。しかし、このような前提も私たちは考慮に入れて運動を作っていかなければならない局面に、ずいぶん前から突入しているのだ。もちろん、世論を作り出していくことを目標とする運動をめざしているわけではない。しかし、情報戦・メディア戦において優勢に立つのが困難な現在の運動にとって、これからの有事法制化との攻防などを考えれば、これは無視できない大きな課題であることは明白であるのだ。そしてその有効な打開案を、私たちはまだ見つけきれているわけではない。多彩なアイデアと工夫を目下模索中である。このような「運動を作る」という側面での協力も、ぜひお願いしたい。
●天皇訪欧から訪韓への道のり
マスコミが報じていたとおり、天皇・皇后は五月二三日からポルトガル・イギリス・デンマーク訪問に出かけ、六月五日に戻ってきた。現時点で出ているマスコミ報道は限られている。詳細な分析や私たちサイドからの評価というものは、これからという側面は残る。しかし、すでにいくつかの問題は見えてきている。たとえば『朝日新聞』が一貫して押し出していた日英和解劇がそうだ。
訪欧の二カ月ほど前、元英国兵捕虜の戦友会「イルカボーイズ」約三〇名が、横浜市保土ヶ谷区にある英連邦兵士の墓を参拝し、その実現に尽力したといわれる恵子ホームズさんが付き添ったという記事が、『朝日新聞』の一面に大きく報じられていた。その後、彼女は元捕虜の人たちとともにエリザベス女王からウィンザー城に招かれ、第四級勲功章を贈られるという記事が、後追い的に出された。それだけでも結構すごい話であるが、実際は、天皇の歓迎晩餐会にも彼女は呼ばれ、彼女の言葉まで記事となっている。
イギリスのそういった対応自体、日本との関係についていえば、メンドーなことはできるだけスムーズかつスマートに片づけてしまい、これからの日英関係を模索していきたい、そしてその潤滑油にもってこいのイベントとして、このかんの王室間外交を捉えられていたことがわかる。一方、日本政府にとって捕虜問題は、ちくちくと痛むトゲである。そして、そのトゲを抜き取らずとも、痛みを止める薬をなんとかひねり出したいのだ。たとえば天皇に謝罪させてみるという薬などを。イギリスにしたって、そのような妙薬を否定しているわけではない。今回のイギリスの対応がそれを物語っている。
しかし、政府の見解とは別に、当然ながら猛烈な批判の声や行動があったことが、新聞紙上でも読める程度に、日本にも伝わってきている。訪英最初の『朝日新聞』(5月27日)の報道で最初に目に付いたのは、晩餐会に向かう天皇・皇后のパレードの記事だ。そこには「沿道の一角に集まった元日本軍捕虜とその家族は、日本政府に補償を求め、馬車列に背を向ける抗議行動。歓迎一色の風景とはならなかった」と始まる。本文もほぼこの抗議行動についてまとめられ、「パレードの沿道で馬車列に背を向けてブーイングをして抗議する元日本軍捕虜の英国人たち」というキャプション付の大きな写真まで入っている。
訪英の第一報ともえいる記事がこれだ。ところが、実際はこんなものではなかった。たとえば、五月三日付英・インデペンデント紙の記事だ。その記事を紹介した『産経新聞』(5月21日)にはこうある。
「『あなたは彼らを許せるか』との見出しで、天皇陛下と殺人犯の写真を一緒に掲載した記事が五月三日付の英・インデペンデント紙の日曜版に掲載された。外務省は二十日、記事について、英国側に謝罪記事を求める文書を送り抗議したが、五月末の陛下訪英前に、こうした記事が高級紙といわれる新聞に掲載されたことに頭を痛めている」(注:「あなたは彼らを許せるか」の原文は
Can you forgive them?)
この『産経』の記事も写真付きだ。たしかに記事に囲まれた四人の殺人犯の顔写真の一つがアキヒトになっている。実際の記事は、刑期を終える、あるいは釈放されるなどした殺人犯を具体的に例を出し、彼らを許せるかどうかという内容らしい。そして、戦争責任を免罪された大量殺人犯天皇についても、同様に市民の判断を仰ごうという趣旨なのではないかと推測できる記事なのだ。
この記事を紹介しているのは、今のところ『産経新聞』と『週刊新潮』だけのようだ。そして、どちらの論もほぼ「だから、そんな屈辱的な皇室外交はやめろ」「謝罪や補償問題は、象徴である天皇のやるべきことではない」てなところに落ちつく。一方、同じ情報を手にしていたハズの『朝日』は、ほとんど何が起こっているのかわかりようもないようなベタ記事だ。大きく取り上げたイギリスでのブーイング記事は、例の捕虜問題だけ。しかも、この記事には「和解劇」がピッタリとくっ付いている。しかも、王室間外交がその美しい「和解劇」を盛り上げるものとして押し出されているのだ。
アキヒト時代の皇室外交をめぐる「天皇は元首として、象徴として『外交』の場で働くべき」と「天皇を政治的な場、しかも『屈辱外交』の場に引っぱり出すべきではない」という右派同士のバトルがまたもや、皇室外交再開と同時に始まったのだ。
九月には金大中韓国大統領が来日する予定になっている。金大中は、天皇訪韓のための環境づくりに頑張る、との発言をすでに出している。今回の金来日の際には、おそらく天皇との会談が入れられるはずだ。天皇はここでまず、日韓「和解劇」の序章を成功させなければならない。訪英の時のように、事前に首相が来て簡単な打ち合わせでことがすむというようなわけにはいかないのだ。周到に準備がなされていても、実際の訪韓は天皇自身にとっても、かなりの困難が予想される。今回の訪英の際の元捕虜の人たちによる抗議行動に対して、『産経』は「両陛下は、それらを全身で受け止められているように思えた」と評している。このような記事自体、ドブに捨ててもいいようなものである。しかし、このような「試練」に天皇自身どれくらい耐えられるのか、メディアはどのように報道するのか、世論はどのように動くのか、政府の側は知っておきたいに違いない。そういう意味では、今回の訪欧は、政府の側にとって一種の予行演習的な要素を含んでいたということもいえるのかもしれない。
私たちは、九月の金大中来日を射程に入れた八月へむけた取り組みの準備を始めた。討論されねばならないことは山積している。まずは、六月十二日の討論会への参加を呼びかける。(『反天皇制運動じゃ〜なる』11号、1998.6.9)
田口裕史●アジア民衆法廷準備会
韓国政府が、日本軍の「慰安婦」とされた被害者たちに、支援金の支給を開始した。ここにいたる経緯と、支援金支給の意義については、本誌前号で金英姫氏が報告(「韓国政府による元『慰安婦』への支援金支給――『国民基金』ではなく、日本政府による謝罪と補償を」)しているので詳しくはそちらをお読みいただきたい。金英姫氏が指摘している通り、これは、「国民基金」側にとって決定的な打撃となるだろう。「日本国民の善意」に基づく「国民基金」による問題決着が不可能であることは、もはや誰の眼にも明らかになった。多くの困難がいまだ残っているとはいえ、今回のこの事態の変化は、元「慰安婦」への国家補償実現に向けた大きなステップとなるはずだ。いや、そうしなければなるまい。日本政府は、もうこれ以上責任回避して逃げまわるのをやめ、早急に国家補償の実現をすべきである。
ただ、今回の支援金支給をもう少し広い視野で捉えるならば、これを手放しで歓迎することにはいささか躊躇を感じざるをえないというのも正直な気持ちだ。前回の金英姫氏の報告は元「慰安婦」への国家補償実現問題に焦点を絞ったものであったが、今回私は、これを別の角度から検討してみたい。
●支援金支給の意図
第一に、支援金支給を決定した韓国政府の意図が何であったか、また韓国政府の視野に、はたして他の被害者たちの姿が入っているかどうかという疑問がある。
支援金の支給が、金大中大統領の言う「過去の清算」を目指したものであることは明らかだが、韓国政府が本当に「過去の清算」を考えているのであれば、元「慰安婦」以外の侵略被害者への謝罪・補償の実現を口にしても良いはずではないか。しかし、少なくとも日本での報道を見る限り、韓国政府は必ずしもこのような姿勢を見せてはいない。それどころか、いぜんとして(「慰安婦」問題を含め)「個人補償を要求しないというのが我が方の真意だ」とのメッセージを日本政府に伝えているとの報道もある(『朝日新聞』五月二九日)。
「過去の清算」を本気で行なおうとすれば――つまり、すべての侵略被害者への謝罪・補償を実現しようとすれば、それはたいへんな作業になる。しかし韓国政府の述べる「過去の清算」のなかにこうした重大な作業を日本に求める真剣さを読み取ることは、私にはできない。
そもそも問題点が個人補償を拒む日本政府にあることを承知であえて言えば、韓国政府の目指すものは、すべての侵略被害者への償いの実現ではなく、日韓の「友好的な関係」を阻害する最大の要因と言ってもよい「慰安婦」問題の沈静化であると見るべきではないか。「慰安婦」問題さえ沈静化させれば、日韓関係の強化をはかることもできる。さらに言えば、元「慰安婦」への国家補償が実現せずとも、支援金支給によって「国民基金」をめぐるゴタゴタが静まり、争点が一つ解決しさえすればそれはそれで良いという計算も、韓国政府は持っているのではないか。支援金の支給を日本の外務省幹部が「日韓関係改善のため、支援金支給によって、日本に個人補償を求める元慰安婦や艇隊協の声を冷まそうとした」ものと受けとめた、との報道もなされている(前述『朝日新聞』記事)。その意味では、粘り強い多大な努力により支援金支給を実現させた韓国艇身隊問題対策協議会の意志と、韓国政府の意図との間にはズレがあると思われる。
誤解のないように付け加えておくが、私は「支援金はごまかしで、評価できない」と言いたいのではない。日韓両政府がどのような意図を持っていようと、私たちの運動が今回の支援金支給を利用し、すべての被害者への国家補償実現を目指して努力を払うべきだということを私は述べたいのである。日韓両政府の思惑通りに事を運ばせてはならないということを言いたいのである。「過去の清算」が、「慰安婦」問題に限定されないのだということを、そして元「慰安婦」を含むすべての侵略被害者への国家補償の実現なくして「過去の清算」はありえないのだということを、私たちは訴え続ける必要があるだろう。
●天皇訪韓と「過去の清算」
第二には、韓国政府の述べる「過去の清算」が、過去への反省に逆行する日韓関係の樹立につながるのではないかとの疑問がある。
金大中大統領は、元「慰安婦」への支援金支給を決定する一方で、天皇の韓国訪問を希望するコメントを述べている。今年四月二九日の会見では、「一番近い友好国の元首が訪韓できないことは不自然だし不幸なこと。今秋にも予定されている日韓首脳会談で全般的な真摯な討論を続ける中で解決できると思う」と述べている(『産経新聞』四月三〇日)。しかし言うまでもなく、「過去の清算」と天皇の存在を両立させることはできない。天皇の訪韓を可能にするため条件を整えるのは、侵略に関する天皇の責任を不問に付すということでしかない。
日本の「保守本流」の政治家たちのなかには、侵略の歴史を「正常な外交関係の障碍」と見なす傾向がある。たとえば、一九九五年当時新進党副党首だった羽田孜は、「戦後五十年国会決議」に関する新聞インタビューで、決議を推進する立場から次のように述べている。「自衛隊が国連平和維持活動(PKO)で海外に出ることに対し、アジアの国々にはなお、過去の日本軍の侵略と結びつけてとらえるむきがある。過去の謝罪をあいまいなままにしてきたツケは大きいと思います」(『朝日新聞』九五年三月一六日)。羽田は、「パール・ハーバー」から五十年目にあたる九一年にも歴史総括の国会決議の提起をしていた。九一年といえば、「湾岸戦争」のあった年。前年の「湾岸危機」への対応をめぐる議論とも関連して、日本の「国際貢献」の必要性がより強く主張され始めた時期である。アジアで覇権を握り、武力行使さえも可能な「普通の国」を目指すためには、過去を「清算」することが必要となる。忌まわしい歴史を葬り去る必要がある。あの「戦後五十年国会決議」は、まさにそのような意図の下に推進されたと言えよう。
私には、金大中大統領の発言が、残念ながらこうした日本の政治家の発言と重なって聞こえてしまうところがあるのだ。同大統領は、右に引用した四月の会見で、次のようにも述べている。「日本国民の大多数は『過去』に直接関係したわけではなく、何が起きたか知る立場にもない。したがって、われわれは歴史に対する明確な清算を通して新しい親善の時代を築かなければならない」「『過去』を完全に清算して国民レベルの親善をつくることを心から固く決意している」。ここに述べられている内容は、単純な「未来指向」とは一線を画すものだとは思う。ただし、彼はどこまで本気か。
金大中大統領の述べる「過去の清算」は、会見内容から判断する限り、あくまでも戦後補償や謝罪の実現に限定されるもののようである。その意味では、やはり、右の羽田らの思考とつながってしまうものがあるのではないか。二〇〇二年には、サッカー・ワールドカップの日韓共同開催がひかえている。「慰安婦」問題や天皇問題など日韓の政治的障碍を取り去ってこの企画を無事成功させることは、経済的な効果にも結びつくだろう。もちろん、ことはワールドカップに限らない。天皇訪韓が、こうした文脈のなかで語られているのは、明らかだと思う。金大中大統領が本当に「過去」と向き合おうとするのであれば、天皇訪韓を拒否すべきであるし、またたとえば日韓米の軍事的関係を解消するなど、これまでの日韓関係を根本から問い直す必要がある。これはまさに本来的な意味での「過去の清算」に属する問題だ。
私は、かつて韓国の同世代たちとの対話の中で、「韓国もベトナム戦争で残虐なことを行なった。同じ課題を持つ者どうしとして、協力しあいたい」と言われたことがある。私たちはともに「『過去』に直接関与したわけではない」世代に属する。しかし、韓国の国家的犯罪行為を彼らは見つめ、批判し、克服しようと努めていた。たんなる被害者と加害者の関係にとどまらない、問題共有の可能性を私はそこに感じた。侵略の歴史への責任追及作業は、謝罪や補償の実現だけではなく、常にその時代の国家、政治、文化に対する批判的視角を磨ぎ澄ますものとしてある。
一九九〇年以降の戦後補償要求運動のたかまりのなかで、日本では「戦争責任」を被害者への補償の実現という問題に限定して論じ、捉える傾向が生じているように思う。しかし、被害者への国家補償の実現は、日本の「戦争責任」問題のすべてではない。侵略の責任を追及する私たちの運動は、国家補償が実現した後も、継続される必要がある。
侵略の責任を不問に付し、歴史を葬り去る形での「過去の清算」のデタラメさを、私たちは運動の中で強く主張し続ける必要があるだろう。(『反天皇制運動じゃ〜なる』11号、1998.6.9)
岡村達雄●関西大学教員
九八年二月二四日、福岡地裁でゲル二カ裁判で原告敗訴の判決がだされた。さらに三月から四月にかけて所沢高校での生徒たち自身による自主卒業・入学集会が、校長による卒業・入学式に対抗して開催され広く全国報道された。学校の儀式的行事たる卒業式・入学式は学校をめぐる問題であることをやめていない。
ゲルニカ裁判は小学校卒業式において卒業記念として制作した児童たちの作品「ゲルニカ」の式場展示を校長が一方的に排除し、これに抗議した卒業証書授与の際の女児たちの発言、それに呼応したとする担任教師の言動をもって出された戒告処分を不当として争われてきたものである。この処分(一九八八年六月二七日)は、文部省による「日の丸・君が代」徹底通知(一九八五年九月五日)以後の強制反対の一連の状況の中での教員への処分として出されたものであった。その後の人事委員会裁定(九三年一二月九日)、福岡地裁への提訴(九四年二月二八日)を経て、裁判では処分事由で女児の発言を問題としている点で、実質的に児童への処分とみるべきだとされ、原告側は子どもの「意見表明権」を問う裁判と位置づけてきた。判決は一般論として「子どもは単なる保護の対象ではなく、意見を表明する権利の主体と認識されるべきである」としたうえで、それは「無制限」でなく「制約が存在する」とした。ここから児童の発言を「小学校生活の締めくくりとしての卒業式の場に相応しいものでないという意味で、常識的にみて適切なものとはいえない」とし、さらに「卒業証書授与の際の決意表明におけることを考慮すれば、これが適切なものであると評価することができない」とさえ記した。これは言うなれば〈裁判所が子どもの発言を裁く〉ものであり、行政処分庁と司法当局による〈共犯〉とされるべきものである。原告最終準備書面は「内容が適切かどうかという評価は何人もすべきでないし、まして『児童の不適切な発言』として懲戒処分の理由中に掲げることなど決して許されない」と当然の主張をしており、これに対する真っ向からの応答であった。この六月三〇日から開始される控訴審では、意見表明権には制限はなく、制限も課されないという一点を貫く論理と思想が問題となろうが、それに加えて卒業式とは何か、「日の丸・君が代」とセットのそれは何か、それらも問われることになるか、注視されるだろう。
一方、所沢高校問題は学校における生徒の意見表明、思想・良心・表現の自由をめぐる問題の所在をあらためて明らかにした。卒業・入学式とはいったい何であるのか、それを考えさせるものでもあった。公教育は国家が教育を「保障」し支配するシステムである。これをどのように批判、解体し、それに代わる教育の在りようを創出するか、それを問題にしてきた。ことはそんなに簡単なことではもちろんない。国民国家の形成と持続にとって国民教育は「想像の共同体」にとって不可欠な要件として、国語や愛国心とともに国旗、国歌などを重視してきた。それは近現代天皇制にとっても同様である。学校という空間が儀礼的空間として象徴権力という強制力によって視覚化されるたびに、日本の学校は天皇制が背景に控えていることを想起させる装置であり続けてきた。たとえば「日の丸」が校旗や府旗などと三点セットで年中、京都府立高校の屋上に掲揚され、いやおうなく通行人の目に入ってくるような風景に出会わされて、毎日どうにかならないかと思案し出してからもうひと昔になる。こうした事態になんの有効な手だても打てない立場に置かれ、それに甘んじているわけではないとしても、結果的にそれを容認してきたことに代わりはない。納税者人権基本法でもできれば人権侵害で問題にすればよい、そう友人がいっても実際的な方法というわけにはいかない。京都「君が代」訴訟は住民訴訟であり、納税者訴訟といえなくはないが、上告中に至るこの一〇数年の経緯も時代状況を十分に受けとめてきたと言い切れないところがあると思ってきた。
こうした事態の進展には国体をはじめサッカー・球場・相撲などスポーツを介した「日の丸・君が代」の国旗・国歌化という社会意識レベルでの日常化とその加速化がある。それは冷戦体制以後の世界の市場競争化、自由化、規制緩和に伴う遠心・求心力の政治力学が惹き起こしているナショナリズムの日本におけるひとつの現実を反映しているものである。こうした状況にどのように対応できるのか。
この点で、この同時代に広がってきた不登校の問題を考えてみる必要があるのではないか。不登校の前では、学習指導要領による国旗・国歌の義務化も、卒業式も入学式もそれ自体が無用というようなことになっている。不登校に伴う形式的卒業認定、中学校課程修了検定試験、「大検」に際しても事情はほぼ同じである。去る五月一日に『不登校新聞』が月二回刊で創刊された。すでに東京、名古屋、大阪で創刊記念集会が開催され、今後全国紙としてネットワークが形成されていく勢いである。これは日本近代の始まり以来、一貫して国家によって組織され大衆的受容によって拡大普及してきた学校および学校化社会に対する、かつてない公然たる〈異議〉といってよいし、歴史に刻まれるものとなるだろう。これまで学校をめぐって様々な教育政策批判、ストライキ、バリケード封鎖による学生叛乱、校内暴力などがあった。それらに比して子どもたちの不登校は「学校へ行くのは当たり前」ということで成り立ってきた社会常識をはるかに越えた地点に踏み出している。不登校の子どもたちとその家族、それにかかわる多様な人びとは想像をこえる規模でこの社会に暮らし続けている。それが公教育の根幹を問うものであり、「登校」という制度的実践の安定性と継続性を揺るがすような「社会的」広がりとなっている点で十分「社会問題」なのである。これを既成のメディアに依拠することなく自前のメディアを立ち上げて問うこと自体も十分に「社会問題」なのである。このいかにも手作りの「壮挙」に踏み切った友人たちに荷担していこうと思ったのは、それが学校そのものを問題にしていくことになると思ったからである。意見表明する子どもたちと不登校の子どもたちをつなぐものはなにか、それが問題である。
果たして不登校はこれまでの「日の丸・君が代」問題の枠組を揺るがしていくであろうか。(一九九八・六・六)(『反天皇制運動じゃ〜なる』11号、1998.6.9)
土地強奪への沖縄の<怒り>
沖縄県収用委員会裁決をめぐって
天野恵一●反天皇制運動連絡会
5月19日、沖縄県収用委員会は裁決を行った。
予想通り、13筆の土地については強制使用権を認めないはじめての却下裁決を含むものであった。
その日、沖縄の軍用地違憲訴訟支援県民共闘会議・権利と財産を守る軍用地主会・一坪反戦地主会・反戦地主弁護団・一坪反戦地主弁護団の共同声明が出された。
その声明は、争われた13施設242筆の対象土地のうち229筆については、強制使用権を設定することを認容したことについての批判がまず語られている。
「今回の229筆の土地についてなされた認容裁決は、地権者の意思を踏みにじるものであり、公開審理の経過から見ても到底容認できるものではない。ここに、強く遺憾の意を表明するものである」。
だが、地籍不明地域(個々の地主の土地がどこからどこまでかはっきりしていない地域)内の13筆の土地の却下については、こう論じている。
「今回の裁決は、過去の収用委員会の誤った判断を糺し、法的常識に合致した本来あるべき正しい判断を下したものであり、その点においては沖縄県収用委員会がその中立性を維持したものとして評価するものである」。
やっと、実質審理が実現した成果を、ここで確認していることはまちがいあるまい。政府・防衛施設局に、「裁決の取り消しを求めるための一切の画策をやめ」、却下された土地をすべてすぐに明渡せと要求しているこの宣言は、政治的圧力を受けながら、限定された権限(その権限の解釈についても問題はあるのだが)の中で「却下」判決が出されたことについては、当然にも積極的に評価しているのだ。
『沖縄タイムス』(5月23日)にはこうある。
「今回の裁決で中間利息の控除率は5%の申請に対し、0.25%と大幅に引き下げられた。一括前払いにされる地主の不利益を最少限にとどめようとする配慮がうかがえる」(「県収用委却下裁決(中)」)。
こうしたところにも、収用委の「中立」へ向かう努力が示されているといえよう。
こうした裁決を前に、私たちは、あらためて思い起さなければならないことがある。
6月4日、「沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック」主催で「土地を明け渡せ!−−米軍用地強制使用却下裁決緊急報告集会」がもたれた。
その集会で、反戦地主会弁護団松島暁は、却下された地籍不明地を図表で説明しながら、こんなふうに語ったのである。
「例えば、嘉手納飛行場の場合、こんなふうに、却下された土地が航空路にあるわけです。極東最大といわれている空軍基地が、使えなくなってしまう、こういう内容のものなんです」。
米軍用地特別措置法を、却下されても、裁決の取り消しを政府(防衛施設局)側が申請すれば、建設大臣の意思で、そのまま強制使用し続けることができる方向への改悪。これが、この公開審理の第三回目の時点で明らかになった。そして、それはアッという間に国会を通過した。
私はこうした動きに抗議する運動の渦中で、こう論じた。
――ところが、試合中に負けそうな方が、自分の有利なようにルールの変更をするというデタラメ、こうしたデタラメが改悪案にはもられていたのだ。収用委が裁判申請の却下裁決をした時でも、国側(防衛施設局)が不服申し立て審査をすれば、審査中も使用継続が可能だという内容がそこにある。結局、国側の強制使用の要求が認められるまで、国は強制使用し続けられるというのである。――
――それは、決定的な沖縄特別差別立法である。と同時に、これが通れば、国家は、軍事目的のために私有地をまったくフリーハンドで使える権原を持つようになり、地域住民はもちろん、地方行政からもそれをチェックする制度を奪ってしまうことになる。憲法が保障する権利を、国家が奪うことを合法化する。文字通りの「有事法」としてそれはあるのだ。――(『インパクション』102号の「視点」の文章<1997年4月刊>)。
この改悪も、沖縄の人々の圧倒的な反対の声をまったく無視して、スピーディになされてしまった。
基地・軍事問題については、地域住民から一切の発言権を奪い、生活者の権利をふみにじることへの抗議も許さない。こうした「有事立法」は、やはり却下裁決が出て、軍事基地使用ができなくなり、安保体制に、大きな風穴があけられてしまうことになること、これを見こした政府の「無法」の立法だったのである。
このデタラメな「改悪」の結果、却下裁決が出ても、米軍も政府(防衛施設局)側も、すずしい顔をしていられるのである。
「沖縄メディア」は、大きく沖縄の抗議の声と動きを取りあげ続けているが、「本土(ヤマト)」のマス・メディアでは、ほとんど記事にならない。
直接に権利を、生活をふみにじられる人々の怒りの声は、マス・メディアに黙殺される。
私たちは、こうしたメディア状況への<怒り>を欠落させて、沖縄の<怒り>と連帯することはできまい。(『派兵Check』69号、1998.6.15)
国策に奉仕する「知の技法」
―― 山内昌之の発言に触れて
太田昌国●ラテンアメリカ研究家
『史料:スルタンガリエフの夢と現実』という本が出版された(東京大学出版会、1998年3月)。タタール人に生まれロシア革命初期の激動の時代を生きた[そして大急ぎで付け加えなければならないが、早くも1923年にその《反革命》活動の故に逮捕され、その後数回の逮捕の果てに40年に粛清され、そしてペレストロイカ期の90年に(!)名誉回復された]このムスリム共産主義者の主張に、直接触れることができるのは、大きな刺激である。ヨーロッパ偏向のマルクス主義(したがってボリシェヴィキ指導部)を批判し、いち早く「第三世界」の重要性を指摘していたスルタンガリエフの論文・演説・手紙の主なものが本書で紹介されている。社会主義とナショナリズムに関わるそれらの論稿は、ソ連社会主義が無惨な形で崩壊し、イスラム・ナショナリズムに限らずおよそナショナリズムなるものが困難な試行錯誤を繰り返しているさまを見届けつつある時代を生きる私たちにも、なお訴えかけるものがある。
さて、ここで私が触れておきたいのは、スルタンガリエフの魅力ある思想について、ではない。本書の編集・翻訳を担当したのは歴史家・山内昌之だが、彼の「表現」の形に関して、である。山内は1986年に彼が『スルタンガリエフの夢:イスラム世界とロシア革命』(東京大学出版会)を著した時には利用できなかった史料にその後出会うことで、この史料集の刊行が可能になった、という。史料集の編纂方法も、巻頭に彼が書いている解「説も」、史料に即してスルタンガリエフとその時代を描きだすことに成功しているように思える。「解説」のなかで私が違和感を感じたいくつかの表現の中から、後段に述べることとの関係でひとつだけ取り出してみる。「アメリカで言論の自由を享受しながらリベラルな民主主義の価値と意味をしきりに疑う、世紀末のアラブ系比較文学者の屈折したポーズ」とか「アメリカ東部海岸のエスタブリッシュされた大学に籍を置きながら安全地帯で冷笑的発言を繰り返すのとは訳が違う」という形でエドワード・サイードを引き合いに出して、スルタンガリエフを際立たせようとする、その方法に関して、である。いかにも学術的な言葉遣いで山内が続けてきた叙述は、ここで突然崩れており、サイードに対するこの「敵愾心」が何に由来するのかは山内の歴史方法論にも関わってくる問題だとは思うが、ここではこれ以上は触れずに、彼の「解説」が全体として、読むに堪える水準で書かれていることだけを繰り返しておくにとどめる。そのことは、山内が蓮實重彦との共著『われわれはどんな時代を生きているか』(講談社現代新書、98年5月)で書いている「知的挑発」に満ちた五つの文章についても言えることである。
さて、ところで、次の発言を読んでみよう。「(周辺事態法案は)日本が対等の立場でアメリカと相互に協力し、信頼感を醸成する観点からも大きな意味をもっている。湾岸戦争で日米間に亀裂が走ったのは、相互信頼という互酬性(レシプロシティ)を欠いていたからである。もちろん憲法第九条、とくに第一項の精神は守られなくてはならない。しかし、その規定と精神を守る信念と、有事における機動性の確保は矛盾する作業ではない。この点で、外務省が日本の<周辺地域>における平和と安全に重要な影響を与える<周辺事態>について対応措置をまとめたのは、湾岸戦争における政府の迷走を考えると、まことに感慨深いものがある」。
これは『文芸春秋』98年6月号に掲載された山内の文章「湾岸戦争が露呈した『恥なき国』」の一節である。けして長くはない山内のこの文章は、彼がいまいる場所を指し示す同種の言葉にあふれていて、任意のどの部分を取り出してみてもよい。私が訝しく思うのは、次の点にある。数多くはない読者を相手に想定しながら学術的・知的水準を意識して書いている時には、人によってはたとえ大いなる異論を持つ場合でも、刺激を与える叙述を行なうこの歴史家は、読者が百万人にものぼるかという媒体に、現実の政治・社会問題に関して書く時には、なぜかくも易々と最悪のデマゴーグと化すのだろうか? 思えば、昨年ペルー大使公邸占拠事件を「武力行使で解決」したフジモリを<将に将たる器>と絶賛して止まなかったのも、『文芸春秋』誌上における山内だった。
私は、曖昧模糊たる官製造語で、言語にすらなっていない「周辺事態」などという言葉をすでにあるものして使うことを自らに禁じている、と語る辺見庸(『世界』7月号掲載の前田哲男との対談「周辺事態という妖怪」)に共感をおぼえる者だが、歴史家としての山内には、彼が学問的叙述の時には行なう慎重な手続きに基づいて、「周辺」なり「事態」なりが何を指示するのかを問いつめていく責任が付随しているのではないか。山内は、自らは自衛隊員の味方のような貌をして、「戦後一貫して自衛官の使命感や誇りをことさらにおとしめてきた」と戦後革新派に対する「冷笑的発言」をしているが、「東大教授という安全地帯にいる」己れは、<周辺事態>なる曖昧きわまりない、米国主導の戦争行為で生命を落とす、あるいは他者を殺害するかもしれぬ自衛隊員の未来像に心騒がぬのか。
アカデミズムの上では一定の理論的手続きを経た作業を行ない、大衆向けの言論の場では東大教授の肩書きで居丈高な国策イデオローグと化す山内の、おそらくは意識的な棲み分け/使い分けのあり方に、私はこの時代における典型的な「知の技法」を見ないわけにはいかないのだ。(『派兵Check』69号、1998.6.15)
「食べる・飲む・語る・出会う」を通して文化=存在を伝える「風の家」――レラ・チセ
桜井大子●反天皇制運動連絡会
アマムイペ、オハウ、ラタスケップ、ムニニイモ、チポロ、チェプ、キトピロ、ポン・チポロ、チタタップ。
ハイ、これらのことばで体はどのように反応しますか?
私の体は正しく(?)反応する。この言葉の意味を知っている人が覚えるであろう反応の一つを、私も同様に持つに違いないのだ。すなわち、どこからともなく、よだれがジワリとにじみ出てくる、あの舌なめずりの反応だ。
アマムイペはお豆のご飯。オハウは野菜やサケがたっぷり入ったスープ。ラタスケップはカボチャをベースにしたサラダ。ムニニイモはじゃがいもで作ったおもち。チポロはイクラ。チェプはサケ。キトピロはギョウジャニンニク。……。
そうなのだ、これらのことばは、すべて食べ物の名前だったり、料理の名前なのだ。そして、多くの人にとって耳慣れない言葉、アイヌ語の食べ物の名前なのだ。
早稲田大学文学部の正門を通り過ぎ、通りを挟んだとい面に、レラ・チセはある。ここへ来れば、チポロがこんもりと盛られたレラ・チセサラダやチェプ、キトピロの卵とじなどをつつきながら、サホロというお酒を飲んで、いい気持ちになれるのだ。 レラ・チセは、4年前の1994年5月、開店した。その3周年目に『レラ・チセへの道――こうして東京にアイヌ料理店ができた』という本が出された(レラの会著・現代企画室発行)。この店にかかわる人すべて、店ができるまでの経過にかかわった人、店で働く人、店の運営にかかわる人、客としてレラ・チセを訪れる人、等々が書いたり、インタビューしたり、されたり。この一冊でレラ・チセについてはもちろん、アイヌの人々の現況について、ある程度知ることができる。というより、私たち和人は、ホントのところアイヌについて、何も知っちゃいないといういうことを知らされる(実際、一般にそのような情報からは、閉ざされているのが現状だ)。だからこそ、この本が世に出されなければならない、レラ・チセが模索されなければならない必然性が生じたのだともいえるのだ。
レラ・チセの設立運動の先頭に立った「レラの会」の会長である佐藤タツエさんは、レラ・チセの店長でもある。タツエさんの「東京在住のアイヌウタリ(アイヌの同胞――仲間)が集まれる場所を作りたかった」という言葉は本にも書かれているし、私にも語ってくれた。そして、レラ・チセはアイヌ料理の店、と当初から彼女の心は決まっており、それ以外の可能性を追求することはなかったという。設立運動が具体的に動き始めた際の、「アイヌの店『レラ・チセ』を設立する会」の方針も同様であったらしい。
アイヌウタリが集まり、私たち和人にアイヌ民族の文化や歴史、様々なメッセージを伝えるその方法は、料理もたしかにその一つであるに違いない。しかし、それ以外の、たとえばもっと直裁的な方法とか、選択肢に入っていてもおかしくはないのに……。そのように考えても、決して変ではないだろう。ところが、タツエさんは違ったのだ。料理以外のことは考えていなかった、と。
タツエさんは語るのだ。
「うたや踊りも文化だけどね、食べ物は……」「(アイヌ)は生まれた場所や、育った場所が違っていても、食べ物は同じ」「みんな『懐かしい味』に飢えていたから」
アイヌには固有の食文化がある。みんな等しくその食に親しんで育ち、そして「好きで故郷を離れ」たわけではないウタリは、その懐かしい味に飢えているのだと。ウタリが寄り合える場所をつくりたいという、タツエさんや設立を願う人々の当初の思いは、自然にアイヌ料理に向いていったのかもしれない。
東京という、アイヌ文化に全く無関心で、無知で、無理解な街で、自分たちの「懐かしい味」を取り戻す。これ自体は、アイヌ文化・民族の存在自体をなきものとする「日本」という国では、一つの切実な闘いである。そして、「懐かしい味だったよ」という言葉から、新しい関係もできるという。初めて訪れたウタリが「懐かしい味」を契機に踊りに来たり、うたを唄いに来たり。「少しでもウタリに仲間に混ざってほしい」というタツエさんの思いは、通じている。
タツエさんは、唄や踊りでも知られている。彼女は「北海道時代は、まわりがみんなアイヌだったので、唄も踊りも自然で日常的だった。でも、東京でやるとき、特別の場所でやるときは違う。歌や踊りは自己主張」であるというのだ。そしてそれは、アイヌに対して「滅びゆく民族」なんてことをいう和人に、アイヌが「生きている」ということを知らせるため、ウタリに伝えるためだと、語ってくれた。日常的な営みとしてあった料理や、歌、踊り自体が、アイヌ民族の文化であり、そしてそれが存在の主張として彼女・彼らの力=表現となっているのだ。
レラ・チセには、料理はもちろん、「伝える」ための何かがいっぱい散りばめてある。私もレラ・チセに通い初めて、はや4年。いつの間にやらアイヌのことも少しは知ったし、グンと親しくもなった。
お店にはムックリ(竹製の“口琴”)やマタンブシ(頭にまく、刺繍の入ったバンダナみたいなやつ)、小物なども置いてある。それらは決して高いものではなく、躊躇せず購入できる。そして、ムックリの正しい持ち方、音の出し方など、その場で教えてもらったり……。また、料理を注文するときには、必ずやアイヌの料理名を口にする。使いなれない発音や語感も、料理を注文するたびに、食べるたびに身近なものになっていったことを覚えている。そして、それは間違いなく私一人の経験ではないのだ。
レラ・チセでは、いろんなミニイベントや講座なども企画されている。「アイヌ・イタク(アイヌ語)講座」は現在も継続中だ。参加者はアイヌウタリと和人の半々くらいだそうだ。「アイヌの若い人たちが出てくること自体に、すごいところ、大した場所だなぁと思う」とタツエさんは自分たちの店に対する感動を隠さない。そして「アイヌの人がまとまって働くということはこれまでなかったし、みんなうちとけて働いている」との自慢話も出た。「アイヌを知る上でも、ぜひ一度足を運んでほしい」とも。
食べ物や、言葉、音楽や楽器、身につけるもの等々は、レラ・チセにとって、アイヌの人々にとって、強力なる武器=表現、あるいはコミュニケーションそのものであり、かつよりどころとしてあるのだ。
レラ・チセには、店の運営について検討する場である運営委員会がある。メンバーの一人であるTさんはこのように語ってくれた。
「レラ・チセのいいところ? アイヌとアイヌでない人たち、和人も外国人も一緒になってアイヌの店を支えているってとこじゃない」と。
「民族を守る」という気持ちが、実感として理解できない境遇にある私(たち・和人)や、異郷に生活するがゆえに、その気持ちを充分理解できるだろう別の民族である外国人が、集まってくるレラ・チセ。「客の多くは活動家」とは、タツエさんの言葉であるが、その多くは和人だ。もはや、アイヌウタリの拠り所としてだけのレラ・チセではなくなっているのだ。そして、おそらくそのことの意味はとても大きい。いやが上にも、力を合わせなければ何もかもがむずかしいご時世に、それができている、その手応えを感じている人たちがいるというのは、それだけでも素直にうれしい。
さぁ、みんなでアイヌ料理を食べにいこう。ムックリやタツエさんの歌が静かに流れるレラ・チセへ。そして、明日の元気をもらって帰ろう。
『アメリカが知らないアメリカ−−反戦・非暴力のわが回想』(デイブ・デリンジャー著/吉川勇一訳)
ダグラス・C・ラミス
(加地永都子訳)
若手弁護士が言う。「裁判官に任命されたとたんから良心的な判決を言い渡していたら、絶対に上級裁判所に昇進できない。最初の頃は主流の判決を出せば、最高裁まで行けるかもしれない。そこで社会的影響力を発揮できるようになれば、良心的判決が出せる」
若手の政治活動家が言う。「反対運動の目標には共感する。だが、抗議行動はほとんど影響力を持たない。影響力を持つには権力の中枢、決定が下される場に入る必要がある。単なる心情ではなく行動こそ私の関心事だ。私は政府部内に入るつもりだ」
運動組織が決断を下す。「誰も読まないプラカードや誰も署名しない誓願書をもって国会の外を歩き回ることにくたびれ果てた。いくらいい提案をしても誰も耳を貸そうとしない。助言者としてどこかの政党と結びつくべきだ。そうすれば政府のインサイダーの立場を確保できる。そうなれば雑音を立てるだけの存在ではなくなる。ほんものの社会的影響力を持てるのだ」
こういう人たちに対して私は言いたい。「デイブ・デリンジャーを読め」と。
内容豊かで魅力にあふれた長大なデイブ・デリンジャーの自伝は、読者にさまざまな影響を与えることは間違いない。しかし、その影響には、重要な決定はどこで下されるのか、「実際の」政治権力はどこにあるのか、最大の社会的影響を与える行動はどこで生み出されるのか、といった事柄について混乱してしまうことも入る。
デイブ・デリンジャーはボストンの弁護士の息子で、父親はよく言われる「影響力」をたっぷり持っていた。ボストンの弁護士としての信望、ボストン共和党委員会の議長という地位、重要ポストを握る友人などなどだ。エール大学法学部の著名人、カルビン・クーリッジも友人のひとりだった。デイブが幼い頃、一家でホワイトハウスにいるクーリッジを訪問したことがある。クーリッジは少年の肩に手を置いて、「この子が頭がいい。出世まちがいなしだ」と言った。
デイブ・デリンジャーは確かに出世はしたが、大統領が考えていたような出世ではなかった。
父の後を継いでエール大学に進んだデイブは、父と同じように後に政府の有力者となった青年たちと知り合った。ケネディ政権で重要な存在となったサージェント・シュライバーやマクジョージ・バンディ。同じくケネディ政権に加わり、有名な(悪名高い)「経済成長の諸段階」を書いたW.W.ロストウとも親しかった。デリンジャーとロストウは共に奨学金を得てオクスフォードで学んだのだが、その頃共産主義者だったロストウはいつもデイブにマルクス主義の文献をくれた。卒業が近づくと、デリンジャーには「ニューディール」政権だけでなくアメリカの「一流」企業からも就職の口が舞い込んだ。どれも間違いなく「有力者になれる」ポストだった。
彼は申し出をすべて断り、その代わりラディカルなキリスト教団体に就職した。平和運動で働き、貧しい人たちを組織し、人種差別やナチズムと闘ったのである。
ここが興味を引く点だ。企業や政府に就職したデリンジャーの級友たちの大半は歴史から姿を消し、アメリカ株式会社の(高給ではあっても)無名の歯車やレバーとなった。伝記を出したいという出版社はどこにもない。
ところが、デイブ・デリンジャーは20世紀後半でもっとも影響力のあるアメリカ人のひとりになった。彼の自伝を読めば、アメリカ現代史の裏面がわかる。
もちろん、アメリカ史におけるデリンジャーの影響力は、たとえばケネディ政権の下で旧友のW.W.ロストウがふるったような影響力ではない。ふつうの意味での政治的権力をまったく持って《いない》からこそ持てる類の影響力である。
デリンジャーの最初の重要な政治行動をあげてみよう。第二次世界大戦の当初、彼は数人の仲間と共に徴兵登録を拒否して、連邦刑務所で1年の拘禁刑を言い渡された。大半のアメリカ人の中がまったく知らないこの事実がなぜ、「影響力を持った」と言えるのだろう。第二次大戦はアメリカ史のなかでもっとも人気が高い戦争だったし、おそらくそれは今も変わらない。「ネコも杓子も」この戦争を支持した。もちろん、ごく少数の宗教的平和主義者(たとえばクウェーカー教徒)は良心的兵役拒否者として登録した。しかし、デリンジャーたちのグループは登録すること自体を拒否した。つまり、国家が戦争目的で兵士を徴集する権限を認めなかった。「どこにも疑問の余地のない」戦争に対して、疑問を投げかけたのだ。びくともしない支持の壁に、小さいがほんものの穴を開けたのであり、そのために将来、歴史家がこの時代について書く時、この穴を取り上げざるをえない、あるいはなぜ取り上げないかを説明せざるをえなくなったのである。「疑いようのない」大戦は疑わしい戦争だった。この良心的な青年たちは実際にこの戦争を疑い、その信念のゆえに刑務所入りした。彼らの行動によって、この時代の歴史はいささか異なったものに変化したのである。大学を出たばかりの8人の若者としては、大した影響力である。そして彼らがおよぼした影響はその後もずっと影を落としている。
デリンジャーの一生はこの最初の力強い行動の延長として見ることができる。デリンジャーはクリスチャンであると同時にラディカルな民主主義者である。おおかたのクリスチャンとは異なり、彼は人びとが互いに相手をどう扱うべきかという新約聖書の教えを本気で受け取っている。この観点からすると、米国経済と社会体制は腐敗しており、搾取と軍事優先主義と人種差別と性差別がはびこっているとしか思えない。しかし、彼にとってこれは単に「表明」すべき「意見」などではないのだ。デリンジャーにとっては、考えるとは行うことである。つまり、彼は革命的活動家なのである。しかし、ガンジーの信奉者である彼は、非暴力を信じている。その抗議行動に対して、彼は悪口雑言を浴びせられ、ペンキを投げつけられ、暴行を受け、命を脅かされ、それに言うまでもなく何度も刑務所に入れられた。どんな目に合おうと、彼の原則がぐらつくことはなく、抵抗を慎む方向にも、あるいは暴力的な方法に訴える方向にも行くことはなかった。
デイブ・デリンジャーは1960年代にアメリカ国内だけでなく世界的にも、アメリカの反戦運動の先頭にたつ「大先輩(オールド・マン)」(当時の彼は50代だった)として有名になった。60年代後半から70年代にかけて、暴力的手段を容認する反戦活動家がますます増える中で、デリンジャーはあくまで非暴力運動に徹するという点で大きな影響力を与えた。デリンジャーが最大の反戦組織、ベトナム戦争の終結をめざす動員委員会(「春の動員委員会」〈MOBE〉)の議長になったのも、主として彼が文句なしに正直で率直な人として知られていたことによる。この動員委員会が呼びかけた1967年4月17日のニューヨークのデモにはおよそ3
0万人が参加しただけでなく、この時はじめてマルチン・ルーサー・キングがはじめて公然とベトナム戦争反対の演説を行った。動員委員会はさらに1967年10月21
日、ペンタゴン(国防総省)への行進を組織した。この時建物内に入ろうとした
1000人以上が逮捕された上に、共鳴した多数の兵士が銃を投げ捨てて逮捕された。1968年にはシカゴで開かれた民主党全国大会に対する抗議行動をよびかけ、有名なデモ隊に対する「警察の暴動事件」を引き起こした。これはアメリカの世論を反戦に変えたもっとも重要な出来事のひとつであった。
この事件を含め当時のこうした出来事は、まさに特別な意味で「歴史的」事件だった。幅広い層を巻き込んだ大規模な事件だっただけでなく、歴史のプロセスになにか「新しい」ものを導き入れたのである。アメリカ社会では一度も大衆的に受け入れられたことのない原則と意見について、莫大な数の人びとがこれを支持するという人間的意志を表明したのだ。平和、非暴力、アジアの貧しい旧植民地国の民衆に対する公正かつ対等な処遇といった原則である。
この政治的行動のパワーが、行動の土台である原則のもつ説得力、行動する人びとのモラルのパワーであったことは言うまでもない。このパワーがどうはたらくかを、以下の話がよく伝えている。1967年10月21日、国防省の官僚ダニエル・エルスバーグはロバート・マクナマラ国防長官のオフィスで米国の北ベトナム侵略計画を練っていた。外が騒がしいので窓の外をのぞくと、ペンタゴンの中に入ろうとしたデリンジャーやその仲間たちが棍棒で打たれ、逮捕されていた。(本人の証言によれば)エルスバーグは自分の胸に聞いた。「この人たちは自分の良心に忠実に生きている。私がそうしたらどうなるだろう」と。ここにも影響力が及んだわけで、エルスバーグはその後政府の仕事を辞め、ペンタゴン・ペーパーを発表した。アメリカが政府ぐるみでベトナムでやっていた腐敗した工作を暴露したこの文書によって、反戦の世論はいっきに強まった。
言うまでもなく、60年代以降のデリンジャーや反戦運動の影響を過大評価すべきでない。戦争、人種、第三世界諸国の人びとの人権をめぐる新しい考え方が、アメリカで広く論じられるようになった。だからといってアメリカが戦争をやらない、貧しい民衆を搾取しない国になったとか、いずれなりそうだという意味ではない。それだけの変化がもたらされるまでには、長い長い闘いが必要だろう。しかし、デイブ・デリンジャーの本(それに他の本)が教えているのは、政府の高官や政党政治家がそうした変化をもたらすなどと期待すべきではないということだ。そうした類のパワーを彼らはまったく持ち合わせていないのである。(『派兵Check』69号、1998.6.15)
渡る世間の自己規制の仕組み考
青山薫●ピープルズ・プラン研究所コーディネーター
「今までどおり日の丸のために頑張ります」とのたもうて、フランスへ向かったはずの日本サッカー界の長老三浦知良が、最終的には代表に残れず無念の帰国。あぁ、よかった。一方、「ナショナリズムでやってるわけじゃない」と、その一言の深い意味を知ってか知らずか言ってのける生意気盛りの中田英寿の株は、ミーハーの間でも通の間でも上がり続けている。世の中こうでなくっちゃいけないよ。マスコミは、「世代交代」を言い、日本サッカーがやっと近代化して、これからは欧州列強の仲間入りをするのだと、この二人のキャラクターが象徴するプロパガンダを制作中のようだ。私もすっかりのせられているのだが、(しかし、中田君の個人主義ベースのプレーには、確かにヨーロピアンな味があるのよね……、と一応「通」のところをちらつかせておく)先日のどこぞの民放の馬脚の現し方は、いくらなんでも興ざめしてしまった。日本代表の新しい顔としての中田特集だったのだが、最初のうち、勝って胴上げに加わらない中田、代表に選ばれて「別に感想はありません」とつれない中田、国際試合で「君が代」を歌わない中田、と、そのイメージを、今までの日本的チームプレーヤーとは違うクールな感じでまとめておく。次に高校生時代のインタビュー映像などを入れ、「ナイーヴな子でしたね」という恩師のコメント。そうしてから、今度は「君が代」に合わせて少なくとも口を開けている映像を入れ、仕事はできるし上司(この場合はキャプテンの井原正巳・三〇歳)にも意見できるし、同僚には熱烈にやさしい場面とつなげ、「大人になった中田!」のテロップでまとめる。
「君が代」とか「日の丸」とか「日本」には、いろいろ問題があるんで、まぁ、それを三浦みたいにストレートに出しすぎるのはまずいんだけれども、そこをカッコ悪いと思ってる人が、形式上、一応「国の代表」の責任として「君が代」も歌いましょう。それが、酸いも甘いも噛み分けた大人の対応なんじゃないですかね……というわけだ。こういう自己規制ができて初めて世間が渡れる。それを「大人になる」と表現する。と、権力者や年長者が年下の者や格下の者に諭すパターンは、その辺にごろごろしている。言いたかないけど極めて「日本的」。何も新しくない。
何を隠そう娘の小学校のPTAの広報部会でも同じことを言われたばかりで、頭に来ている。
某杉並区立小学校長が、「『理想の学校』についてアンケートをとりたい」という母親たちに答えて曰く、「そういうのは学校批判に結びつくとまずいんですよ」。恐ろしいのは、この一言で、「まずい、ってことは止めた方がいいのよね」「一方的に止めさせられるのも変だけど、建前は建前として……」「人質とられてるからね」……と、根本的な議論を避けて自己規制してしまった母親たちの方だった。やはり、「子どもじゃないんだから、うるさく言うのもなんだわよ」とおっしゃる。マスコミと同じくらい学校はオワッテる。
ここ(日本の世間)では、規範は世間に大人として認められるための方便であり、内面とは関係ないという建前になっっている。このことは、内面が規範に抑圧される問題も、自己規制が内面を変化させる問題もうやむやにしてしまうので、どちらも克服すべき対象としては認知されない。「言論の自由はしゃべらない限り保証されます」というようなものだ。
西洋には、一九世紀の監獄に表われている、監視塔からの視線を内面化する自己規制がある。あまりにも有名なフーコーの分析では、放射状のこの建物は中央に監視塔をもっており、監視塔からはどの房も丸見えである。そこで囚人は、看守の姿がこちらからは見えないにも関わらず、自分の行動を看守に見咎められないよう規制するのである。規範が内面化される。
パロディが重要になってくるのはおそらくこの局面である。看守と囚人は一方的な「見る→見られる」関係にあるが、この一方的な関係をつくり出しているのは、実は囚人の自己規制に尽きる。囚人は見られている自分を想定しているだけで、看守は実際には居ないかもしれないのだ。規範の内面化を克服するには、この一方的な視線と違う視点を獲得する必要がある。自分の置かれている位置や、自分の行動を対象化する視点、自分を対象化して規範に合わせていること自体を対象化する視点である。だから実態からは常に離れている。実態の実感を否定、あるいは再生産不可能なものとして、常に覆していくこと、その可能性を示していくことから、内面化された規範の転覆が図られる。うまいパロディが私を苦笑させるのは、それが実態に似ているからではなく、似ているように見えるものに転覆させられることでしか実態は表現され得ない、その皮肉によってである。
けれども、「大人になった」とたんに規範が内面化されたことさえないことになってしまう「日本的」自己規制からは、パロディのそのような力は出てこないのではあるまいか。
自己規制を滑稽化できない自己のくそ真面目さ、または、自分を対象化できない視点の単一性、あるいは、自己規制を認識することもできない焦点のぼけ……これって「貧困なる精神」って呼ばれてもいいんじゃない? と、思う。
さてここに、いろいろな方面に気を遣って、ついには「右翼からみれば侮辱」なことについて自らを規制するという『週刊金曜日』と本多勝一氏の論理を重ねるのは、「大人気ない」んだろうね。そもそも、ミーハーサッカーファンの子どものPTAの話まで、ずっと右翼と真剣勝負してきた本多氏に結び付けるのは「侮辱」かもね。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』11号、1998.6.9)