alternative autonomous lane No.9
1998.10.22

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目 次

【議論と論考】

金大中大統領来日と日韓関係(尾沢孝司)

自治体の天皇観――憲法の「象徴天皇」制と表現の自由(小倉利丸)

「大東亜戦争正当化」失敗作の悲喜劇――遅ればせながら「プライド」を論議するA(水垣奈津子)

天皇訪韓の具体化が意味するもの――和田春樹批判(天野恵一)

理想論と「現実論」――池田祥子とダグラス・ラミスの主張を手がかりに (天野恵一)

【チョー右派言論を読む】

「負け組ロマン主義」を越えて――いまさらながら、加藤典洋『敗戦後論』を読む(伊藤公雄)

世界市場の崩壊を予言する財務官のニヒルな発言――資本主義のつぎには何が来るか(栗原幸夫)

【コラム・表現のBattlefield】

時空を自在に駆けめぐり、隠された歴史にライトをあてる仕掛人たち――テント芝居・劇団「野戦の月」(桜井大子)

《メディア批評》

英語中心主義も日本語ナショナリズムもいらない (小倉利丸)










金大中大統領来日と日韓関係
尾沢孝司●日韓連帯共同行動

 一〇月七日、金大中韓国大統領が来日した。今回の来日、日韓首脳会談は、歴史認識問題を初めとする過去清算問題を決着させ、政治、経済、軍事、文化交流など幅広い分野で二一世紀に向けた日韓のパートナーシップを確立し、新たな日韓関係を構築しようとして行われたもので、会談後、「二一世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」と題した「共同宣言」と今後の具体的な施策を列挙した「行動計画」を発表した。
 国賓として来日した金大中大統領は、これまでの国賓の例に漏れずに天皇と会談した。 
 金大中大統領は天皇会談では植民地支配の問題には一切言及せず、今後の日韓の協力関係を強調し、天皇の韓国訪問を招請した。これはやはり、未来志向という名の下に過去を不問にしたままで、今後の日韓関係を築こうとするもので、日韓民衆の真の和解と友好に反するものである。
 このことは天皇の呼称問題に端的に現れている。金大中大統領の来日を機に韓国政府は、天皇の呼称を日王、日皇から天皇に変えることにしたが、ハンギョレ新聞のホームページの世論調査では、三八三四名中三四一四名(八九%)が反対を表明している(九月一二日時点)。マスコミでは東亜日報、韓国日報、KBSテレビのみが変えたに留まった。金大中大統領は「韓国国民の暖かい歓迎の中で訪韓する」環境を整えるとしているが、天皇の名による植民地支配に対する不信感が、韓国民衆の中からそう簡単に消え去ることはないだろう。
今回の金大中大統領来日、日韓首脳会談で、やはり最大の焦点は、歴史認識問題を初めとする過去清算の問題である。金大中大統領も早くから、過去清算問題の決着を付け、未来志向の日韓関係をつくることを表明してきた。
 日本政府の対応は、九五年の村山談話を踏襲して、それを韓国版に直して、「我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受け止め、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを申し上げる」と植民地支配を行ったという歴史認識問題に限りこれを認め、「反省とお詫び」を表明するというものだった。金大中大統領は、共同宣言という文書による正式な発表であるから、形式と重さにおいて過去の謝罪表明とは異なるとして、これをもって過去清算問題に区切りをつけたとした。
 しかし、日本軍慰安婦問題を初めとした侵略と植民地支配によって被害を受けた人々と国家によるその戦後補償(賠償)の具体的な問題については、首脳会談でも、共同宣言の中でも、一言も触れられてない。韓国挺身隊対対策協議会は「これまでの日本政府の立場と大差ない。日本軍慰安婦問題に言及さえしなかったことは非常に遺憾だ」と批判している。
 過去清算の具体的な問題に触れないということは、金大中大統領は、過去清算は自発的にするもので、日本政府自身がどうするかという問題で、韓国側からは特に要求しないという考えによるものである。
 歴史認識問題に限って見ても、小渕内閣発足時の中川昭一農水相の暴言問題に示されるように、靖国神社への首相の公式参拝を求める国会議員の会に与野を通じて一五〇名以上が参加している現状からして、歴史認識問題で暴言を吐く閣僚、国会議員が出ない保証は何もない。
 日本政府は、日本軍慰安婦(制奴隷)問題に対する日本政府の法的責任、国家賠償、責任者処罰などを勧告したマクドガル報告を全面的に否定した。このことに示されるように、日本政府は、金大中大統領が具体的問題に触れないことをこれ幸いに、言葉の上だけの謝罪ですませたのだ。
 問題は、村山談話が出された同じ年の一〇月の参議院での日韓条約に関する村山首相の答弁に示されたように、朝鮮半島の植民地は道義的、政治的には責任があるが、その基になった日韓併合条約は、法的には有効であったというところにある。六五年に締結された日韓条約においても第二条で日本側の解釈は、大韓民国成立までは日韓併合条約は有効であったという立場をとり、あくまで植民地支配は法的には有効であったということに現在も固守し続け、日韓条約と同時に締結された財産請求権協定の第二条で、財産、権利及び利益などの請求権問題は「完全かつ最終的に解決された」ことを理由に、元日本軍慰安婦など戦争被害者に対する国家賠償を拒否し続けているのである。
 つまり、今回の日韓首脳会談に於ける過去清算の問題は、日本政府が植民地支配が法的には有効であったとして、法的責任を認めない点に大きな問題があるのである。法的責任があるとなれば当然現在の日韓条約の第二条の見直しをせざるを得ない。またそうなれば第三条の大韓民国を朝鮮半島の唯一の合法的な政府であることも見直しせざるをえない。日韓条約はいわば戦後の日本と朝鮮半島との関係を規定した根本的な条約であるから、日韓条約を改正するとなれば、冷戦によって封じ込められていた戦後の日韓関係の根本的な見直しを迫られざるを得ず、これをさけたい、日韓両政府の思惑が一致したとみることが出来る。
 韓国でも、金大中大統領を支持する人を含めた民主化運動を進めてきた教授一〇〇人が、日韓併合が法的にも不当だという認識にたって日韓条約の見直しを含めた新たな日韓関係を作ることを求めた政策提案を発表している。
 「歴史の清算は韓国とだけでなされるものでしょうか。三六年間及ぶ植民地支配に苦しんできたのは三八度線以南の人々だけではありません。北にもその犠牲者はいるのです」「当事者の半分を置き去りにしては真の歴史の清算にはならない」と語る在日朝鮮人二世の言葉が新聞に出ていたが、今回の共同宣言は朝鮮半島の南半分との関係である。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とは国交交渉も中断したままで、敗戦以来一切の戦後処理が行われておらず、未だに戦争が休止した状態が続いているのである。
 今回、小渕恵三首相は、北東アジアの安全保障を話し合う「六者協議」を提案し、金大中大統領は期待感を表明したが、日本政府は、未だに国交交渉も中断し再開のメドさえ立ってない状況で、どうして朝鮮半島の平和と安全を保障するということができるのか。
 日本政府は、戦後一貫して対北朝鮮敵視政策をとってきたが、この変更なしには国交交渉すらできないことは明らかだ。
 今回の首脳会談のもう一つの特徴は、経済危機にある韓国を含めたアジアの経済再建に日韓が協力することが強調されたことだ。その中で行動計画において日本輸出入銀行による三〇億ドルの融資を行うことを明記した。いわば韓国の経済再建に日本の力を借りようというものだ。
 今韓国はIMFの統制下にあり外国資本の投資がしやすいように整理解雇制を導入した。万都機械の争議には一七〇〇〇名の機動隊を導入し、職場占拠を続ける組合員一八四七名を連行し、整理解雇を強行した。今失業者は二〇〇万人を越えるといわれており、弾圧だけでは乗り越えることは出来ないのは明らかで、韓国政府にとって失業対策、福祉対策、雇用創出など、労働対策、構造改革に資金が必要である。
 こうした韓国国内の事情から、国民基金の償い金の代わりに元日本軍慰安婦に生活支援金を支給していることもあって、具体的な過去清算を問題にして日韓関係をこじらせるよりは、歴代の軍事政権のように日本からの経済支援を優先したと見ることもできる。
 しかし過去清算は、日本軍慰安婦問題だけではない。八月下旬に済州島で行われた国際シンポジュウムでは、日韓併合時の独立義勇軍で犠牲になった遺族たちが日本に謝罪を要求したといわれる。過去清算は、植民地支配と戦争で犠牲になった全ての人々に対して納得の出来るように行わなければならない。
 八月末に北朝鮮が人工衛星を打ち上げたことで、今回の首脳会談は、北朝鮮対策と日韓軍事協力の問題がもう一方の大きな課題になった。
 北朝鮮のミサイル開発が「北東アジア地域全体の平和と安定に悪影響を及ぼす」として日米韓の政策協議を継続すると共に、日韓の閣僚レベルの協議を一層強化する事が合意された。金泳三政権では吸収統一論にもとずき、日朝関係の改善は南北関係の進展に会わせて進めてほしいと要求し、日韓共助体制をとっていた。金大中大統領は対北朝鮮三原則のもと太陽政策が採られ政権発足当初は日朝関係改善の進展を受け入れる姿勢を示していた。
 しかし、今回の首脳会談で、人工衛星打ち上げを口実に、日本政府は、金大中大統領の対北朝鮮三原則に理解を示しながらも、日本側の強い要望で、日韓の対北朝鮮対策は、朝鮮半島の緊張を高める日韓共助体制を一層強めるものになったと言える。
 また、日韓安保対話を年一回開くこと、各レベルの軍事交流を行うことが行動計画に盛り込まれた。
 これまで、日韓の直接的な軍事協力は、植民地支配の感情的なアレルギーがあって、米国を媒介にした協力関係に留まり、今一歩進展していなかった。七月九日にソウルで行われた防衛次官会議では、韓国側は先の北朝鮮の潜水艦進入事件に関連して、今後の潜水艦の探知・発見に日本の協力を要請したが、日本側が断ったことが、韓国で報道された。
 ところが、九月一日〜三日に千容宅韓国国防省長官が来日した時は、額賀防衛庁長官との間で、公海上で捜索と救助を目的とした共同訓練に合意している。この変化には、この間行われた北朝鮮の人工衛星の打ち上げが影響したことは明らかだ。
 このような日韓の軍事協力の強化は、日米新ガイドライン・有事立法制定の動きと相まって、朝鮮半島の緊張を高める日米韓軍事一体化を一層進めるものである。
 このように見てくれば、金大中大統領のいう「二一世紀に向けた日韓のパートナーシップ」は、歴代の韓国大統領が唱えた「日韓新時代――未来志向の日韓関係」とどこが違うのかと大きな疑問を抱かずにいられない。 このような金大中政権の問題点以上に、誠意のある過去清算を回避し、北朝鮮の人工衛星打ち上げへの対応に見られるように、北朝鮮の脅威を煽り、これを口実に軍拡に走り、北朝鮮敵視政策をとり続けるの日本政府の問題はより大きく深刻である。私たちは、韓国民衆と連帯し、誠意のある具体的な過去清算を実現して朝鮮半島全体の民衆との和解と共生を目指していかなければならないのではないか。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』15号、1998.10.13)











自治体の天皇観
憲法の「象徴天皇」制と表現の自由
小倉利丸●富山大学教員

 つい先頃のことだが、フランスでは、上半身ヌードの女性がキリストに扮して十字架に磔刑になっているポーズを表紙にした図書が、裁判所によって書店での展示販売を禁じる処分を出された。かたや合衆国では、恒例の保守派キリスト教団体によるロック狩りがこのところはもっぱらマリリン・マンソンをターゲットにしてけっこう派手に展開されている(ちなみに、マンソンの『アンチクライスト・スーパースター』は久々のHRのヒット作だ。かっこいい)。 
 もちろん日本も例外ではない。日本の場合には、キリストのかわりに天皇がタブーの中核をになうことになる。右翼によるファナティックな天皇崇拝がテロや暴力的な行動を引き起こすということについてはよく知られている。そして政府や自治体もまた、天皇に対しては一般の「国民」とは区別した別格の扱いをしている。しかし、実は天皇についていったいどのような理解、認識をもつべきなのかということについて、日本の政府は明確な見解を述べたことはほとんどないのではないだろうか。これは、憲法九条に関しては戦後さまざまな解釈の変遷と論争を経ながら結局のところは、その実質が骨抜きにされてきたという経緯と比べてみた場合、対照的な出来事だといえる。いいかえれば、一条から八条までについては、政教分離など若干の争点を別にして、天皇の憲法上の位置については政府ははっきりしたことをなにも語らず、また語らないことによって事実上のタブーを構築し、そしてより語りがたいテーマにしてきた。他方で、天皇は確実に、戦後日本のナショナルなアイデンティティのための装置として整備されてきた。行革や省庁再編による大規模な中央政府のリストラ政策が論議された際にも、自衛隊の予算に関してはその是非が議論されたものの、宮内庁予算や内廷費、あるいは皇居や「御用邸」などの土地資産に関しては何一つ問題にされなかった。
 実は、天皇の問題は、自衛隊よりも厄介な部分がある。というのは、自衛隊は憲法に明文規定がない。だから、九条の戦争放棄条項と自衛隊との整合性の有無については議論が可能だ。ところが、天皇については、すでに憲法に明文規定があり、したがって、憲法の枠組を前提とすれば国家の基本的な構成の一部に天皇を位置づけることについては、違憲性を問えない。だから、天皇をめぐる訴訟は天皇制そのものの是非を問いにくい、という限界をあらかじめ抱えてしまっている。自衛隊は違憲である、といえるのと同様に天皇は違憲であるとはいえない、のである。 
 ところで、天皇というのは、公式にはいったいどんな存在だとみなされ、どのように扱われるべきものだと考えられているのだろうか。戦前の天皇との大きな違いとして指摘されるのは、戦後の天皇は主権者ではないし、統帥権の総攬者でもなければ、絶対不可侵の現人神でもなく、日本国民統合の象徴にすぎないというものだ。こうした戦前との比較で強調されるのは、権力の実権がもはや天皇にはない、というところに力点があり、したがって権力者としての機能をもたないがゆえに、戦前に比べて重要な機能を果たしていないとみなす観点であろう。 
 権力を実定法や政治制度論の観点から見る伝統的な国家権力観からすれば、確かに天皇は飾り物にすぎず、権力の実権の中核に位置するとはいえない。しかし、こうした権力論は、権力の正当性を下から支える大衆的な基盤を説明できないという点で決定的な限界があるということも繰り返し指摘されてきた。権力的な強制力にたいして、自発的に従属する大多数の大衆が存在すること、そして彼らをそうした自発的従属に駆り立てるためには、ナショナルなアイデンティティの形成が不可欠であり、それは暴力的な強制ではなく、文化的イデオロギー的な作用に頼らねばならない。そして、いままで「たかが形式」「たかが儀式」と思われてきた国家儀礼や国家イベントなどが実はこうした文化的イデオロギー的な国民統合に重要な役割を果たしていることもいまでは明らかだ。 
 こうした権力観からすれば、天皇は実定法的な意味での権力の中核的な担い手ではないとはいえ、権力を支える不可欠で重要な機能の一翼を担う存在である、ということになる。「象徴」は単なる「お飾り」ではなく、むしろ権力に形とイメージを与え、ナショナルなアイデンティティの目に見える存在を演じる役割を担っているのだ。 
 日本政府が現在、天皇の象徴的な機能についてどのような解釈をとっているのかはよくわからない。しかし、私達が富山県立近代美術館の「遠近を抱えて」処分問題で行っている裁判の中で、富山県は自治体としてはめずらしく極めて明確に憲法の象徴天皇制の定義に言及し、天皇に関する表現については、一般の「国民」よりもより一層厳格な規制が要求されるのだ、ということを明言した。 
 被告富山県は、たとえば国旗を例にして、「国旗が歴史的・伝統的にも、国家の象徴にふさわオい取扱いがなされてきた」のは象徴にはそれにふさわしい扱いが要求されるからだとして、その扱いには一定の規制が働くのは当然とした。そのうえで、「現存人物が象徴として受け取られる場合は、長い歴史と伝統を背後に持つ君主が象徴とされることが常態であった」として、「日本国憲法が、〈天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴〉とは、このような意味内容のもとで理解されるべきである」と述べて、日本は天皇を君主とする立憲君主制であるという解釈を打ち立てた。 
 こうした象徴の規範的な意味は、「天皇誕生日が国民の祝日とされ(国民の祝日に関する法律二条)、天皇の崩御に際して、国家的儀礼を行い(皇室典範二五条)、天皇に特別の敬称を認める(同二三条)ことなど」からも明らかだとしうえで、次のように天皇にたいする扱いを主張した。「憲法第一条の規定からして、天皇を象徴として待遇し、取扱うべし、という規範的意味を引出すことができる(略)が、別の言い方をすれば、天皇は象徴であると同時に、象徴としてふさわしい存在でなければらないということになる。その例として、天皇自身には品位を保ち、政治的行動を差し控えるなど、象徴にふさわしい行動を取ることが要請される。これに対する国民の側からは、天皇を象徴としてふさわしい存在として取り扱わなければならないということになろう。その結果、象徴としての天皇の肖像の使用方法が一定の制限を受けることはやむを得ないことである。この様な見地からすると、天皇の肖像の使い方として、象徴としての尊厳を傷つけるような態様で使うことは、本来、許されるべきことではない。」 
 この主張で見逃せないのは、自治体や政府が天皇を彼らの言う象徴にふさわしい扱いで遇するということにとどまらず、「国民の側」でも「天皇を象徴としてふさわしい存在として取り扱わなければならない」という義務づけが憲法の象徴天皇制の規定に込められているとした点だ。自治体や政府が天皇を特別視することはもちろん認めがたいと私は思うが、事実の問題として言えば、特別扱いが制度化されてきた。大喪の礼、植樹祭、国体などさまざまな公的儀礼に対する反対運動も国家や自治体による天皇の特別視への異議申し立てだった。しかし、この富山県の主張は、更に踏み込んで、天皇を象徴としてふさわしいものとして扱うのが国民のある種の義務であるとまで主張したのである。 
 これに対して、私達は、最終準備書面で、天皇は「国民統合の象徴」あるいは日本という国家の象徴であるがゆえに、「日本」を批判的に表現する場合に天皇をさまざまな形で取り上げる自由があることは当然のことだと反論した。特に美術などのビジュアルな表現の分野では、天皇の肖像は不可欠な表現素材であり、天皇の肖像などの扱いを規制するということは、同時に国家にたいする批判に対する抑圧であると反論した。 
 富山県は、この「遠近を抱えて」問題では、事件発生の当初から、宮内庁と連絡をとっている。今回の裁判の最終準備書面における県の主張も宮内庁の意向をふまえたもののように思えてならない。 
 こうして「象徴天皇制」は、自治体や政府のよる特別扱いからさらに私達自身の表現すらより積極的に規制しようとする方向に踏み出しつつある。権力の象徴的な機能は、こうして憲法が保障する「表現の自由」や「思想信条の自由」といった一連の自由権とはっきり対立しはじめている。もし、万が一にも裁判所がこうした県側の象徴天皇制の解釈を肯定するような判決を出した場合、私達の自由権が根底から侵害されることになる。象徴天皇制がふたたび不敬罪を引き連れて登場することだってありうるのだ。一審判決は一二月一六日富山地裁で行われる。(『反天皇制運動じゃ〜なる』15号、1998.10.13)

















「大東亜戦争正当化」失敗作の悲喜劇
遅ればせながら「プライド」を論議するA
水垣奈津子●派兵チェック編集委員会

 「プライド」に関してはもう大体議論がで尽くしたような感もあるし、私自身 別の場所で書いてしまったので、ちょっと困ってはいるのだが、いくつか残した議論があるのも、確かに前号でたいら氏の指摘する通りではある。だから枝葉末節を覚悟で、このかんの論評との違和感を書いておこうと思う。
 ひとつは、批判的論評(を多く読んだわけだが)に紋切型に表れる「大東亜戦争の美化」というヤツだ。正直なところ、これは当たっていない。スポンサーの意図だの津川雅彦の意図だのをさておいて、当たっていない。「そのようにしようとして、そうできなかった」ということもあるのだろうが、むしろ私には、監督はこれを放棄していたのではないかと思える。この映画でのメッセージは「美化」ではなく、「正当化」ではないだろうか。これは大きな違いだ。しかもその正当化は、戦争そのものではなく、「アメリカと闘う東条」という形で表現されている。「連合国だっていっしょじゃん」「アメリカが日本を追い込んだんじゃん」という具合に。「日本は侵略戦争をしなかった」というのと「日本の侵略戦争は仕方なかった」というのとでは、どえらい違いだ。そして現在の日本で「あれは侵略じゃなかった」と言い張るよりは、「だってしょうがないじゃない」と言う方がもちろんはるかにシンパシィを得ることができる。そこら辺りがこの映画の獲得目標であったろうと思うのだ。
 この獲得目標をここまで「落とした」というふうに考えることもできなくはないが、おそらくそうではないだろう。「美化」から「正当化」へは、質の強弱ではなく質の転換が行なわれるからだ。このように言うこともできる。「美化」されるのはエピソードであり、「正当化」されるのは戦争それ自体である、と。だとすればこれは、過去へのノスタルジアではなく、未来への布石である。正当性に「民族」の「プライド」をちりばめ、「先達に続け」と檄を飛ばせばいっちょあがり、というわけだ。
 もうひとつの違和感は、この映画というよりも小林よしのりらを含んで言われ ている「東京裁判史観」あるいは「アメリカ善玉史観」についてである。伊藤監督のねらいのひとつは「アメリカ善玉史観の問い直し」なのだろうが、この「史観」は彼らが(あるいは我々が)いうほど、ちまたに浸透した概念なんだろうか? 高度成長期に生まれ育ち、バブル時代に学生生活を送った私には、どうもピンとこない。私にとってアメリカは常に、見習うべきお手本でもなく、追い付 くべき目標でもなく、さらに打倒すべき帝国でもなくて、「やっぱアメリカの民主主義とか映画とかちょっとスゴイけどさ、麻薬もあるし犯罪率も高いし、貧困 層たらものすごいしさ」てな具合で「アメリカよいとこ」みたいなことは全然思わなかったのである。ここは、戦後すぐの記憶がある人とは徹底的な経験差のあるところだから、年配の人が言うのはわかるのだが、60年代生まれあるいはそれより若い人に言われると、「あんたそれ、どっから拾ってきたん?」と思ってしまうのは確かだ。もっと若い人はどうなんだろう。「アメリカによって日本が解放された!」という見解も、東京裁判そのものも、さしてポピュラーじゃないのではないだろうか。
 東条が家庭的な「いいひと」に描かれているという批判もあったが、むしろ問題は、東条と天皇との関係に蓋をしてしまったことにある。ところであの津川== 東条を見て「東条いいひとえらいひと」と感じる人は果たしているのだろうか。 実際、松岡洋右の死が知らされ、津川の顔に歌舞伎の隈取りができて法廷の真ん中でぽおーんと能が始まったあたりから、笑いがとまらなくなってしまった。後にいるのがウヨクだったら刺されちゃうなあ、と思うくらいくすくす笑いっぱな しだったのだが、どうやらそのようにみる映画ではなかったらしい(場内でも失笑はもれ聞こえてきていたが)。例の「我、一人特攻隊となり……」のクライマックスシーンで吹いちゃったもんなぁ。そういえばこの津川風の演技を「クサイ」といいつつ笑い、楽しむようになったのは「スチュワーデス物語」以降かもしれない。オーバーアクトというのは、喜劇表現の基本のひとつではあるのだ が、津川が熱演すればするほど、東条があほうに見えるというのは、喜劇なの か、悲劇なのか。(『反天皇制運動じゃ〜なる』15号、1998.10.13)












天皇訪韓の具体化が意味するもの
――和田春樹批判――

天野恵一●反天皇制運動連絡会

 金大中韓国大統領と天皇アキヒトとの言葉のやりとりをへて、金大中は二〇〇二年のワールドカップ(日韓共催)時以前に天皇の訪韓を正式要請ということになった。
 今、過去が「清算」され、未来の協力への志向が積極的に語られる時代が来たというムードが、マス・メディアの中で、強力につくりだされている。
 そうした状況の中で和田春樹は、こう語っている。
 「このたびの日韓共同宣言は、日本政府が戦後五十年に到達した認識を韓国国民に向かって表明したのに対し、その金大統領が二十一世紀に向かって日韓のパートナーシップをつくるのに前提ができたと承認した歴史的文書である。/金大統領は日本文化解禁と天皇の訪韓を新時代のあかしとして提起した。天安の独立記念館の最後の壁にも共同宣言の一節が掲示されるだろう。日本側では、政府の認識をすべての国会議員と公務員、すべての国民のものとすることが重要である。『慰安婦』問題など残る『償い』問題もこの精神で進めるべきだ。天皇が訪韓し、共同宣言の精神に基づいて韓国国民に語りかける日が早く来ることが望まれる」(「宣言精神を全国民のものに」『神戸新聞』十月九日)
 天皇の訪韓。何度も語られたが実現できなかったことが、いよいよ現実のスケジュールになろうとしている。
 しかし和田は、例えばである、元「従軍慰安婦」の人たちへの補償をめぐる問題についてなど、今回の日韓首脳会議では、議題としてすらはじかれているという現実について、どう考えているのだろう。議題にすらしない、このことに日韓首脳の明確な政治意思が示されているではないか。
 そして、天皇の訪韓問題については、どうしてこんなに手放しでヨイショできるのか。天皇訪韓が、いわゆる「新時代のあかし」になるというのだ。天皇は「代替り」しているとはいえ、天皇制は、アジア・太平洋戦争時の侵略・植民地支配に最高に責任のある制度である。天皇制のこの責任については、一度も日本政府によって認められたことはない。
 そして、その天皇が、国家を代表して、天皇として韓国を訪問することは、何を意味するのか。それは日本政府は日本の侵略・植民地支配の歴史に、具体的にキチンと責任を取らないことを前提に、今後も日韓関係を持続していくということを象徴する政治(外交)に、ほかならないではいか。
 なにやら、もう、それなりに過去の侵略や植民地支配については決着がついた、そういうムードが、今回の金大中の来日と、彼のふるまいを通して、強力につくりだされている。しかし、なにが決着で、どういう「清算」が進んだというのか。
 未来へ向かった「日韓のパートナーシップ」が宣言されたところで、過去の、そして現在の歴史認識について、どう正されたというのか。
 かつての「日韓併合」という、ひらきなおった日本政府の強権的態度を前提に結ばれた「日韓条約」(六五年)の「歴史認識」(その認識を前提にした、今までの日韓関係の問題)がどう正されたというのか。
 なにも、正されなかったではないか。確かに、金大中の全面協力下、友好(未来への協力)ムードは、前例のないくらい大きくつくりだされている。かつての「民主化」運動の悲劇のリーダーであったという金大中の過去は、フルに政治活用された。
 金幻想が、日本政府によって、非常に巧みに利用されたわけである。その幻想にのって、和田のような発言が浮上してきているわけだ。
 しかし、事実として進められている事態をこそ、私たちは直視し続けなければなるまい。日本の侵略・植民地支配の責任と、その事実にほっかむりしたままの戦後の責任(北朝鮮についても忘れるわけにはいかない)、これらすべてそのままにしたまま、なにやら“すんだ”というムードを演出することに成功した日本政府は、その欺瞞の政治の「完成」をめざして、天皇訪韓の準備に、具体的に向かいだしたのである。
 歴史認識が正されれば、アキヒトが天皇として(国家を代表して)訪韓する外交が正当化されるというわけはないのだ。(『反天皇制運動じゃ〜なる15号、1998.10.13)
















理想論と「現実論」
池田祥子とダグラス・ラミスの主張を手がかりに
天野恵一●反天皇制運動連絡会

 『向い風・追い風の』8号(沖縄の反基地闘争に連帯し、新ガイドライン・有事立法に反対する実行委員会のニュース)の「いまふりかえる安保・沖縄」の連載(第6回、毎回書き手は別)で池田祥子が小学校四年の時のクラスの中での討論の、ある体験について書いている。教師の「戸締まり論」(どの国もみんな軍隊は持っている、他国の軍隊が侵略してきたらどうする、という例の論理だ)の主張が、ほとんどの生徒の意見を再軍備やむなし、という方向へまとめてしまい、再軍備反対と考えていた彼女は、言い返せないで悔しい思いをしたという体験である。
 池田は子供のころから、「軍備なんかいらない、『国を守るための軍備』を持つこと自体、もう『戦争を前提にした発想』、戦争は避けられないという世界を認めることではないか」と、思い続けてきたが、自分の主張を「空想論」「理想論」「無責任」と非難する「現実論」は「悔しくも手強いライバル」であり続けていると語り、この短文を、このように結んでいる。
 「しかし、現実は、核兵器の恐怖を後楯としながら、明らかな戦争力学で動いている。『無力な理想論』という批判は身にしみる。それでも『リアリズム』は現状追認でしかないことをしかと見届けつつ、『理想論』と揶揄されるものを、なおしたたかな思想として鍛えたいと思っている」。
 タイトルは「『理想論』をしたたかな思想として鍛えるために」である。
 早熟な池田と違って、私は子供の時からの再軍備反対論者だったわけではないが、「『無力な理想論』という批判は身にしみる」というくだりは、私なりによく了解できる。
 戦争準備のための圧倒的な軍備と、事実としての戦争のくりかえしという、このウンザリする現実に対峙しながら、「反軍備」という理想を「思想として鍛える」ための方法。
 この点について、私なりに考えてきた。これの手がかりは、例えば池田の文章のなかにも具体的に示されている。
 学校大好きな生徒であった彼女が、いれあげていた教師の「戸締り論」に共感できなかった理由について、こう書いている。
 「私がなぜこの時、ひそかな違和感を抱いたのか理由は未だによく分からない。ただ、私たちの小倉の地も原爆投下の目標にされていたこと、たまたま曇り空だったため、B21は長崎へ行ってしまったと聞かされたばかりで、『よかった』とはつゆ思えず言いようのない哀しい気分になったこと、しかも『アサヒグラフ』の被爆写真を友達の家でこっそり見せてもらって、こんなことが現実に起こっていいの? と胸が一杯になったこと、村一番の美青年だったというビルマで戦死した母の兄(一人息子)の写真が、祖父母の家にしんみりと飾られていたこと、こんなことが私のどっかにひっかかっていたのだろうか」。
 戦争がもたらした「現実」(すさまじい被害の実態)と向きあう体験が、彼女の「再軍備反対」という理想への思想的通路だったのだ。
 この問題については、私はダグラス・ラミスの主張がストンと胸に落ちるものであった。19世紀は、軍隊などの暴力装置、これを国家が独占れば、国家は国民の命を守るために、これを独占すれば、暴力は世界から少なくなり、殺人も減るだろうと人々が信じた時代であり、こうした考えに基づいて、それを制度化(近代主権国家づくり)していったのが20世紀だった。この20世紀の実験は失敗、それも大失敗だったという現実を直視すべきだ。このようにラミスは語っている。
 「20世紀は、国民国家の百年間、ドンドンその数が増えた。20世紀の初めのころは国民国家の内側に入っていない人はおおかったでしょうが、今はそうではない人はいないでしょう。どこかの国に属している。正当な暴力を独占している組織である国民国家の中に住んでいるわけです。百七十ヶ国以上あるでしょう。/そういう世紀末の総決算をこそ、やるべきだと思うんです。この国家という制度の実験の結果は、どうだったのかということですね。正当な暴力を独占する権利が国民国家にあるのだとした、この百年間ですね。それが本当に人殺しを減少させたのだろうか、こういうことを冷静に考える時期なんだと思います。/答えは、非常にハッキリしていますね。くりかえしますが、戦争によって殺傷された人々の数が、こんなに多い世紀は、それ以前の人類の歴史にはない。/恐しい数の人が死んでいる。そして、誰が一番人間を殺しているか、マフィアもいるし、テロリストやヤクザもいる。いわゆる家庭内暴力、校内暴力、強盗殺人、いろいろあります。でもそこから出る死者の数と、国家が殺している数と比較すれば、比べものにならない。つまり一番の“殺し屋”は国家なんです」。
 私のインタビューに答えた「近代国家による戦争の世紀としての20世紀」(『月刊フォーラム』1997年12月号)での発言である(私の編集した『平和をつくる−−新ガイドライン安保と沖縄闘争』<インパクト出版会>に収められている)。
 ここで、ラミスは、国家は他国民よりも自国民を殺している数の方が多いという統計をも紹介し、国家が「国民の安全を守る」というのは、まったく根拠のない神話であると語りつつ、さらにこう論じている。
 「その現実を見たうえで、国家に軍事力を独占されてダイジョウブだ、今度はやさしくしてくれる、そういっている人は、現実主義者ではなくロマンティストだ。国家ロマンティストです。国家をバラ色に考えているに過ぎない」。
 こういう方向で問題を考えたら、例えば「戸締り論」の方が「国家ロマンティスト」の主張で、現実的ではないといえるだろう。
 「理想論」をしたたかな思想として鍛えるには、「現実論」の非現実性(国家ロマンティストの幻想性)をリアルに認識していく方向が追求されるべきである。私は、そんなふうに考え続けている。(『派兵チェック』 73号、1998.10.15)



 







《チョー右派言論を読む》

「負け組ロマン主義」を越えて
いまさらながら、加藤典洋『敗戦後論』を読む
伊藤公雄●男性学

 ぼくは加藤典洋が保守主義者だとはけっして思わない。また、そのことは彼自身が明らかにしていることでもある。実際、なにかと話題の『敗戦後論』でも、彼が「私たち」と書き始めるとき、それは、つねに、あの戦争を侵略戦争であると認識している者の視点からの語りに限られていることが、ただちに読み取れるはずだ。また、(これには異論もあるだろうが)書かれている内容そのものが、大きな文脈において、戦後派、なかでも戦後民主主義を擁護する立場からの発言として、それほど変わったものでもない、といのがぼくの印象でもある。とはいえ、現在、加藤は、ある種の「新たな保守」として多くの批判を受けているのも事実だろう。
 確かに、加藤が言うように、戦後の日本社会が、ある「ねじれ」をもっていることは明らかだ。しかし、この「ねじれ」を作り出した力は、(たぶん、加藤が考えているようには)日本に生き暮らす者たちだけによって生み出されたものではない。何よりもその背後には、帝国主義間戦争であった第二次世界大戦において生き残った(「社会主義」を冠したそれも含む)帝国主義間の対立構造が控えていたはずだ。それゆえ、この「ねじれ」を越えるためには、アメリカの戦後処理、特に、憲法制定・東京裁判をめぐる天皇および日本人の戦争責任のあいまいな処理という、そもそもの出発点を問う必要があったはずだ(保守派を巻き込もうという加藤の戦略は、彼にこの問題を避けさせているように思われる)。ただし、冷戦崩壊という大きな変化のなかで、その「ねじれ」が、新たな問い直しを迫られている、という認識においては、ぼくも加藤に合意できる。湾岸戦争は、まさにこの「ねじれ」をめぐる新たな問いかけを迫ったということも事実だろう。
 それにしても、加藤のこの「ねじれ」のほぐしかた(さらに言えば「国民」というナショナルなものの解除)は、(彼が批判するコスモポリタニズム型のナショナリズムの乗り越えよりは、「国民」という現実の「地盤」を想定しているという点で、より「現実政治的」に見えないでもないが)どう見ても観念的で図式的に過ぎる。そもそも、問題にされた、例の発言、「日本の300万の死者を悼むことを先において、その哀悼をつうじてアジア2000万の死者への哀悼、死者への謝罪に至る道」は、「ねじれ」の処理という点であまりにも「調停主義」的であった。
 いずれにしても、護憲派・改憲派の「ねじれ」を、戦死者の追悼を媒介にしたナショナルな意識の形成を経ることで、逆にナショナルを越えるという加藤の戦略は、−−保守派の完全な無視と戦後補償派の厳しい批判にみられるように−−明らかに失敗したということははっきりしている。
 しかし、興味深いのは、それほど目新しい議論でもないように思われる彼のこの本が、それなりによく読まれている、という事実だ。誰が、彼のこの本を支えているのだろう。聞くところによると、全共闘世代だという。なぜ、全共闘世代なのか。それはそのまま、この世代の一部における心理的トラウマとでもいえるものをぼくに連想させる。
 『敗戦後論』は、どうも「第二次大戦(アジア太平洋15年戦争)」の「敗戦後」というよりも、69〜70年闘争の「敗戦後」論なのではないか、という気が、ぼくにはするのだ。というのも、この本に書かれていることは、ナショナリズムの克服ということ以上に、「負けを潔く認める」というトーンが強く感じられるからだ。そう考えると、この本の支持者たちの姿が少し見えてくるように思う。あの闘争を闘いながら、それにうまく決着をつけ切れない同世代の人々に、「負けを認め、新たな今後をどう作るか」と、加藤はどこかで問いかけているのだ。
 こうした見方で、つまり70年敗戦後論として彼の本を読むとき、ナショナルなもののたちあげによるナショナルなものの解体という彼の戦略に対する以上に、あらたな危惧がぼくには生まれる。「負けた」ことのナイーブな認識が、どこかで、この世代の過去と現在のズブズブの肯定に向かいかねないのではないか、という危機意識である(それは、彼がしばしば引用する吉本隆明の本が、70年代、まさに70年戦後において果たしたのと同様な効果だといってもいいだろう)。その意味で、加藤のこの本には、矛盾した状況を生きるための加藤なりの「倫理」とともに、そのためにこそ、読者を含む自らの過去・現状の肯定が奇妙な形でダブらされて見えてくるのだ。
 そしておそらく、加藤のこの本がぼくに与える「反発」のあり場所もこのあたりにあるのだろう。「負けた」ことの処理の仕方(彼がとりあげる「敗戦」を「負け」として認識した者たちの取り扱いのあまりの恣意的な評価は、どう見てもどこか歪んで見える)への違和感だけではない。それが、(加藤のナイーブな思いとは逆に)次の時代を展望させるものとしてではなく、矛盾を認識しつつも限りない現状肯定へと向かいかねない全共闘世代(カラ元気の「勝ち組」とくらべれば、はるかに信頼のおける、おそらくは誠実でナイーブな「負け組」の人々)に、どこかで「ホッ」とした気持ちを与えるという意味において、きわめて「保守的」な機能をもっているという点において、なんだか、ぼくの心を暗くさせてしまうのだ。(『派兵チェック』 73号、1998.10.15)















《チョー右派言論を読む》

世界市場の崩壊を予言する財務官のニヒルな発言
資本主義のつぎには何が来るか

栗原幸夫●編集者

 与野党協議などと言えばなんとなく聞こえがいいが、何のことはない議会での公開討論を回避した談合じゃないか。野党は勝った勝ったと言い、新聞は野党案丸呑みなどと囃したてるが、蓋を開けてみればバブルに踊った銀行を税金で救済するという枠組みはすこしも変わっちゃいない。
 こういう結末にいたったのには、解散・選挙をおそれる野党への脅しと、大蔵官僚と自民党族議員のタッグマッチが功を奏した。たとえばこんな具合だ。「それまで表立った動きを見せなかった大蔵省だが、財政・金融分離問題については、ここ数日、『自民党を通じ、重箱のスミをつつくように、野党側の方針に難癖をつけてきた』(平和・改革幹部)という。/野党側によれば28日には大蔵省の榊原英資財務官が、平和・改革の冬柴鉄三幹事長らに『ブラジルの経済が危機的状況にある。日本がもたもたしていると、日本発の世界恐慌に発展しかねない』などと伝える一幕があった、とされる。/脅しとも受け取れる発言が、日本リース破たんというニュースもあり、平和・改革は『野党が戦犯にされては……』と懸念、民主党説得に回るなど、合意に向けて動き始めた」(『毎日新聞』9月29日、朝刊2面)。
 ここまではいわば前置きで、これからが本論になるのだが、ここに登場する榊原英資なる人物は、西部ススム〔作字してください〕の『発言者』の常連で「経済政策の現場から」などという雑文を連載しているが、『諸君』一〇月号では、西部に福田和也、佐伯啓思とともに「アメリカニズムを超えて」という座談会をやっている。そこで彼は、「べつにカタストロフィを言うわけではありませんが、今の標準からいえば世界経済が全世界的に壊滅することもあり得ると思うんです」という西部の発言に、「クレバーな人たちは、おそらくそういう世界経済の破綻がくるだろうなと思ってますよ」と答え、さらにこんなことを言っているのだ。「ただこの〔金融市場という〕シニカルゲームというのは、どんどん大きくなっていっています。だからそう遠くない時期にシステムとして破綻するというのはすでに見えてるわけです。私は、それは五十年とか百年のオーダーじゃなくて、五年とか十年のオーダーでくると思います。だから人為的に無理に止めなくてもいい。/いまIMFとかわれわれは、システムを何らかのかたちで維持するということをかなりシニカルになりながらやってるわけです。いろんなシステムを使って、延命させてるわけです。しかしそれを批判してるグループ、たとえばハーバードのジェフリー・サックス教授などは、むしろ国をデフォルトさせろと主張していて、いまはそういう意見がかなり強くなってきてますね。/しかし国をデフォルトさせると、その国は国際金融システムの外に追い出されます。そういう国が次々と出てくれば、いまのゲームは継続できなくなり、このシステムは終わる。また国が破綻すれば、そこにおカネを貸してる金融機関がおかしくなる。国際的に金融機関がおかしくなるというプロセスがあちこちで起きてくれば、国際投資はだんだんなくなってくるわけです。」
 これが日本の財務当局を代表する官僚で「ミスター円」とよばれる男の発言である。私はべつに官僚のくせに、あと五年か十年でこのシステムは崩壊するだろうというまことに正確な認識を吐露するのがケシカランなどと言うのではない。彼の発言は、与野党談合の作文作りを政治と思っているアホな政治家に比べれば、いかにもチョー右派言論人にふさわしいラジカルさをもっている。
 しかしそのうえで、私は彼の発言を一貫しているニヒリスティックな(彼の用語ではシニカルな)トーンに注目する。通貨政策の担当者である官僚がそんな評論家(!)みたいなことを言っていいのか、などとバカなことを言いたいわけではない。彼の言う「クレバーな人たち」がひとしく持ち始めた世界経済破綻の予想、そしてそれを待ち望む終末論的なニヒリズム、その先に何が待っているのかということをこそ、いま私たちは真剣に見極める必要があるということを言いたいのだ。ナチスをニヒリズム革命と呼ぶものもいる。
 案の定、この榊原の発言を受けて西部が言う。「一九二〇〜三〇年代のドイツは、すさまじいハイパーインフレーションに呑み込まれる中、フィクションかもしれないけれども、ドイツ民族の『血と地』の声を聞いた人たちが、それを根拠にしてある種の過激な運動、いわゆるナチズムを起ち上げていった。そしてマネーゲームに狂奔しているグループに対して、血と地でもって起ち上がるということをやったわけです。そういうことを起こす力は人類からはなくなったんでしょうか。」
 ナチズムが何であったかもろくに知らないこういう薄汚い野郎の言葉を書き写さなければならないのは、いかに『派兵チェック』のためとはいえこういう欄を担当した私の不運である。しかしそのうえでやはり、われわれは罰を受けているのだという思いを禁じ得ない。それでは罰を受けるに値する罪とは何か。二〇世紀の経験をあまりに簡単に手放してしまったことである。二〇世紀の最大の課題は言うまでもなく資本主義批判でありそれにかわる社会制度を模索することであった。このかつては常識に属したことが高度成長のなかで見失われ、資本主義は永遠に続くという幻想に人びとはとらわれた。ソ連と社会主義体制の崩壊がそれに拍車をかけた。それは違うというわれわれの声はあまりに小さすぎた。そのあげくに出てきたのがこういう「〔血と地でもって起ちあがる〕そういうことを起こす力は人類からはなくなったんでしょうか」というたぐいの発言だ。そんなアホな力を実現させないような力を、われわれは早急につくり出さなければならない。(『派兵チェック』73号、1998.10.15)

















時空を自在に駆けめぐり、隠された歴史にライトをあてる仕掛人たち――テント芝居・劇団「野戦の月」

 ぼーっと陰が見える程度の薄暗いだだっ広い野っぱらに、なにやら怪しげな光がもれている物体がある。巨大なテントだ。その周りには、ウロウロと手持ちぶさたに待っていたり、雑談を交わしたり、ビールを飲んだりしている人がいる。時間が来てテントに入る。薄暗いテントの中には前方5分の1くらいを残して、茣蓙の間と、テントの中央を前後に走る通路の両側に、それぞれ20人くらいの人が座れる階段状の板の間が3〜4段づつ設置されている。これらが、いわゆる観客席だ。そして、残り前方5分の1くらいの、テントの中で一番低いところは舞台。かと思えば、舞台はずーっと見上げる高いところに、天井と平行に這わせてある梯子だったり、そこから地面に垂直におろされたポールであったり、宙づりになったやぐらだったりもする。
 ご想像のとおり、このテントとは芝居小屋である。
 前方の舞台の中央でどこからかやってくることになっている何者かを、目を凝らし、あるいは何か語りかけながら、あるときは大声で呼びながら待っている役者がいる。そして、横から、後ろから、上からと、様々なところから登場するその何者かは、タイムトンネルを走り抜けてきたような得体のしれない人物……。このテントの中ではこのようなシチュエーションに必ずと言っていいほどに遭遇する。
 劇団・「野戦の月」の芝居だ。
 しかし、それにしてもこの「野戦の月」とは、このコラムにあまりにもピッタリ過ぎる名前ではないか。劇団の中心人物・桜井大造さんに名称の由来を聞いてみた。彼は言う。「山さんの名前をもらったんだよね」と。
 山さんとは、映画「山谷(やま) やられたらやりかえせ」の殺された二人目の監督、山岡強一さんのことだ。映画や彼については、本誌2号の本コラムですでに紹介しているので、ここでは省略することにする。彼が右翼によって殺されたのが86年。亡くなった山岡さんのことを北海道の詩人・米山将治さんが「野戦の月くだけて」と詠い、そこで表現された山岡さんの呼び名をそのままもらって劇団の名前にした、ということである。
 「野戦の月」の旗揚げが94年。大造さんはいう。
 「『野戦の月』と呼ぶのは山岡強一と呼ぶのと同じことなんだよ」「新しくこの劇団を結成したとき、山さんが殺されて約10年の歳月が経っていた。山さんを忘れないためにこの名前をもらった」と。
 彼らの芝居には、山谷というよりは、日雇い労働者が必ずや登場する。日雇い労働者というよりは、ただ、ぼろ切れのようになった労働者・労務者が。そして彼らは、どうやら「日本人」ではないらしい、海峡を渡らざるをえなかったらしい人物や、悪玉やら善玉やらその見分けがつきにくい登場人物たちとともに、テントの中でなにものかと闘いを始めるのだ。ドタバタ、ドタバタと。
 この「野戦の月」は、実は大造さんをはじめとする多く関係者にとって始めての劇団ではない。その前は「風の旅団」。旅団は82年結成、94年「野戦の月」結成までの間、長い活動を続けていた。大造さん曰く、「風の旅団の『3つの源泉』、その1『山谷』その2『在日朝鮮人』その3『反天皇制』」。
 思い起こせば私が知る限りでも、彼らの芝居がこれらのテーマと無関係に展開されたことはなかった。そういえば、昭和天皇Xデー近しという86年12月、反天皇制フォーラムへ街頭芝居をひっさげての参上ということもあった。実行委のメンバーだった私は、当日、ワクワクなのか緊張なのか、とにかく何だか興奮しながらその場を見守っていた。乱闘服に身を固めた機動隊と制服・私服警察との攻防の中で、彼らは反天皇制を大きく掲げた芝居を最後の日の丸焼き捨てシーンまでやり遂げる。警察権力に追われながら、舞台を公園の中から路上へ移動し、トラックの上で芝居を続ける彼らは、それだけで反天皇制を闘っていたように思えた。そして、いまの「野戦の月」も、基本的に旅団と違うところはない、と大造さんは言う。
 大造さん自身の芝居歴は長い。70年、芝居とデモをやるために東京の大学に入学した、と語る彼は、寺山修治の「人力飛行機ソロモン」という街頭劇の企画をとおして、彼らとの共有の時間を持ったこともあるという。がしかし、若くて「生意気」だった彼は、「ソリが合わず」彼らと離れたということだ。学生劇団を経て本格的な活動に入るのは73年。結成後一年でつぶれた劇団・「曲馬館」再建への参加がきっかけ。彼がいうには、これが彼にとっての決定打であり、曲馬館時代が出発点であった。テントとともに旅を始めたのもここからだとか。彼の芝居の方向を決定づけたのは、当時、前衛芝居の最前線を走っていると思われていた寺山修治でも唐十郎でもなく、過激なテント芝居・曲馬館であったのだ。曲馬館は、81年解散し、82年には風の旅団を結成。現在の野戦の月。ん〜、実に四半世紀、彼は芝居をやり続けてきたことになるのか。
 山谷との関係は76年くらいからだという。79〜80年、やはり労働者の街である寿町で公演をやり、そして80年代は必然的に天皇が出てきた、と。彼のバトル歴も長い。大阪にある日雇い労働者の街、釜ヶ崎での公演には2000人の人が集まったという。長い彼らの野戦活動のなかでも大造さんにとって忘れがたい1シーンであったと語ってくれた。

 言葉で説明できる。状況を見える形で説明的に演出することができる。ストーリーを展開できる。視覚的な舞台や衣装、文字など、それだけでメッセージ性をもっている小道具がある。このような多くの伝えるための条件を、芝居という表現形態はそなえているように思える。しかし、彼らの芝居はかなり難解だったりする。日常的に演劇をみるという文化的生活とは無縁の私は、彼らの演劇以外そんなに多くをみたことはない。その少ない経験で語ることではあるが、彼らの表現はほかと比べても、やっぱり難解な場合が多いと思うのだ。なぜなのだろう。
 彼らがつくろうとしている「場」について、大造さんは語る。
 「言葉や文章では伝わらない、現実の時間の中で語っても伝わらないもの」を伝えたいのだと。そして「テントの中に流れるものは、演劇空間ではなく劇的な時間なのだ」ともいう。「それは想像力の層が積もり、そのイマジネーションの層が、自分の時間の層を違うものに変えていく」、そのような場を求めているのだと。彼はこの肝心要でありそうなところについて、さらに丁寧な説明を加える。
 「『正義』というだけでは表現できないなにか、まだ見知らぬものを求める場」「集まっている人たちの過去からの固有の時間が重なり合う場」「単一な時間とは異なる時間が流れる場」。これらを模索することによって、「時間の支配者から自由であろうとすること」。これらの試みの一つの場としてテントがあるのだと。そして、そのための集団的作業としてのディスカッションと稽古をくり返す。このなかに、旅団時代に彼らが創り出した独特の「自主稽古」というやつがある。
 この自主稽古については、野戦の月結成時から役者として入ったという井伊嗣晴さんが話してくれた。彼は91年、風の旅団のツアーから裏方として参加し始め、旅団解散、野戦の月結成という流れの中で、京都で「魚人帝国」という劇団で役者を始めていたが、役者として野戦の月にあらためて参加したという人物だ。
 「自分の内側から出てくるものをきちんと出すことの体験」「見る側にたった場合、自分だったらどのようにするか、できるか」を、模索すること。これをこの自主稽古で積み上げていく。しかし、これは一人で黙々とやるわけではない。他の役者だけではなく、外からも役者や関係者が集まり、さまざまな視線が凝視する中で行われるという。そのような環境で、台本やセリフなど自分でつくったものを表現したり、即興で表現したりと、自分の表現力を鍛え上げていくのだそうだ。そして、これらは表現の方法だけではなくテーマ的なものも含まれており、「自分のやりたいことが人に見えてくれば、それは台本にも生かされてくる」のだという。人ごとながら緊張に体が震えだしそうな話であった。
 このような経緯をへて私たちの前で展開される彼らの芝居では、時間を何十年もの幅で走り抜ける登場人物たちが、自分がかつて存在したことを、現在生きていることを主張し始める。テントの中には過去の叫びと、現在聞こえてくる叫びとが共鳴する。歴史の闇に押し込められた人々がムクムクと起き出しては舞台の上でライトをあび、暗躍する。現在と過去がいたるところで交叉し、そのことによって現在流れている時間とは別の時間の存在を、その確かな流れを見せていく。たとえば、芝居の内容が難解であったとか、重要そうなあのセリフこのセリフを聞き逃したとか、仮にそういうことがあったとしてもだ、それとは無関係に見せつけてくれる彼ら独特の「場」なのだ。
 そして、観客である私たちはテントを去るとき、ほろ酔い気分の中で、あの人たち(登場人物たち)が確かにあのように存在していたということを思い起こしてみたり、芝居の中で役者が叫んでいたセリフを暗闇の中を歩きながらくり返してみたりするのだ。
 こんな紹介だけでは、ずいぶんしんみりした、あるいはハチャメチャな、もしかしたらとてつもなくクソ真面目な芝居なんじゃないの? と勝手な憶測を飛ばされそうで少々心配が残る。だが、これらはすべて間違っていないようにも思うし……、むしろ、すべてを持ち合わせているようでもある。どちらにしても、それらを感じるには、テントの中で体験するしかない。次回公演の予定は「来春から夏にかけて」という、えらく大さっぱな話であった。興味のある方は情報をお見逃しなく。












《メディア批評》

英語中心主義も日本語ナショナリズムもいらない
小倉利丸●AMLメーリングリスト管理人

 インターネットでは英語が常識という発想がますます強くなっている。これは非常に奇妙なことだ。確かにインターネットは米国生まれの国際的なネットワークである。しかし他方で、インターネットの普及とともに、非英語圏の人たちのアクセスが急増している。そうしたなかで、事実上、英語が標準になっている環境は本当にこれでいいのだろうか。
 特に英語以外の言語による発信は、英語に比べて不利益を被る場合がかなりある。コンピュータの世界で「テキストデータ」がもっとも汎用性のあるデータ形式だけれども、その場合でも、英語で使用するアルファベットの文字と日本語や中国語のような文字データの場合では、まったく異なる扱いになる。たとえば、日本語のテキストデータの入ったフロッピーを日本で受け渡しするばあいには、MS-DOSという形式のフロッピーであれば、コンピュータの機種が何であっても大抵は読むことができる。これは、私達が使うコンピュータに日本語を認識させるシステムを組み込んでいるからであって、海外ではそうはいかない。通販で米国内向けのパソコンを買った場合にはそのままでは日本語が使えない。しかし、日本で販売されているパソコンはどれであっても、アルファベットが使えるから、英語の表現には不自由しない。
 もう一つ問題なのは、言語を使う側の問題だ。私は、生まれた時から日本語を使用しているので、日本語が最も都合のいい言語だ。しかし、インターネットでは、日本語による情報発信では読者が日本語を読める人たちに限られてしまう。だから、もっと多くの人たちに読んでもらいたいということになると、結局は英語に頼ることになる。英語をしゃべれるかどうかが、基本的なコミュニケーションの能力に組み込まれはじめると、さまざまな差別が生まれる。通常の義務教育だけでなく、留学したり会話の学校に行ったりといった「投資」が可能な人たちとそうではない人たちの間ではっきりとした英語習得能力に格差が生まれる。こうした格差に対してインターネットのようなグローバルなコミュニケーションの装置は、それを解消する方向にむかうよりもむしろ強めているようにおもえてならなない。
 ホームページなどでも、政府やマスコミ、大手の企業のページなどは次々に英語のページを充実させる方向にある。しかし、市民運動などのページでは、一人でウェッブの管理をしているところがたくさんあるし、お金を出して翻訳してもらう余裕などほとんどないだろう。結局、この言語の問題が、結果的には情報を理解できる受け手の数に格差を生みだしているし、本来伝えたい相手に伝えきれないという問題を生みだしている。こうなると、ますます理解者の多い言語での発信力を強めようとするから、強い言語がますます強くなるという格差の悪循環が生まれてしまう。
 英語中心のネットワークの動向に対して、日本語での発信環境を整備しようという動きが活発にある。自分が最も使いやすい言語の環境がそのままネットワークでも通用することはとても便利なことだが、それは、立場を変えてみれば、英語のような普遍的な通用力を持ちたいという願望とどこかでつながっているかもしれない。日本は、かつての植民地支配の中で、日本語を強制した歴史がある。こうした歴史をきちんと踏まえることのない英語に対抗する日本語の通用力強化みたいな話は、言語のナショナリズムであって、私はどうしても肯定できない。
 では、やっぱり英語しかないのだろうか。しかし、特定の国家と結びついた言語をインターネットのような国際的な国境を越えたネットワークの標準として受け入れるべきではない。それは、20世紀に国連がやった「公用語」の路線とさほどかわらないものだ。学校で習った言語として、私も英語を使うけれども、それでよいとは思っていない。英語が国際語として通用しているのは、フランス語同様、植民地支配の結果だという歴史的な経緯は軽視できない。他のおよそ8000ほどもあるといわれている言語の中で最も習得しやすい言語だからだ、といった何か合理的な理由があるわけではないのだ。
 それで、私は最近、エスペラント語を始めた。多分、これ以外にインターネットでふさわしい言語はさしあたりはないと思うからだ。特定の国家や民族などの背景を持たないということ、人工語だから例外がなくて、とても覚えやすい。覚えやすい、というのはいいことだ。
 エスペラントのインターネットでの普及は、重要な意味を持っている。文字通りインターネットが国境を越えたネットワークになれるかどうか、特定の国家や民族、地域に有利にならないコミュニケーションを実現できるかどうか、こうした課題のためにも言語問題への取り組みは非常に重要だからだ。