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autonomous lane No.22 1999.11.22 |
【議論と論考】
「戦争」のリアリティ(水島たかし)
【チョー右派言論を読む】
保守言説を超えて/現状批判のための、新しい言葉とコミュニケーションのために(伊藤公雄)
【沖縄の闘い】
「県外移設」のスローガンにどう答えるのか−−沖縄の闘いと私たち(天野恵一)
【書評】
豊下楢彦編『安保条約の論理―その生成と展開』(立山紘毅)
山中恒・山中典子著『間違いだらけの少年H――銃後生活史の研究と手引き』(田浪亜央江)
【海外情報】
●はじめに
既に指摘されているとおり、一九九九年は日本の歴史上、国会がその機能を喪失したのみならず、人民の権利を侵害する「法律」を「濫立」させた年、すなわち立法たる国会が腐食した年として記憶されるだろう。あえて、第一四五回国会で「濫立」された法律を列挙する必要はない。しかし、西村発言によって日本の核武装が議論の俎上にのり(国会法改悪による憲法調査会の設置により、これが議論されることになるのだろう)、ついには破防法の実質的な改悪である「オウム」団体規制法(と、喧伝される法律)まで登場するに及んでは、国会とは一体何なのか、法律とは国家権力の人民に対する自制を成文化するものではなかったのか、という根本的な疑問が生じざるをえない。
●問題の所在
1 本年の一連の立法は、以下のとおり憲法の基本原理を破壊し、実質的に憲法を改悪するものである。そして、この事態は憲法の基本原理を破壊するが故に、法的には憲法改悪とも言えないものである。換言すれば、憲法の基本原理の破壊は、単に憲法の改悪にとどまるのではなく、憲法の破壊である。このことに留意しなければならない。
2 憲法の基本原理は以下の三項である。
(一) 国民主権(一条)
(二) 平和主義(九条)
(三) 基本的人権の保障(第三章)
基本原理とは、憲法改正の限界を画するものである。つまり、右の基本原理が無視される事態が発生し、あるいはそのような立法がなされれば、それは憲法の改正ではなく、憲法の破壊となるのである。
憲法は、帝国憲法の改正規定(帝国憲法七三条)によったとされているが(憲法前文・冒頭文)、@主権の変動(天皇から国民へ)、A戦争放棄、B人権の憲法的保障(帝国憲法では、基本的に法律的保障、例えば「日本臣民は、法律の定めるところにより、○○の『自由』を有す」など、法律による留保が前提とされていた)などにより、帝国憲法の改正と理解されていないことは常識である。この点、宮沢俊義(東大の憲法の教授・当時)により、帝国憲法から現憲法への「移行」は改正ではなく、法的に革命であるとされていることは周知のとおりである。これは通称、「八・一五革命」といわれている。
3 本年の立法動向は、憲法の右の基本原理にいずれも抵触するものであり、この意味で単なる憲法の危機ではなく、憲法の破壊であり、国家権力からの「革命」であると言うべきである。還元すれば、本来、法律の制定はその建前上は人民の権利を保障し、国家権力の発動を規制するものと理解されていたはずなのに、逆に人民の権利を規制し、国家の権力作用の発動を容易にするために国会が機能している。これは立法府たる国会の腐敗と堕落以外の何物でもない。
●今日の立法の動向について
1 確かに法律の改悪は、今に始まったことではない。刑法改悪――保安処分の新設や、拘禁二法(四法)の制定など、多くの法改悪策動に対し、反対運動が盛り上がり、この立法を阻止してきた。
しかし、これら法改悪の動向は、いわば「単品」として持ち出されたものであり、今日のように、国と地方あるいは、官と民を貫いて相対的な立法攻撃の構造を有していなかったと思われる。
2 今日の立法は、右と異なり憲法の基本原理に関わる「改悪」が一挙に進められている。たとえば、国会法改悪による憲法調査会の設置は実質的な憲法改悪に向けた形式的な段階整備というべきであり、憲法「改正」の発議は今日の自・自・公連立政権によって可能となりつつある。そして、以下に述べる一連の立法をみれば、本当に憲法改悪も現実の課題となりつつあると理解せざるをえない。
3 「日の丸・君が代」法について
「日の丸」と「君が代」が法制化された。憲法で天皇は象徴とされており、その象徴の意味は、法律上(一般的に)「抽象的・無形的・非感覚的なものを具体的・有形的・感覚的なものによって具象化する作用ないしその媒介物」とされている。しかし今回の法制化において、「君」の意味につき政府の答弁は天皇に属人性を与えた。すなわち、「君が代」の「君」は天皇を意味するというのである。従来は、「象徴たる天皇による平和な日本国のあり方」などの意味不明な解釈が政府から示されていた。今日、「君が代」の法制化にあたり、天皇が属人的な者として示されたことの意味は重大である。なぜなら、「日の丸」や「君が代」の法制化により、天皇(制)が単なる象徴ではなく、天皇と国民とが人的に結びつけられることになるからである。そして、この結合関係は上位の天皇とこれを敬う「国民」という形で定式化され、結局、帝国憲法の天皇・臣民という関係を、現代的に復活する以外の何物でもない。ここにおいて、差別の現実化としての「国民」と「非国民」という、おぞましい問題までもが発生し、現に、そのような事態が生じている。
グローバルスタンダードなどと喧伝されるが、日本の現実と実態は右のような「国民」と「非国民」の差別に汲々としているのである。誠に笑止といわざるをえない。
4 平和主義の変質など
(一)周辺事態法が、憲法上認められない集団的自衛権を容認するものであり、
(二)盗聴法が、通信の秘密の絶対的保障(憲法二一条二項)を侵害するものであること、
は周知のとおりである。
●法の規範性の弛緩
前記のとおり、憲法の基本原理は、本来、国家権力の無制限な発動を規制する原理である。従ってこの原理の緩和は極めて例外的、かつ謙抑的であるべきである。
しかるに今日、憲法の基本原理とは、全く逆に理解(誤解)されているようである。すなわち、刑罰法規などの面では主観的な疑いや、危惧があれば、これを取り締まれというのが、趨勢のようである。右は、本来の健全な法的常識において、法規範の無自覚な弛緩である。そして、国家権力の法律を持ってする人民への支配の加担要素である。
今日、立法ということが、本当に人民の権利に資するものか否か、この立法を促進する者が、国会の内外を問わず本当に人民の権利を擁護する者であるのか、それとも国家権力の「お先棒」を担ぐ者にすぎないのかが問われている。
これまでは自明と考えられていた、法律の本来的な性格が、今日では人民の諸権利を抑圧する手段に転化したこと、そしてこのことについて、たとえば破防法改悪にみられるとおり、本来「人権派」と自覚・自認しているはずの人々たちが、何の異議も申し立てることができない(むしろ、結果的には右の人権侵害の立法動向を促進している)ことに、今日の立法の腐敗の重い質・量を感じざるをえない。
本当に、当然と思われる原理・原則の遵守の困難性を考えさせられる厳しい情勢である。(『反天皇制運動じゃ〜なる』28号、1999.11.16日号)
「戦争」のリアリティ
水島たかし●東京大学文理研
小林よしのり『戦争論』について、関連本がようやく出そろいつつある。ここではそれらのうちの三冊を取り上げ、論じてみたい。
『国家と戦争』(飛鳥新社)は、小林と福田和也・佐伯啓思・西部邁の四人による座談会で今年六月に出版された。『戦争論』擁護側の本だが、必ずしも「自由主義史観」(または「つくる会」)派の本ではない。大部分「放談」ばかりで得るものは少ないが、あえて注目するならば、反天連でも大人気(?)の福田和也の主張が目をひく。
「南京攻略」について、「ヤケクソじゃないけど……それなりの妥当性があって、えいっとやってしまったことだと思う」という程度の認識の小林に比べて、福田は、「僕はヤケクソでなければできないとは絶対に思いませんけれどもね。近代戦っていうのはそういうものではないですよ。僕はもっともっと機能的に有効に戦えたと思うし、そうしなければいけなかったと思う」と述べる。福田は他の場所でも「計画」「作戦」が間違っていたことを強調している。「大東亜戦争」について「あんなものでも戦争全般の意義は、世界史的にはすばらしいものと思ってる」と述べる小林に対して、福田はこう言う。「……昭和のあの年代で、いろんなことがあって、後知恵というのはそれはそうですよ。……にもかかわらず大東亜戦争というのは、ものすごい大きい経験ですからね、日本人にとって。これが何だったのか、どういうことだったのかということを、いろいろなかたちで学ばなければいけないわけですよ。それが我々にとって一番大事なことであるし、それが後世に居る者の責任なんで、それを真面目に考えるということから逃げてはならない」。
小林のような狂信的な主張と比べてこれを「まし」な主張と考えられるか。福田が小林に反論するあたりのやりとりから、「次(の戦争)に勝つ」という主張が醸し出されて来ることに注意したい。
「福田さんが目標とするように、次に勝つには」「あんなもので『加害者の誇り』なんか言っていたら、次も勝てないよ(笑)」「『次に勝つために』という大義が福田和也にはあるから(笑)」(以上、小林)「今度やるときには」(西部)
ここでは福田自身が「次に勝つ」とは明言していないが、小林はこの主張をしっかり受け止めている。小林のあとがきに曰く、現場の兵の悲惨さを思えば福田の「治者」の論理は説得力があり「特にそれが、もし万一、もう一度戦うときのために、という大義があるのならば、益々もって必要なことであろう」。
『国家と戦争』に一月ほど遅れて『戦争論妄想論』(教育史料出版会)が出た。マンガも含む八人の『戦争論』批判論である。宮台真司や姜尚中の文章もあるが、彼らの議論は一般的過ぎて私は面白くなかった。それに対して、中西新太郎・若桑みどり・梅野正信は、『戦争論』に惹かれる「若者」の思考・心理をそれぞれ探っており、興味深い。
中でも梅野は、大学生へのアンケートの他に、『戦争論』支持のインターネット上の掲示板に掲載されたメッセージを分析している点が目をひく。梅野は、『戦争論』支持の掲示板が、「偏狭的『よしりん』信者ばかりでなく、大勢のピュアでマジな若者たちによって支えられているという、もう一つの事実」を重視する。「なぜならば、このことは、多様な意見表明が活発に行われるスペースを、こちら側でなく、向こう側が、すなわち『戦争論』支援ボードの側が若者たちに提供できているという、深刻な事実を意味しているからである」。
彼はそうした「深刻な事実」への対案として、彼は二つの「平和教育の授業プログラム」を提示する。一つが「良心的兵役拒否」などの「具体的な選択肢」の提示であり、もう一つが「『戦争』と『死』の問題」について子供が納得できる論理の提示である。後者の例として、梅野は沖縄戦をあげる。小林よしのりは沖縄についてはほとんど触れておらず、沖縄戦をとりあげることは確かに『戦争論』の弱点をついてはいる。だが、「戦争」を「死」に結びつけて考えることはどこまで通用する「反戦争論」なのだろうか。
先ほどの『国家と戦争』では「『戦争』と『戦場』を無批判に同一視してしまう」(福田)ということが批判されている。佐伯啓思は「ピンポイント攻撃」をもって「戦争のかたちが変わってきています」と述べ、そうした「ハイテク戦争」ならば「じゃああれはいいのかと言うと、そんな馬鹿な話はないわけでしょう」とまで議論を先取している。小林もこれに同調して「うーん、きれいな戦争ならいいということになるね、そうなると」と揶揄している。もちろん「ピンポイント攻撃」自体を「きれいな戦争」と呼べるかは疑問だが、原理的には、「日本人」が「死」と直面しないような「戦争」の可能性は残される。だとすれば、梅野の提示する「平和教育」はどこまで有効なのか疑問がある。
最後に、九月に出版された吉本隆明『私の「戦争論」』(ぶんか社)について検討する。目次を見ても、小林よしのりや「つくる会」への批判が正面に据えられている。だが、一読して感じられるのは、非常に実感主義的な語り口である。もちろんそれは今に始まったことではないし、インタビュー形式のせいもあろう。また、たしかに実感に即した価値判断はわかりやすいし、小林が守るべきだと主張する「祖父たちの物語」を生きた吉本自身(戦場には行ってないとはいえ)が、形式論ではなく感情に基づいて『戦争論』批判を展開するのは痛快でもある。だが、「……と思った」「……と感じた」という論の展開は、個人の証言ではあり得てもそれ以上の説得力には欠ける。
「公」(小林の場合=「国家」)を重視する小林を「時代錯誤」と批判して、吉本は「市民社会」の「情緒」を重視し、そこから発想する必要性を説く。小林の戦後民主主義批判にかなりの程度賛成しつつも、個人の方が国家(公)より大きい、として「個人主義」のみならず「エゴイズム」すら肯定する。
しかし結論の方向性が正反対であるからといって、それだけで評価はできない。問題なのは議論の構造の方である。吉本の議論は「民衆」の立場から考え始めるというものであるが、そこでは「公」と「私」の静的な分離は前提にされてしまっている。分離した上で、どちらから出発するか、ということが問題となっている。もちろん戦争責任の問題において、政府と個人の責任をわけることは重要であるが、もし全てが「私」からしか始まらないのであれば、吉本は「軍国少年」であったかつての自身をいかにして対象化・相対化しうるのだろうか。「情緒」を「尊重」することは重要であっても、その「情緒」がいかなる質のもので、いかにしてつくられているのかという問いを捨てることはできない。いわば「公」と「私」をつなぐ関係の内実こそが問われなければならない。だが、その分析が書かれていないために、「公」に立つか「私」に立つかという結論だけが恣意的に選択されているかのような議論に見える。
なぜ「公」から出発してはいけないのか。吉本の場合はそれは戦争体験から来る当然の教訓であり、したがって『戦争論』は「時代錯誤」と否定される。だが、「戦争体験」や「歴史の教訓」が自動的には継承されないときには、「国家」と「個人」の大小ではなくその関係をきちんと説明できなければ、「公」と「私」の重みは簡単に反転する。現在は「公」を優先させる小林だが、少し前までは「私」の立場からの、吉本隆明に似ているとも言える議論をしていたのではなかったか。
『戦争論』はいかなる意味でも読むに値する本だとは思えないし、今までみてきたその関連本もそれほど刺激的ではない。「自由主義史観」自体もその主張が拡散し続け、個々の議論を整理するだけでも(右派の本を読む馬鹿馬鹿しさも含めて)大変である。だが、『戦争論』を契機として、「戦争」が論議の中心として登場してきていることは注目に値する。つまり、「戦争」は日本(の言説空間)においてももはや「特別」なことではなくなりつつあるのだ。そのような状況においても通用する「反戦争論」はいかにして可能か、ということが問われているだろう。
(『反天皇制運動じゃ〜なる』28号、1999.11.16日号)
《チョー右派言論を読む》
保守言説を超えて/現状批判のための、新しい言葉とコミュニケーションのために
伊藤公雄●男性学
かなり以前のことだ。たぶん、8月の中頃のことだったと思う。日曜日の朝、例のごとくフジテレビ系列の竹村健一氏が司会をしている政治番組(早起きのぼくは、日曜日の朝7時台に見る番組がないので、ついつい見てしまう)をボー然と見ていた。テーマは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)有事にどう備えるか、といった危機アジリものだった。出演者たちのおしゃべりをぼんやりと聞いていたら、「へっ」と思えるような面白い言葉が耳に届いた。
「今の北朝鮮はなあ、戦前の日本のような状態と考えた方がええ。ABCD包囲網のような国際状況で、無理を承知で一か八かを日本もやったやないか。国内的に見ても天皇制絶対主義の日本と今の北朝鮮はそっくりや」(正確なものではないが大意はこんなところだった)。
竹村氏の発言である。確かに、北朝鮮の政治体制が戦前の天皇制ファシズム体制と良く似ているということは以前から指摘されてきたことだ。というより、戦前、皇民化教育を受けてきた人たち(亡命した黄元書記などはその典型例だろう)が、戦後、支配層の一部を形成するなかで、かなり意識的に天皇制ファシズムの統治形態を取り入れたとさえいわれるほどだ。とはいっても、ここまで言うなら、「今、日本も、北朝鮮みたいに戦前帰りをしていてアブナイ」くらいは付け加えてほしかった(まあ、ないものなだりだとは思うけどネ)。
ぼくも以前から、「日の丸」右翼(もちろん、冗談として聞いていただきたいのだが、政府は、「国旗・国歌法」制定で、右翼の「日の丸・君が代」の使用を禁止するような措置は考えないんだろうか。外国人などの目から見たら、どう見ても「国辱」ものだと思うけど)や超保守派の政治家に対して、「そんなに戦前の政治体制がいいなら、お隣に、よく似た国があるし、そちらへいかれたらどうですか」と言ってみたい誘惑にかられ続けてきた方だ(このことは、先月号でも書いた)。
特に、国旗・国歌法、盗聴法、住民基本台帳法などなど、今年に入っての日本の政府の動きは、「お隣の国」化を目指しているとしか思えない。「北朝鮮」というと、民族排外主義につながりかねないから言い換えるが、「自自公政府は、日本を金正日の国のようにしたいのか」と叫びたいぐらいだ。
最近、保守派の言説ばかりが目だって、それに対抗する勢力が、多くの人に伝わる言葉を失いつつある。その背景には、世代交代という問題もあるだろうと思う。「あの暗黒の時代を繰り返さないために」なんて叫んでも、日本がアメリカ合州国と戦争したことを知らない世代には届かない。もういっそのこと、「日本を金正日体制のような国にするな」とでも言った方が、ズッと通りやすいのではないか(何度もいうが、排外主義宣伝にならないように配慮しつつのことではあるが……)。
今回、この連載のなかで何度かふれてきたことだが、保守派言説の消費の広がりの背景には、明らかに保守派の言説の方が、レトリックも含めて、「面白い」ということがあるだろう(そもそも、「保守言説の方が面白い」なんて言ったがために、この長く苦しい連載を引き受けさせられたのだろうが)。保守の方が、「左翼」と比べて、妙な相対主義や柔軟性を示すとともに、読者受けする(しばしば露悪主義や他者への罵詈雑言を含む)、ある種「新鮮で」「刺激的」な発言をうまく「生産」しつつあるのは、残念ながら事実だろう。
と同時に、大塚英志氏がいうように、広義の論壇における議論が、今や、一種の「広告代理店」的な発想による作られ方によって生産されているということも、保守言説のオンパレードの後ろにはあるだろう。その動きに、保守派言説はうまく乗ったということだ。消費の対象としての言説の生産は、「遅れたサヨク」たたきという、「現状批判」の装いをもった戦後社会の右よりの批判(現状肯定からそれをさらに反動的に再編する流れ)と、うまく結び付いてきたのだ。
もちろん、「現状批判の運動の側も、もっと民衆に消費されやすい言葉を生産しよう」などと言いたいわけではない(ちなみに、先にふれた大塚氏は、広告代理店的発想から考えると、次に売れる雑誌の傾向として、今流行の右系雑誌とともに、はっきり「左」を掲げた雑誌が「消費者」には「新鮮」に感じられて売れる可能性がある、というようなことも、のたまわっていたが……)。
しかし、今現在のある種の行き詰まり状況のなかで、どう書くか、どう表現するか、どう伝えるか、という問いかけが、現状批判派の運動に投げかけられていることは明らかだ。
「日の丸・君が代」から天皇賛美に至るこの間の動きに、多くの人々は、ぼんやりした不信と不安を感じ始めている(楽観的といわれるかもしれないが、おそらく、次の選挙で、保守派はそのしっぺがえしを食らうことになるだろうと思う)。しかし、その不信や不安に、ぼくたちは、うまく答え切れているだろうか。自分たちの動きを「ひとつ」にくくってしまうことなく、自分たちの側の多様性・複数性をフレキシブルに維持しながら、それを調整しつつ結び付けるような、表現と運動の「技術」が、今、改めて問われているのだと思う。(『派兵チェック』No.86,
1999.11.15日号)
《チョー右派言論を読む》
分かれ道に立って
栗原幸夫●文学史を読みかえる研究会
「現在われわれが直面しているのは日本の過去への回帰ではなく、戦後国家の超克をめぐる新しい事態なのだ。もちろんその結果うまれる日本国家が過去の絶対主義的な国家や戦後国家よりもより良いなどということはない。ワイマール共和国の後に生まれたナチス・ドイツがワイマール共和国よりも良いとはとうてい言えないものであったように。しかしまた、多くのドイツ国民がナチス国家の成立を喜び支持したのも事実である。なぜならナチスはロマン主義を身にまといながら「新しいもの」「解放する者」としてやってきたのだ。これに抵抗する側は、現状維持か、あるいは観念的な革命スローガンで対抗しようとした。大衆の「魂」をつかんだのはナチスだったのである。しかしこの問題については次回にふれよう」と、私は前回に書いた。その約束を果たしてこの連載をおわりたい。
われわれの言論が狭いサークルの中だけで自己回転していて、いっこうにその外の人たちのあいだに入っていかないという現状に、おおくの人がいらだちを感じている。その外の世界では、小林よしのりの『戦争論』がナン十万部出ているというような話題に事欠かない。その小林が語った「多分、庶民感覚の段階では随分変わってきてるでしょう。そこに対して本当に届くような言葉を向こう側(つまり、われわれ――栗原)から投げかけてこないかぎり、もう向こうの方に勝ち目がないという状態が来てるんだと思いますよ」という言葉を私は紹介したが、それに答えてというわけではないが、この状況に危機感を持つ人の中から一種の大衆化論が出てくるのも当然と言えるだろう。もっとやさしくとか、語り口をかえようとか、ちょっと洒落てコトバのモードだとかをいう人がいる。その意図に私は共感を惜しまないが、しかし現状を乗り越えるには大衆化論的な発想ではだめだ。ラディカルでなければ広範な人びとの心に向き合うことはできないのである。
ここで言う「ラディカル」とは「根底的な」という意味である。もちろん私はマルクスのつぎの言葉を念頭に置いている。――「理論が大衆をつかむことができるのは、それが人に訴えるように(ad
hominem)表現されるときであり、そして理論はラディカルになるやいなやad hominemに表現されるのである。ラディカルであるとは、ものごとを根底においてつかむことである。そして人間にとっての根底とは、人間そのものにほかならない。」(「ヘーゲル法哲学批判・序説」)
このコラムを担当した一年半ばかりのあいだ「チョー右派言論」につきあってきて、私は一種の既視感につきまとわれた。それは戦争中の「日本浪曼派」や「世界史の哲学」をめぐる青年たちの共感についての回想と関係する。そしてそれは私よりも二、三歳上の世代のこれらにたいする共感あるいは熱狂はいったいなんだったのかという問いに、私を連れ戻した。
「日本浪曼派」も「世界史の哲学」も、マルクス主義の退場に入れ違うようにして登場した。この交代劇を生み出したのが弾圧と転向と戦争であったことは言うまでもない。その故に従来の進歩派の立場からは、この両者はマルクス主義を弾圧した権力によって庇護されたもっとも悪質な侵略イデオロギーと指弾されたのである。たしかにこの両者にはそのように批判されるべき部分が本質的に存在する。しかしそのイデオロギーを支えているのはラディカルと言ってもいいほどの根底的な現実否定の心情なのだ。かつてマルクスの革命の哲学を受容した若者と、保田輿重郎のロマン主義的否定性の文芸に心酔した若者は、じつはおなじ心性の持ち主なのである。福本和夫の「極左的ロマン主義」と保田輿重郎の「日本浪曼派」は、戦前・戦中の若者たちにとって、十年の年月を隔てて等価である。
いま私たちはマルクス主義が退場したあとの白けた風景の中にいる。しかも人びとはますます、この愚劣な現実はもうたくさんだと思っている。それはまさに「すでに見た」風景なのだ。このなかに、もろもろの右派言論――藤岡信勝の「自由主義史観」や西尾幹二の『国民の歴史』のようなたんなる「体制の犬」にすぎない肯定性の言論でなく、ラディカルな否定性をもった「チョー右派」の本格的な言論がどのように登場するか、いやすでに登場しはじめているそれに、この大衆社会の「うんざりした」人びとがどのように反応するか、そこにいまの分かれ道があるように思われる。
そのような状況にわれわれの言論が有効に対峙するためには、真の意味でのラディカリズムを回復しなければならないのである。われわれにとっての「根底としての人間」はけっして抽象的なものではない。それはこの高度資本主義社会の腐臭に耐えながら、大衆文化に囲まれてその日をなんとか生きのびている多数の庶民である。もちろん彼らも一人ひとりの顔をもっている。その異なる一人ひとりの顔に向き合い、一人ひとりの魂にまでとどく言葉とメディアをどのようにその人たちと共同の作業によって作り出していくか、そこにこの現実を「超える」どのような理念と運動を共有していくか、それがいまわれわれに問われているのである。
かつてあるドイツの思想家は、「革命に対抗するために窮乏化しつつある市民にさしだされているもろもろの方策を理解し、それにうちかとうとするなら、ひとは――悪魔的に――市民の国へ乗り込んで行かねばならぬ」と、ファシズムに敗北した苦い経験をふまえて書いた。そのことの意味をいま、私は反芻している。(この部分について短文で意を尽くせなかったが、私の「ブロッホ『この時代の遺産』を読む」を参照していただければありがたい。)(『派兵チェック』No.86,
1999.11.15日号)
《沖縄の闘い》
「県外移設」のスローガンにどう答えるのか−−沖縄の闘いと私たち
天野恵一●反天皇制運動連絡会
いま沖縄はギリギリの闘いの局面を、また迎えている。
米軍普天間飛行場の移設地を、名護市のキャンプ・シュワブ周辺の辺野古地区に、年内に決定する策動。これが米軍と日本政府の意を汲んだ岸本市長と稲嶺知事が組んで公然化しているのである。
こうした動きを見越して、10月23日には「普天間基地・那覇軍港の県内移設に反対する県民集会」が、主催者(県民会議)の1万人結集という呼びかけを、はるかに超える人々を集めて持たれている。そして、辺野古の反対派である「命を守る会」も積極的に動き出している。
しかし、振興策(金)をひたすらちらつかせつつの日本政府のハレンチな手口に呑み込まれてしまっている稲嶺県政と名護市長の動きに示される状況は、力強く闘い続けてきた反対派にとっても、決して楽観できる事態ではない(この間、稲嶺県政は平和祈念資料館の展示内容と方法を、日本軍の残虐性を薄める方向であれこれ改竄し、その事実が明らかにされると、直接に自分たちは関与していないかのごとく“とぼける”という対応を示し、沖縄の人々に大いなる不信をつくりだしている。この「反日的」でない、「国策」に添う方向への事実の書きかえという態度は、稲嶺県政の基地県内移設政策の推進と対応している)。
浦島悦子は「『県外移設』―あなたへのラブコール」(沖縄便り第20回『インパクション』116〈1999年10月30日〉号)で、「県外移設」というスローガンをめぐって、女たちのグループの間に大激論があったことを、このようにレポートしている。
「もとより私たちは、県内のみならず、この地球上からすべての軍事基地および軍隊を一日も早くなくしたいと願っています。そして、『県外移設』という表現が『本土移設』と受け取られたり、基地を認めるものだと誤解されるかもしれないことも、また、これまでに『本土移設』された米軍基地が、沖縄県民の負担を減らすのではなく、いっそうの基地機能強化・拡大と移設先住民の苦痛をもたらしたことも知っています。/しかしながら、私たちのあずかり知らないところで決められた日米安保条約に基づいて全国の米軍基地の七五パーセントが半世紀以上も沖縄に固定化され、いままた、私たちのまったく合意していない『SACO合意』なるものによって、何としても沖縄県内に基地を押し込めようという日米政府からの締めつけがますます強まる中で、私たちはぎりぎりの叫びとして『県外移設』の声をあげました。それは、この島々のどこにも新たな基地は絶対に作らせないという私たちの強い決意の表明であると同時に、県外の方々に、この問題を自らのこととして考えてほしいという呼びかけでもあります。全国の、全世界の人々がそれぞれ自分たちの地域に軍事基地はいらないと押し返すなら、地球上から基地も軍隊もなくしていくことができるでしょう。私たちの叫びはその第一歩なのです」。
この自分たちのスローガンは、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の人々は最後まで受け入れなかったため、今回の声明に関しては「行動する女たちの会」は参加しないで、他のグループだけで出すことになったと述べつつ、浦島はこう続ける。
「どんなに論議が白熱してもケンカにならないところは、女たちの良さかもしれない。というより、やり方は違っても、気持ちはみんな同じだというのがおたがいにわかるからだろう。『県外移設』について最後まで意見は合わなかったけれど、『女たちの会』の高里鈴代さんが現在の沖縄を、今まさに、孤立無援の中で強姦されそうになっている女性に例えた表現が忘れられない。ナイフを突きつけられて、『自分で脱ぐか、さもなくばこのナイフで服を引き裂くぞ』と脅されている女。もちろん、脱ぐのも脱がされるのもイヤに決まっている。しかし、命を失いたくなければ自分で脱ぐしかない。『今の沖縄はそこまで追い込まれているのかもしれないと私も思う』と彼女は言ったのだ」。
〈孤立無援の沖縄〉という言葉が胸に刺さる。
10月16、17日の2日間、「周辺事態法反対運動を軸とした合宿討論会」が北九州で開かれた。そこでの沖縄からの報告者であった新崎盛暉は、その発言の終りに、この浦島が述べている「県外移設」のスローガンについて紹介した。そして、これはかつて自分が、やや戦術的に述べた「ヤマト基地移転に反対はしない」という発言とは違って、もっと切実な状況の中で、ギリギリに発せられた声であると思うと語った。
基地を沖縄に押しつけ続ける日本政府への抗議の運動を、どのように大きくしていけるか。この局面で、あらためて私たちの運動が問われているのだ。(『派兵チェック』No.86,
1999.11.15日号)
「天皇メッセージ」と「在位十年奉祝」
アキヒト天皇の沖縄の歴史と文化の理解度
天野恵一●反天皇制運動連絡会
即位十年奉祝」式典の前日(十一月十一日)に「両陛下会見」なるものが持たれた。
そこでアキヒト天皇は、沖縄についてこう発言している。
「沖縄県では沖縄島や伊江島で軍人以外の多数の県民を巻き込んだ誠に悲惨な戦闘が繰り広げられました。沖縄戦の戦闘が厳しい状態になり、軍人と県民がともに島の南部に退き、そこで無数の命が失われました。島の南端、摩文仁に建てられた平和の礎には敵味方、戦闘員、非戦闘員の別なく、この戦いで亡くなった人の名が記されています。そこには多くの子供を含む一家の名が書き連ねられており、痛ましい気持ちでいっぱいになります。
さらに沖縄はその後、米国の施政下にあり、二十七年を経てようやく日本に返還されました。このような苦難の道を歩み、日本への復帰を願った沖縄県民の気持ちを日本人全体が決して忘れてはならないと思います。私が沖縄の歴史と文化に関心を寄せているのも、復帰にあたって沖縄の歴史と文化を理解し、県民と共有することが県民を迎える私どもの勤めだと思ったからです。後に沖縄の音楽を聴くことが非常に楽しくなりました」。
この「平和と沖縄を思う心」をマスコミはこぞってクローズアップしてみせている。しかし、この男の沖縄の歴史理解には、ヒロヒト天皇らが自分たちの延命工策の時間をかせごうとして、グズグズして敗戦を延ばした結果、沖縄戦になってしまったことやヒロヒト天皇自身が沖縄での「戦果」を期待していたという重大な事実はふまえられているのか。又、敗戦後占領下には「沖縄(および必要とされる他の島々)にたいする米国の軍事占領は、日本に三権を残したままでの長期租借\二五年ないし五〇年あるいはそれ以上\の継続に基づくべきであると考えている」というヒロヒト天皇の沖縄を米軍に売り渡すメッセージの存在についてはどうなのか。「疑いもなく私利に大きくもとづいている希望」とアメリカ側に評されたメッセージは今日まで続く大量な米軍基地の沖縄への押しつけという歴史的現実とおおいに関係のある事柄である。いつも「昭和天皇のことを念頭に置きつつ」動いてきたというアキヒトは、こういう自分が継承している天皇制の歴史的責任について、どう考えているのか。
そういう事実は、まったく存在していないかのごとくにアキヒトはふるまい、マスコミも、そういうことをまったく問題にせず、天皇の「平和」を思う心を抽象的に賛美し続けている。しかし天皇は、他人事のように沖縄戦の「悲惨」を語り、沖縄の戦後の「苦難」を語れる人間ではないのだ。天皇(制)の責任を考えたら、天皇の「痛ましい気持ちでいっぱいになる」等と言った、政府の役人と協議の上で作られた「発言」などはまったく心のないものであるにすぎないことは、あまりにも明白ではないか。
一一月五日の『沖縄タイムス』には、以下のような記事がある。
「県の新平和祈念資料館の展示内容を検討する監修委員会(委員十三人)の全体会議が四日午後、糸満市摩文仁の同資料館で開かれ、県が独自に削除した『天皇メッセージ』の復活など、これまで三つの部会で確認してきた事項を了承した」。
アメリカと日本政府の意向をくんで、沖縄内に新しい基地を移設することを、年内に決めるという方針を明確にした稲嶺(恵一)県政は、この間、新しい県の平和祈念資料館や八重島の平和祈念資料館の展示内容や方法を勝手に改竄している事実が明らかになり、沖縄社会では、県知事の責任(そうである事実を隠し、嘘をつき自分たちは関係ないかのごとくふるまい続けてきた態度をも含めて)を問う声は大きくなっている。
この改竄のなかに、「天皇メッセージ」の削除も入っていたのである。改竄は、日本軍が沖縄の住民に対して行った様々な残虐行為の事実を隠していく方向で行われたのだ(一つ例を示せば、「虐殺」を「犠牲」といいかえるという具合)。
日本政府の意志を先取りして、「国策にそぐわない」もの「反日」的なものを書きかえたり削除していった稲嶺県政は、やはり、天皇メッセージは隠すべきだと考えたのだろう。
今回は、沖縄の人々の強い抗議で、その削除から復活ということになったが、アキヒト天皇が、沖縄戦の「悲惨」を語り、沖縄の「苦難の道」を忘れまいと語り、「沖縄の歴史と文化に関心を寄せている と語ることと、天皇メッセージを削除していく動きこそが、実は連動しているのである。
天皇が「沖縄の心」の大切さを説き、沖縄の文化と歴史への深い理解を示すことは、基地と軍隊を沖縄社会の中に大量に押し込み続けようという日本政府のあり方を、正当化することに通底しているのだ。
沖縄に関心が深いことを売りものの一つに「即位」したアキヒト天皇制の「十年」は、そういう「十年」だったのである。(『反天皇制運動じゃ〜なる』28号、1999.11.16日号)
《書評》
歴史家の魂に学んで、平和を創る
豊下楢彦編『安保条約の論理―その生成と展開』〔柏書房・1999年・2000円+税〕
立山紘毅●山口大学教員/憲法学
いささか私事になるが、あるシンポジウムで、戦後処理の中から安保条約が生成する過程にかかる編者の報告を聞いたことがある。
それは、前著『安保条約の成立』〔岩波新書・1996〕にも結実しているが、法律を専攻する者が安保条約に取り組むとき、主たる関心は条約の論理と、それが現実に果たす機能であって、歴史はそれらを理解するための補助である。それに対して、編者の報告は、厳密な史料批判の手続を通じて、戦後という時代の可能性と限界を見据えながら、吉田外交の実相を見きわめようとするものであった。それを支えていたのは、TMDという巨大な軍事支出を「対米交際費」として浪費する政治の無策に対する激しい憤りであったし、あえていえば、そこには「歴史家の魂」が脈々と息づいていた。
さて、本書は前著と違い、若い研究者との共同作業である。「あとがき」でも述べられているとおり、近年、高坂正尭に代表される「吉田外交」礼賛論の再検討が盛んになってきた。しかし、それらは、吉田外交が戦後世界政治の枠組で成立し、それに伴う限界を抱えていたという認識を共通にしていても、「今」という時代への評価が違う。つまり、新ガイドライン体制の採用という時代の大転換を擁護するためか、それを批判する文脈から再検討するのか、の違いである。
さらにいえば、本書の基本的立場は、ついに「神話」にさえ高められた「吉田外交」なるものが虚像にすぎなかったこと、そこに今日の「政策不在・外交不在」の原点があったことを示すところにある。それはすでに、「商人国家」を「理念」として、「パワー・ポリティクスを戦い抜いた」はずの吉田が、出発点において実は「基地提供」というカードさえ使いこなしていなかったことを前著は明らかにして「吉田神話」の虚構を暴露しており、そこに「天皇外交」が介在することさえ指摘されていた。それに加えて、吉田外交とその後が、「自立しようと動けば、必ずより深く取り込まれる」構造になっていることの根本に「安保の論理」があることを指摘するのが本書である。
その考察は多面にわたる。第2章では、行政協定締結の過程と同種の他国の協定とを詳細に比較し、「安保の論理」が他に比類のない属国化であることを論証している。第3章では、再軍備過程とその「代償」とされたMSA協定締結が、内実において、再軍備の意味さえ明確に考えることなく、MSA協定という実りの少ない援助を「おみやげ」に「安保の論理」に取り込まれたことを明らかにする。そして、第4章は、国内における反核・反米という「中立主義」の台頭こそがアメリカの戦略転換の動機となり、そこに「政策不在・外交不在」の日本政府が介在して、「より深く取り込まれる」構造を作ったことを指摘する。どれをとっても、新ガイドライン体制の「選択」が歴史の上でもつべき意味を強く自覚した考察である。
評者は、ジョセフ・ナイの著書に接したとき、ハード・パワー(=軍事力)は、ソフト・パワーを補うにすぎないものに地位が低下した、と断言するくだりに興味を覚えたことがある。どうもこの国では、ソフト・パワー=経済力と誤解されているが、実は、戦略の一貫性や「国家としての魅力」といった無形の要素を多分に含む概念である。そして、アメリカは人民の武装する権利を組織することを建国の基礎とするがゆえに、ハード・パワー抜きに成立できないが、日本はそうではない。してみると、アメリカの対日戦略の要は、日本がもつはずのソフト・パワーの威力を、日本人自身にさえ自覚させないことにあるようにも思われる。
歴史を学び、歴史に学ぶことの重要さは本書がよく教えてくれる。ことに、日本の民衆が透徹したソフト・パワーを駆使するとき、ハード・パワー抜きに成立できないアメリカは、この国の平和主義勢力が考えている以上に動揺することも教えてくれる。問題は、歴史に学んだことを、現実の社会を動かす力に転化することである。そして、それは学んだ者の意思なくして実現することはない。(『派兵チェック』No.86,
1999.11.15日号)
《書評》
山中恒・山中典子著
『間違いだらけの少年H――銃後生活史の研究と手引き』 (辺境社 五六〇〇円+税)
田浪亜央江●古書店員・学生
あまりにも有名な「少国民シリーズ」の作者というよりも、子供時代の良き友だちであった児童文学作品群の作者としてその「ファン」を自称する私にとって、山中恒とその連れ合いによる本書の刊行は、興奮に満ちた出来事だった。八百ページを超えるボリュームは、病気がちとも伝えられていた山中の健在を高らかに誇示しており非常に頼もしい。彼は『少年H』について、「昭和史がこんなものだと思われてはたまらない」「どれほど丹念にルビをふろうと、絶対に子どもにだけは読ませたくない」という思いで本書をまとめた。その執念の迫力は、「ファン」でなければしつこすぎて嫌気を催すだろうとさえ思わせるものだが、それが本書の持ち味でもある。
『少年H』は舞台美術家・妹尾河童の初の小説にして二百万部レベルのベストセラー。小説の形を借りた少年時代の自伝で、妹尾自身が言うところによれば全て事実であり、子供の眼で見た戦争の時代を伝えるために、後からの知識は一切加えず記憶に基づいて書いたものであるという。『間違い――』を読むに先立って慌てて読んだのだが、山中によって「間違いだらけ」であるという烙印を押されていることを知っての上での感想であることを差し引いても、「た」止まりが延々と続く小学生の作文のような文体にうんざりし、次に時制の曖昧さが気になりはじめ、「間違い」がなくとも読めたものではないと思った。神戸に住むキリスト教徒一家の戦争体験物語は確かに「感動」させる部分を持つし、個々のエピソードの面白さは卓越している。しかし、ひとつの文学作品を通して自分が知らない「あの時代」の一側面に新たに触れたというような重量感は、どうしても見いだせなかった。 山中によれば、『少年H』を読んで持つ異物感は、妹尾が『昭和二万日の全記録』(講談社)の第五巻と六巻に全面的に依拠し、エピソードをその年表にはめこんで書いたことから来る。それによる間違いは数多く、それだけでも問題なのだが、仮にこれらが「些細なミス」として無視されたとしても、山中の指摘の正しさは揺らがない。『少年H』が罪作りなのは端的に言って、当時の庶民には誰にも明らかになっていなかったこと(新聞が報道できなかったこと)について、あたかもきちんと新聞さえ読んでいれば知り得たことのように描き、その気になれば日本がおかしな方向に進んでいくことが(子どもでさえも)感知できたたはずだと教唆していることにある。ほんの一例だが、一九四一年の近衛内閣の解散の原因となった松岡外相の「対ソ開戦論」が明らかになったのは戦後なのに、主人公Hに「日本とソ連の間で、戦争をしないという不可侵条約をモスクワで結んできたのは松岡さんやろう。その張本人が、こんどはその条約を破ってソ連と戦おうというわけ?」と言わせ、「Hは、大人たちはなにしているんだ! と腹がたってきた」と書くのだ。
さらに驚くべきは、小手先の改竄である。私が最初に見た『少年H』は『間違いだらけ――』が出されたのと丁度期を同じくして出た文庫本であるが、当然『間違いだらけ――』では文庫版の内容については扱っていない。私は古本屋で単行本の第五刷を手に入れて比べてみて気付いたのだが、驚くことには山中が指摘した間違いの多くについて、話の筋に影響のない範囲で訂正がなされているのだ。近衛内閣の解散についてもこちらの記述では「その理由は、よくわからないが、内閣の中で意見が対立したのが原因ではないか、といわれていた」と、あっさりしたものである。『間違いだらけ――』刊行後に慌てて直したのか、それ以前に他の専門家の指摘を受けたのかは不明だが、これでは当初の『少年H』の「売り」の部分も自ら否定したことになってしまうのだ。単行本の帯に「大人も新聞もウソつきや」とあるように、『少年H』はいかにH(とその一家、特に父親)が冷めた眼で日本の進んでいる道を見、その中で「隠れキリシタン」のような妥協を強いられながらも毅然と生きたか、ということを伝えようとする物語なのだから。しかしあの時代に生きていてそんなことはあり得なかった、というのが山中の答えであり、そのことが『少年H』の間違いを指摘することを通じて充分に実証されているのである。
「昭和史がこんなものだと思われてはたまらない」という山中の執念は、単に銃後史の権威として「正しい歴史」を教えようとすることから来るのではない。あの戦争が、いくら賢くて好奇心旺盛で大人の打算を持たない少年にとっても「抵抗」出来ないような動員力を持っていたという現実をふまえることなしには、それを真に批判することは出来ない、という山中の確信によるのだと思う。ぜひ「あの時代」を生きたかつての少年少女たちの意見を乞いたいと思う。(なお、山中の論考を孫引きして『少年H』批判をなすことで、翼賛の「正しさ」を説いた小林よしのりのデマゴギーについては、稿を改めて論じたい)。(『反天皇制運動じゃ〜なる』No.28、1999.11.16日号)
《海外情報》
ゴラン高原の自衛隊
森田ケイ
前々号(第84号)の拙文で触れた「今年末に予定されているというヨルダンのアブドゥッラー新国王の公式訪日」について、11月5日付の「NHKニュース速報」は、同国王が11月30日から国賓として初訪日すると報じた。「来月(十二月)一日に天皇皇后両陛下と会見するのに続いて、二日には小渕総理大臣と会談する」という。
この記事は、「パレスチナ問題の最終決着を目指す交渉が進んでいる」、「当事者間の対話の促進を支援していく」、「ヨルダンで生活しているパレスチナ難民や観光事業への支援も積極的に行う」などとといった表現で埋め尽くされている。
現在の中東和平プロセスが、結局はイスラエル国家のイニシアチブと合州国の後ろ盾のもとで進行しており、それが今パレスチナ人たちに何を強いているのか、といった視点は、ここには一切、ない。このかんもパレスチナ人政治囚の釈放や西岸地区とガザ回廊の間の「安全回廊」の開通、西岸の「違法な」入植地の排除などがあった。しかし、これらの“進展”は、パレスチナ人たちが現在の「中東和平プロセス」という枠組みのなかでの「最終地位交渉」(前号の拙文を参照のこと)で“次の妥協”に否応なく直面させられる、ということをも意味しているだろう。
アブドゥッラー訪日の件に戻って、ここで指摘されるべき問題点は、このニュース速報では触れられていないが、ヨルダンの対外債務軽減を大義名分とする日本からの
ODA供与だ。本紙84号でも引用した7月28日付のJapan Times紙は、日本が今回の国王の訪日以前に「数十億円」を供与すると報じている。この数字の通りの援助額となるのかどうか、今のところ報道はないようだが、このレベルの金額ではヨルダンの対外債務を、せいぜい1%軽減するだけだ。
だから、この11月5日付の「NHKニュース速報」がそうであるように、どれだけ“実効”があるかとは全く無関係に、とにかく“和平バンザイ”的な言い立て方の中で、日本がその「中東和平」に対して積極的に貢献しているのだという、そうした姿勢(=イメージ)の宣伝がなされるだろう。
そして、こうした“国際貢献”は、自衛隊の継続的なゴラン高原UNDOFへの派兵とともに、日本の国連安保理事会常任理事国入りのための宣伝材料という意味もあると考える。結局のところ、“中東和平プロセス”も自衛隊派兵も、日本にとっては自らの“国益”のための“駒”でしかない。こうした脈絡のなかに、ヨルダン国王の初訪日も位置付けられるだろう。また、天皇との会見についても、“皇室外交”のひとつとして批判されるべきだと考える。
そして、もうひとつ、今回触れておきたいのは、来年2月に期限が切れるアラビア石油(日本が自主開発した油田の原油採掘会社)の採掘権延長問題だ。この交渉が、今やグシャグシャ状態にある。
アラビア石油は、サウジアラビアとクウェイトの間にある旧中立地帯で油田を操業しており、日本の原油輸入量の約5%を供給している。1957年にサウジアラビア政府と採掘権契約を行い、58年にアラビア石油が設立。さらに同58年にクウェイト政府とも採掘権契約、60年にカフジ油田が発見された。当時の日本政府の後ろ盾も受けて実現した“日の丸原油”であり、「日本貿易振興会のリヤド事務所長は、代々アラビア石油からの出向者が務めている。/一方で、元通産事務次官の小長現社長をはじめ、通産省からの『天下り』三人を社長に迎え入れ、『通産省の身内の会社』と見られている」(朝日新聞・7月30日付)。だからこそ90年の湾岸戦争の際には、同社のプラントが被害に遭いながらも駐在日本人社員たちは一番最後まで居残って操業を継続したし、この戦争の後の湾岸地域への自衛隊の掃海艇派遣については、アラビア石油社長の小長が“旗振り役”を大いに担った(例えば1991年4月12日付の共同通信「サウジが掃海艇派遣要請−操業再開急ぐアラビア石油」)。
そして同社の採掘権延長交渉のなかでサウジアラビア側から出されてきたのが「鉄道計画」。同国内陸部の鉱物資源を海岸部に運ぶ総延長約1400キロの鉄道で、「総工費約二十一億ドル(約二千二百億円)で、サウジ側が求めている二十五年間の運営にかかる維持費を含めた総額は五千億円近くに達する」(朝日新聞・10月8日付)という豪華なものだ。
さすがに日本政府も、これだけの“援助”には単純に「イエス」とは言えない。対案として、今後10年間で公的資金4千億円を使い、総額6千億円を目標とする民間投資の促進などという提案をしているようだが、しかし民間投資が進む保証は何も、ない。このかんの報道では、例えば7月14日付・7月30日付・10月8日付の朝日新聞の記事が詳しいが、石油の安定供給のためにはアラビア石油の採掘権延長は必要だという意見がある一方で、“たかだか一つの民間会社のために、それほどの公的資金の投入はおかしい”という見方も産業界にはあるという。
さらに11月7日付けの東京新聞は、「〔交渉の決着は〕ラマダン(断食)明けの来年一月初旬以降までもつれる可能性がある」との「石油関係筋」の見通しを報じた。イスラーム暦の次のラマダーン(断食月)は12月10日前後から来年1月6日頃までのはずだ。この断食は、イスラーム教徒にとっての重要な5つの義務の一つ。だから、この期間には“モノゴトは進まない”ということになる。サウジアラビアのような“タテマエはイスラーム”、しかし現実には米軍の駐留まで認めている国家では、なおさらだろう。すでに来年2月まで、交渉可能な日数は非常に限られている。タテマエとしては一つの民間企業でしかない、この会社の未来に貼られる“国益”の値札にはどんな数字が書き込まれるのか、注目が必要だ。(11月14日 記)(『派兵チェック』No.86,
1999.11.15日号)